それまで、周囲から浴びせられる音は色とりどりの感情を含んではいてもただの雑音だった。何らかの意味合いがあるのだろう。ぼんやりとは認識したが、それだけだ。
母と過ごしていた頃はただシンプルだった生理的欲求以外の感覚は悲しみと喜び以外にも複雑な表し方があるのだという知識との擦り合わせは捗ったが、詳細は正確さに欠ける。音声から意味合いへの変換が今ひとつであったのと発声器官が追いつかなかったのとで自分の状況をはっきりと伝えることもできず、ジッケンの進行はあまり芳しくないようだった。周囲で交わされる音声は日に日に不穏で攻撃的なものになり、ついでにジッケンも苛烈なものになっていった。自分はわけもわからず耐えているだけだった。苛立ちや、失望や、焦燥といった感情の嵐の中。
そういった経緯を言語化できたのはずいぶんあとになってからのことであったが。
「〜〜〜っぱりチャンネルがズレてただけじゃ…………」
ともあれ、ジッケン以外の時間帯にセワヤクとしてやってくる人物が発する雑音が「言葉」になったのはある日突然のことだった。
「わかるっスか? わかるっスね」
その時はまだその音声の発し方はわからなかったので、原子的なyesとnoの表出として首を縦に振る。世話役の男は拳を高々とあげた。
「……シャ!」
ざまあみやがれバレンタイン、と囁くように言ったその言葉は改心の咆哮で、バレンタイン、という音声はそういえば実験室にやってくる人間の中で最も偉そうにしている人物に向かって呼びかけるためのものである。
「トニー。おいトニー」
「……」
噛み合ってみればそれはこの世話役の男が自分を呼ぶために使う呼称である。呼ばれて顔を向けると、ホワイトと呼ばれていた世話役の男は満足そうに頷いた。
「魔法は使えるッスよね」
まほう。魔法だ。黒い球を出す魔法。優しくも温かくもない言い方ではあったが、なにかしら期待をされているようだった。また頷くと、その顔面に喜色が灯る。
「使い方を教えてやる。……教授に一泡吹かせてやるっスよォッ!」
その時の会話と言えば会話というにはあまりに一方的ではあったが、音声を言葉として捉えられるようになったのはありがたいことだった。その後の経緯も含めて良かったと言えるのはその一点に尽きるが、彼に教えられたことが無ければ自分は「役立たずの実験体」として早々に処分されていたのだろう。彼の言によれば。
「俺には感謝するッスよ、トニー」
感謝などは断じてしていない。が、言葉というものが知の光そのものであるというなら、この光が彼に与えられたものだということは、確か。