小早川秀秋はいわゆる気の弱いいじめられっ子ではあったが、芯のほうではどうやら図太い少年だった。彼をとりまくいじめっ子という連中がが誰から見ても恐ろしいという点で周囲の目は温かく同情的なものでもあったため、彼の学生時代は辛くもありながら総合して陰惨になりすぎることもなく過ぎているところである。
養父は多忙で家を空けがちだが、ご近所の目が温かいというのもひとつの要因だろう。少々太り気味の体躯と優柔不断な性格は同年代の少年たちからは疎ましがられるが、優しい風貌と性格は比較的高齢の女性には受け入れられやすいようである。
その彼が特に頼みとしているのは数年前に隣の空き地に教会を建てた神父の存在だった。それらしい建物、それらしい衣服にもかかわらず実は十字架を用いていないところを見ると神父ではないのかもしれない。
「私、神も仏も信じていませんから」
それに気が付いて秀秋が尋ねたとき、まだ若い、青年にも見える男はそう言った。ただこういう建物なら迷える方々が相談ごとを持ち込みやすいでしょう、と。
なるほど今では天海のやわらかな物腰と言葉の優しさを頼りに悩み相談に訪れる人は多い。しかし秀秋を含めそういった人たちが好意で手土産を持ち込むことはあっても、天海自身はそれに対する明確な報酬を受け取ることはないようだ。
「そういうのが好きなんですよ。人の悩みを聞くのがね」
特徴的な長い白髪と顔の半分を隠す覆面について尋ねられると、天海は少々大きな病気をいたしましてと軽く答える。気を悪くする様子もないが、その病気とやらの経験が今の彼を形成しているのかもしれないと秀秋は思う。天海はとても優しい。
ただ養父に代わって食事を共にすることも多く秀秋自身はその覆面の下を見る機会もあるのだが、隠さなければならないような傷や痕があるわけではなく、ただ、少々生白すぎる、整いすぎた素顔があるだけではある。
このところ流行りの風邪が猛威を奮っている。近所の商店街でも誰それが倒れたらしい、誰それの具合が悪いらしいという話を聞くことができた。
「そうそう神父様も具合悪そうだったぜ」
八百屋のアルバイトの青年の周囲でも蔓延していると聞いた隣から、肉屋の店主が口を添えた。
「天海様も?」
寝耳に水の話題に、秀秋は目を丸くした。そう言えばこの二、三日隣の庭に姿を見なかった気がする。きっと学年末試験でばたばたとしていたせいだろう。
「ああ、あのお方も線の細い方だからなあ、体も弱そうだもんなぁ」
秀秋はにわかに恐慌状態に陥った。まったく気が付かなかった自らの落ち度と、日常から儚げな気配を漂わせている人の危機を想像したからだ。
こうしては居られないと慌てて残りの食材を買い求め、秀秋は急ぎ自宅へと走った。
「天海様、具合、どう?」
自宅スペースは、意外なほど小さなものだ。少々広めのダイニングに水回り、あとは寝室とで構成されている。大事なものは大体仕事場においてありますので、と常日頃言うとおり、一階にこそ秀秋の知らない部屋がたくさんある。
ともあれ呼びかけに答えて玄関に現れた天海はお世辞にも具合が良いとは言えない様子だった。もとより色の白い人が今は一層青白く見えた。寒々しい手首の透き通るような細さが胸をぎゅっとさせる。
「ごめんなさい、起こしちゃって」
玄関先に幽鬼のように立つ天海は突然の訪問にもけして声を荒げることはしなかった。
「……どうしたんです、金吾さん」
「あの、天海様の具合悪いって聞いて、心配だったから!」
「それはどうも、傷み入ります」
ただし、いささか無表情な声ではある。当たり前だ、熱のひとつも出せば誰しもそういうものだろう。
秀秋は慌てて言った。そうしなければ追い返されてしまいそうだったからだ。
「顔色悪いよ、天海様。ちゃんとご飯食べたの?」
「はぁ、そういえば昨日の昼間から水しか飲んでいませんねぇ」
「ダメだよ、そんなんじゃ! ……ほら、中に入って!」
勢いをつけて玄関に押し入り、ついでにリビングを兼ねた寝室へと追い立てた。食べることは大切である、とは、他ならぬ天海が言うことだったので、秀秋はがぜん意気を上げた。来て良かった。本当に来て良かった。
「待っててね、天海様。ちょっと台所借りるね。すぐにできるから」
買い物袋を鳴らすのを見ながら天海は溜め息をついた。煩わしさを隠しきれないそれはけしてわざとではないが、秀秋は気が付かなかったようだ。
「金吾さん、有り難いのですが生憎私、あまり食欲が」
「ダメだよ!」
思いのほか強い声が出てしまったので、秀秋は今度は肩をすくめてしまった。天海が目を丸くしてそれを見る。
「……ちゃんと食べたの見たら帰るから」散々躊躇したあとで、恐る恐る、続けた。珍しく天海が沈黙したのが、許可のようだった。
「はい、どうぞ。野菜たくさんだし、小十郎さんのとこのネギも入れたし、栄養つけてね!」
秀秋は茶碗を乗せた盆を膝の上へと差し出してきた。料理は得意な方だ。養父が忙しい人だったので自然に身につけたし、食べること自体が好きなこともある。天海自身こちらに引っ越してきてから食事を振る舞われたことも少なくなく、味については何も心配はない。
「はいはい」
天海は小さな嘆息をひとつ、少しばかり投げやりに頷いて匙をとった。この状態では味などわかるまいと思いながら口に入れたが、なるほど野菜の出汁を効かせた雑炊は柔らかく温かく、喉を通るものだった。
美味しいです、と大げさでなくつぶやくと秀秋はあからさまに嬉しそうにした。
「良かった! ゆっくり食べててね。僕片付けてるから!」
一口、また一口とゆっくりとながら口に運ぶのを確かめて、秀秋は再び台所に立つ。あまりじろじろと見るのも良くないと思ったからだった。
天海は言われた通り、ゆっくりとそれを胃に入れた。咀嚼し、飲み込むのは苦痛ではない。さして散らかってもいない台所を片付けながらこちらを伺う視線も、不思議と煩わしくはない。
やがて時間をかけて食事を終えた天海がごちそうさまでしたと丁寧に言う、それをはかるようにして秀秋は膝の上から食器を引き取って、代わりに薬を勧めた。
促されるまま口に入れる薬、水は味がしない。
「じゃあ天海様、しっかり休んでね。片付けたら帰るから」
少しだけ水の残ったグラスと空になった食器と一緒に立ち上がる秀秋が妙に頼もしい。天海は促されるまま再び体を横たえる。
「……すみませんねぇ」
棒読みのようになったが、手は温まったようだった。先ほどよりも。秀秋の手が布団の端を口元まで引き上げま。
「たまには僕だって役に立つよ」
こういうときくらい、と卑屈に笑った顔を見て、天海は肯定か否定を口にしようとしたが、結局それについては言を控えることにした。
「ありがとうございます、金吾さん」
それよりもと代わりに出た謝辞を受け取って、秀秋の丸い頬は自嘲的でなく綻んだ。