うそつき異文化コミュニケーション 海外は日本と違ってスキンシップが多い。あまりにも違う文化にはまだ戸惑いっぱなしだ。ようやく恋人になれた彼相手にそれを「文化だから」と言われても納得できない。
「いいかげん慣れたらどうだ。挨拶ひとつままならないのは問題だぞ」
「付き合う前はこんなのしなかったでしょ!」
「お前の文化圏に合わせていただけだ。この程度で騒ぐな、まだ大したことはしていない」
恋人になってから私の部屋で二人きりの時、加えて彼が部屋を出て行くときだけの習慣が増えた。いわゆる『おやすみのキス』。
軽い挨拶のキスが額や頬に触れる。だけど甘い雰囲気もコイビトにだけ見せる優しい表情もない。キスなんてしておきながら「おやすみ」といつも通りの顔で言うと帰っていくのだ。まるで恋人じゃなくて親みたいに。
ドキドキしているのはこちらだけなのだ。彼にとってはただの挨拶だから。それはなんだか悔しい。
彼の挨拶は日によって少し違う。しかも遠慮がなくなってきている、ような気がする。だんだんと自分の慣れた挨拶の仕方に合わせようとしているのだと思う。今でさえ慣れない挨拶が本格的なものになったら一体どうなってしまうのか……!
知らない挨拶をいきなりされたら心臓に悪い。そう思って図書館で「世界のあいさつ」という本を借りた。彼の国挨拶を先に知っていれば先に心構えができるに違いない。
(えーと、デンマーク……デンマーク……)
ヨーロッパ圏のページをめくりながらどんな挨拶が飛び出すのか、ドキドキする。
「マスター、入るぞ」
「えっ」
おざなりなノックとともに恋人が突然部屋を訪れる。タイミングが悪い!
「食堂のやつらがパンを焼いている。もうすぐ焼けるところで……何を読んでいるんだ?」
「……!」
本の表紙が彼の方に見えている。問いは何の本を読んでいるのか、ではなくなぜそんなものを読んでいるのか、ということだ。
「え、ええと、その、」
どんな挨拶がきても緊張しないようになりたくて、と言うのは恥ずかしい。
「その様子では異文化の知見を広めよう、という話ではなさそうだ。よし、今すぐ返却しろ、お前には必要ない」
説明しなくても何で借りたのか悟られてしまう。目にも止まらぬ素早さで、いつの間にか本は彼の手元に渡っていた。
「調べたところで意味がないからやめておけ。余計なことは考えず実体験を重ねて慣れるしかない」
「じ、実体験……」
油断も隙もなく、するりと私を抱きしめて彼がそう言う。だから、これに緊張しないようになりたいのに!
「まぁ、俺としてはさほど慣れる必要性は感じていない」
「っ! アンデルセン!」
私が戸惑うのを見て楽しむなんて悪趣味だ。
「心配しなくてもすぐ慣れる。ただの挨拶だ」
額に触れる唇に、挨拶だなんて言われても困る。
「日本ではこんな挨拶ではしないの!」
相変わらず涼しい顔で彼が唇を頬へ移動させる。こっちの話なんか全然聞いていないのだ。
――デンマークでは挨拶のキスの習慣はない。そのことを私が知るのはずいぶん後の話だった。