あともう一枚、もう一分 カルデアに、二人目のハンス・クリスチャン・アンデルセンが召喚された。
微小特異点で縁を結んだことがきっかけとなったのだろうか。召喚された当人はわたしと会った記憶など持っていなかった。
彼とはじめまして、これからよろしくと挨拶を交わして数日。カルデアではちょっとした問題が起きていた。
自室でのんびり休んでいるところに付き合いの長い方のアンデルセンがやってきた。いつものことだ。気まぐれな猫のように勝手にわたしのベッドに横になってくつろぎ始める。
ところが、機嫌の良かった彼がテーブルの上を見た途端に雰囲気を変えた。目線の先にはクッキーの缶。
「……これはどうしたんだ、マスター」
「あぁ、それ? それはもう一人のアンデルセンがくれたやつだよ。すごく美味しいの」
「早速餌付けされているのか」
盛大にため息をつかれて、こちらも苦笑する。
背の高い彼がわたしにお菓子をくれるのは、親鳥が雛に食事を与えるのに似ている。もしくは親に内緒でおこづかいをくれるおじいちゃん。
「どうも君は物好きなようだからくれぐれもよろしく頼む。まぁ物好きにも限度はあるものだ、忠告くらいはしておこう」……なんて言われながら渡されたクッキー。
どうやらわたしの片想いはやってきたばかりの彼にも筒抜けのようで大変に恥ずかしい。
「危機管理能力のないやつめ。何でもかんでも気安く受け取るな」
「別になんでも貰ってるわけじゃないよ!」
別側面とはいえ相手はアンデルセン。わたしに怪しい物を渡すとも思えない。
「なるほど」
「アンデルセン?」
彼がベッドから離れてクッキーを手に取る。缶を開けると中から一枚取り出して、私の方に差し出してくるのだ。あと少しで唇に押しつけられそうな距離感。
「え、何……?」
「なんだ、俺からは受け取れないのか? そら、いいから早く食べろ、腕が疲れる」
「そんなこと言われても」
まるで俺の酒が飲めないのかっていってくる人みたいじゃないか! ……とは思うものの、アンデルセンは睨むような勢いでこちらを見ながらクッキーを差し出している。
原稿で徹夜が続いている時に並ぶほどの威圧感に負けて口を開けるしかなかった。
クッキーが砕ける音が部屋に響く。
さらに飲み込んだ途端、アンデルセンがわたしの横でまた新しいクッキーを構えるのが見えた。
「一枚で十分だよ! ご飯食べたばっかりだしお腹いっぱい!」
不満そうにクッキーを持ち続ける彼をどうにか納得させるために必死に説得する。
何より餌付けのような状況が落ち着かない! 彼にとってはそんなつもりではないのだとしても、まるで……まるで、恋人同士がやる「あーん」、みたいなイベントに思えてしまって、勝手にドキドキするのだ。正直美味しいはずのクッキーの味でさえよく分からない。
対してアンデルセンといったら涼しそうな顔で、これならペットに餌をやる時の方がいくらか良い顔をしそうだ。
――だけど、こんな風にされればさすがに少し期待してしまう。
「……もしかして、ヤキモチ?」
「なにがヤキモチだ、馬鹿馬鹿しい」
ほんの少し、僅かに抱いた期待をあっさりと否定された。慣れ親しんだ毒舌に、まぁそうだよねと自分を納得させる。
……けれどこんなに別側面の自分に対して対抗してくるのだ。何とも思ってない、なんてことはきっとないはず。
それが例えば「仲の良いお友達を取られるかも」とか「ワシの孫に粉をかけるな!」みたいな気持ちだとしても、あるいは気に入っている野良猫に餌をやりたいくらいの気持ちだとしても! それもある意味ではヤキモチに違いないのだから。
(本当〜に何とも思ってない? 少しも?)
「は、眺めたところで何も透けて見えやしない。時間の無駄だぞ」
探るように向けた目線をあっさりと躱されてしまう。しかも彼はいつの間にか手に持っていたクッキーを食べている。……勝手なんだから! それにもう少しくらい動揺してくれたって良いじゃないか!
「何を拗ねている。俺は咽せ返るほどの種火に夢火、ありとあらゆる霊基強化を施されているんだ。さすがにお前の贔屓は自覚しているぞ? 過度な嫉妬も馬鹿らしくなるほどにな」
「それは、その……!」
彼から直接そう言われると顔が熱くなる。霊基の強化はあくまでサーヴァントとして、と言えても強化には特に関係のない夢火については何も言い訳ができない。
言い訳をしたところで自分の好意はとっくに筒抜けているだろう。でも、こんな風に彼から直接指摘されるのは初めてだった。
「まさか今さら鞍替えするつもりもないだろう?」
「鞍替え!?」
「古参には古参なりの矜持があるというものだ。勇者ではなく物書きの端くれだとしても」
アンデルセンはクッキー缶のフタを閉じながら続けた。
「こんなクッキーくらいで奪われるとも思っていないが! ……だがまぁ、これは俺が預かっておく」
閉じたばかりの缶を抱えながら、アンデルセンはさっさと部屋を出て行ってしまった。
ポカンとしながら見送って、後からじわじわ出来事を振り返る。
(お前の贔屓は自覚しているぞ? 過度な嫉妬も馬鹿らしくなるほどにな)
「馬鹿らしいって言ってたのに」
――そんなことを言っておいて、結局クッキーを持って帰ってしまったじゃないか。
もしかして都合よく、ヤキモチだったと解釈しても良いんだろうか。まさかクッキーが気に入っただけ、なんてことはないはずだけれど。「解釈は読者の自由だ、俺に意見を求めるな」……そう彼が言うような気がしてならない。
「お腹いっぱい、なんて言わなきゃ良かったかな」
たしかに満腹だったのに、持っていかれたクッキーが恋しくなる。
もう一枚くらい彼の手ずから受け取ったってバチは当たらなかっただろう。恥ずかしくてそれどころじゃなかったけれど、少し冷静になった今はそう思う。普段はそんなこと、ありえないのだから。
部屋から消えたクッキー缶と、気ままな彼の後ろ姿。
夜が更ける間、そこから意識を逸らすことはできなかった。