酔いならとっくに間に合っているので デートの帰り道、駅の出入口付近でまた今度とお別れする。次はいつ会えるだろう? デートの約束をする前に締切に追われる彼に差し入れをすることになるかもしれない。
外に出かけるのは珍しい。だからもう少しだけ一緒にいたいのに、そろそろ暗くなるだとか急かされて夕暮れ時の帰り道。まったく、わたしは子どもじゃないのに彼は少し過保護なのだ。
バイバイと手を振ってすぐに駅の方へ歩き始める。振り向いてしまえば名残惜しくて帰れなくなるから、振り向かない。
だけどここ数ヶ月はお互いに忙しくてずっと会えなかった。それなのに別れ際の彼ときたら早く帰れとそっけない。いつもよりずっと名残惜しくて、一秒だけ、少しだけと心の中で言い訳する。一目だけ、彼の後ろ姿を見たい。それくらいはいいじゃないか、と。
――はじめて、デートの帰り道に後ろを振り向いた。
「えっ」
人混みの向こう、青色の瞳がこちらを見ている。目があった途端の驚いた顔。わたしだって多分同じような顔をしている。真正面から顔を合わせるとは思わなかった。
驚くような速さで人の合間を縫いながら、彼はわたしの目の前までやってくる。
「何か忘れ物でも? 言い忘れなら後でスマホにでも送ればいいだろう」
「忘れ物でも言い忘れでもないよ」
デートが終わった後に一度も振り返ったことはないけれど、まさかまだこちらを向いているなんて。……いつも、こうなのだろうか。デートが終わった後に私が駅の中へ消えるまでずっとこちらを見ていたりして。
ひょっとしてわたしと同じように、まだ離れがたいと思っていてくれたりして。
「何だその間抜け面は」
「だって」
こんなの、嬉しいに決まってる!
今、目の前でこれ見よがしにため息をついて心底面倒そうにこちらを見ているくせに、駅へ歩いていくわたしをずっと眺めていたのだ。
「……好きだなぁと思って」
そっけない態度に寂しくなったのも、早く帰れと言われて少し拗ねたのも忘れてしまいそう。
「まったく、君はなんだって今日に限って振り返るんだ」
気まずそうに頭を掻く嫌そうな顔。今さらどんなに悪態をついても意味がない。
分かりにくい彼のささやかな愛情表現に偶然気がついた。それなら遠慮する必要はない。
「ねぇ、この後空いてる?」
家に帰ってだらだらして寝るだけだってもう知っている。締切は終わったばかりだ。
「予定なんぞ聞いてどうする。僕の休暇は短いんだ、家でゆったりと椅子に腰掛ける時間も貴重な用事だよ」
「美味しいおつまみとカールスバーグを出すお店を知ってるんだけど」
「酒飲みでもないくせに」
「うん。でもアンデルセンはお酒好きでしょ?」
料理が美味しくて、オシャレで雰囲気の良い、夜のデートスポット。今日を逃したら誘えない気がする。
「……僕を酔わせても面白いことはないよ」
普段なら彼は「くだらないことを言ってないで早く帰りなさい」くらいは言う。もうひと押しで折れそうだ。
「良い取材にもなりそうなお店なのに」
「…………」
案の定、すぐに断らない。機嫌悪そうな顔で、長いため息をひとつ。
「……ひとつ断っておくけどね」
「なに?」
「恋人を飲みの席に誘っておいて終電に乗れるなんて思わない方がいいよ」
「!」
君はそんなことは微塵も考えていないだろうけれど僕はまだ都合良く明日も休暇の身だ。
早口で捲し立てるように流れていくセリフに目を回しそうになる。
「だから、大人しく帰ったほうがいい。今すぐに」
「あのね、アンデルセン」
「なんだ、長話なら帰ってからスマホに、」
「わたしも明日、休みなんだけど」
「は……?」
「終電の心配とか、別にしてないけど」
「いや、待てそれは、」
もうひと押しで折れそうだと、思ったのは間違っていないはず。
「……帰らなくちゃダメかな?」
「そんなもの僕に聞くようなことじゃない。責任を持って自分で決めなさい」
「もう、帰さないって言ってよ!」
「委ねられても身に余る。とにかく言い分はわかった。だがまぁその店はまた今度だ」
「えっ行かないの⁉︎」
絶対折れると思っていたのに! でも折れないと決めると彼はなかなか手強い。今日は諦めるしかないだろう。
「……それじゃあ、残念だけどまた今度ね」
大人しく日が暮れるまでには家に帰ることになりそうだ。
「誰が帰してやると言った?」
駅へ向かおうとしたわたしの肩を大きな手が掴んでいる。
「まったく煽るだけ煽っておあずけなど愛玩動物も受けない仕打ちだ」
「だ、だって行かないって……」
「あぁその店ならまたの機会にでも」
その言い分はよく分からない。
「僕は店で食事するより君の手料理が食べたい。……大体、重要な時に酒で記憶を飛ばしている場合じゃないだろう」
まだ不機嫌な彼が赤い顔をしてそんなことを言うから、わたしもつられてしまう。
「……材料、買い出ししなきゃね」
駅へ向かう足を止める。行き先は最寄りのスーパーに変更。オシャレなお店も終電も全部見送って、最終地点は彼の家。明日は二人揃っておやすみの日。
夕飯の材料なんて全然思い浮かばない緊張の中、彼に手を掴まれている。……逃がさないと言われてるみたいだ、わたしはそう思いながら彼と並んでスーパーへ歩き出すのだった。