すぺしゃる☆りらくぜーしょん――恋の温泉ハプニング――「採用だ!この大アマゾネス温泉物語でイニシアティブを握り続けろ!」
ここは大アマゾネス温泉物語……またの名を、健康ランドとも言う。
人手不足だか何だかですぐに採用が決まったアルバイト。バイトを始めてすぐに知識として叩き込まれたのは数名の常連客についてだった。
「一週間のうち半分くらいはここにきてる客なんで、顔とか覚えておいた方がいいッスよ」
先輩についてまわって仕事を覚えるとき、そう言われて覚えようとした顔の中でも一際気になる人物。
(あっ、今日もあの人来てる)
青い髪、わたしよりも小さな背丈の小柄な人影。先輩によると、時々零時を越して朝までここにいることもあるみたいだ。
零時を過ぎて新しく料金を回収するときに保護者確認をする必要はないと念入りに先輩に言われている。……何かトラブルでもあったんだろうか。
見た目はどう見てもわたしよりも年下じゃないかというその人は保護者なんて必要ない、それどころかたまに食事スペースでお酒を飲んだりしてるらしい成人男性なのだ。
今日は難しい顔をして読書スペースの机の上で何かを書いている。真っ黒な羽ペンが紙の上をサラサラと進んでは、紙を丸めて丁寧にゴミ箱にシュート。(絶対に外さない。きっと紙を丸めて捨て慣れてる)何を書いているかは分からないけれど、どうやら上手くはいっていないらしい。
(何のお仕事してる人なんだろう。平日にしょっちゅう泊まりがけでここにきてるみたいだし……そもそも働いてるのかな。もしかして大学生?)
気になる。見た目は儚げで華奢な美少年なのに大人だなんてどうなってるんだろう。読書スペースで散らかされた漫画本を元の棚に順番に戻しながら考える。
常連客だからここに長く勤めている先輩とは顔見知りというか、おしゃべりしているところを遠くから見かけたこともある。でもわたしはまだ彼としゃべったことはない。しゃべったらどんな感じなんだろう。
「お嬢ちゃん、ちょっと横座って相手ししてよ」
「……えっ!わたしですか?あの、お仕事中ですから、」
考え事から現実に引き戻される。辺りに漂うお酒の匂い。酔っ払いだ。読書スペースでの飲食は禁止だけれど、食事ができるスペースから移動してきたのかもしれない。
「お客様の相手も立派な仕事でしょ! 大丈夫だよ、俺は常連だからほかの従業員が来たら追い返してあげるって。いやぁ、それにしてもカワイイねぇ、何歳? 学生さんかな?」
「あの……」
どうしよう、まだ先輩には聞いてない常連のお客さんみたいだ。いつも利用してくれているお客さんだと思うと強く出られない。基本的にお酒を飲んで絡んでくるようなお客さんはあまりいないと聞いていたんだけどなぁ。
「おい、そこの新人アルバイト。スイーツコーナーのパンケーキを足してくれ。もうすぐなくなるぞ」
お客さんの対応に困っていると、どこからか声をかけられる。聞いたことのない低い声。
(助かった…!)
「はいっ!……すみません、失礼します!」
「あ、ちょっと!」
また引き止められる前に一目散に読書スペースを離れてしまわなければ。……その前に助け舟を出してくれたお客さんを覚えておかないと。後でお礼も言いたい。
早歩きの準備を始めながらさっきの低い声の主を探す。今の時間、この読書スペースには人が少ない。
声をかけてきた酔っ払いのおじさん、
雑誌を読んでるお姉さんと、
それからもう1人。
かちり、青い瞳と視線が合う。
(さ っ さ と い け)
口パクと追い払うような手の仕草。
(え、だって今の声は……)
「在庫の補充なんて、そんなの他の従業員でもできるでしょ?」
グズグズしているうちにまた酔っ払いのお客さんに絡まれてしまう。話しかけられると邪険にするわけにもいかないから困ってしまう。
「バイトに入って早々に職務放棄とは、嘆かわしいな。鬼のようなCEOにふざけた名前の鉄球で嬲られるぞ」
「! ……失礼します!」
「待っ、」
「ところでそこのお前。ここに通って長いらしいな。控えめに言っても週の半分はここにいる俺でも微塵も見たことのない顔だが……俺とは生活リズムのやつ違う人間なのか? それとも影が薄すぎて俺の記憶に残りもしないだけか? 何、心配は必要ない。俺はこの施設の¨常連¨だ。お前が他の従業員に助けを求めようとも、追い払うなりお前を出禁にさせるなり対応を求めるとしよう。より金を落とす方に味方するのは店側の誠意でもある。こんなに騒がれては俺の快適な生活に影響しかねない」
何だか物騒な雰囲気とセリフを背後から聞きながら読書スペースから退散する。それにしても。
(声、低っ!)
姿と声の辻褄が合わない。声だけ聞けば、とても年下には思えないその人。なるほど、確かに大人の男の人だ。……後で厄介なお客さんから助けてくれたお礼をしたい。
(わたしより背が低いのに、あんなに声が低いんだ)
耳障りのいい低音になぜだか心が引っ張られる。酔っ払いに絡まれた不安からなのかそれともあの声を聞いたなのか、ショックでまだ心臓がバクバクいっている。だからつい、たどり着いたスイーツコーナーで、在庫が少なくなっていたパンケーキのケースを確認しながらぼんやりしてしまう。……わたしを助けるために適当に言い繕ってくれたのかと思ってきたけど、本当にパンケーキが足りなくなってきているみたいだ。
(後でお礼を言いに行かないと)
美少年の印象が、不敵な大人の男にすり替わる。
藤丸立香、十九歳。
これが男のギャップに大層弱い彼女のドタバタバイト生活の始まりだった。
ーーこの時のわたしは、これから彼と一緒にこの施設でトラブルに巻き込まれてしまうなんてまだまだ知りもしなかったのだけれど。