ギィ、と鈍く気のしなる音を響かせながら、ブラックスカル号が穏やかな夜の海を進んでいく。
船員達に支持を出しながら、バレルは舵を取りつつ、ネックレスにつけたコンパスを見る。そろそろか、と思った同じタイミングで、伝声管から船長室にいるコルテスの声が響いた。
「停泊するぞ。準備しろ」
その声と共に、船員達が持ち場へと動く。
バレルが船を大きく旋回させ、帆が逆方向に風を受けて船が止まったのを見計らい、畳帆して錨を落とす。
停泊灯の役割をするエルモス達が一か所に集まると、辺り一面が明るくなった。
船が無事に止まると、一気に安堵の声が上がった。
「おつかれさまです、バレルさん。一次はどうなるかと思いましたけど」
「ああ、おつかれ。まあ、自然現象だ、こればかりはどうしようもないからな」
「最小限で済んで良かったですね。……コルテス船長、大丈夫ですかね」
「アイツの事だ、なんら気にすることはない」
「はは、バレルさんがそうおっしゃるなら。……オレたちはこれから食事にしますけど、バレルさんもご一緒にどうですか?」
「いや……先にコルテスのところに寄っていく。これからの進行先の件で話があるからな」
「わかりました、それではお先に」
「ああ」
客室へと下りていく船員達を見送ったあと、踵を返して船長室へと向かいながら、夜空を見上げる。
今夜は、不気味なほどに美しい満月だった。
「入るぞ」
「……ああ」
ノックをして、中にいるコルテスに声をかける。
普段よりもかなり低い声に、やれやれとため息を一つ落としながらドアを開けた。
相変わらず、船長室には現役時代に盗み出した大量の金貨や宝石があちらこちらで光り輝きながら散布されている。
そしてその部屋の一番奥で、この宝の山に沿ぐわぬ机の前でしかめっ面をしながら腕を組んで座っている大男が一人。
表情からして、かなり機嫌が悪いらしい。
コツコツと机を指でつつき、卓上に置かれた地図を睨みつけている。
「なんでよりによって今夜なんだよ!クソッ!」
「仕方ないだろう。相手は自然現象だ」
「ンなことわかってるっつーの!!……あー腹立つ!!」
鞭のようにしなる骨の尾が、ドン、と床を叩く。
振動に揺られて、山積みにされた金貨が少しだけ崩れた。
今日も朝からいつも通りの渡航を行い、荷物の受け渡し作業をして、問題なく帰路についていた矢先で緊急連絡が入った。
海域の一部で大嵐が発生し、その場所が普段使う帰路にものの見事に被っていたのだ。
引き返そうにも船は既に沖に進んでしまい、仕方なく大きく迂回することになったことで、帰りが丸一日伸びる事態になってしまった。
大嵐の規模が然程大きくなかったことと、帰路だったことが幸いだった。それだけだったなら、コルテスはこんなにも荒れることはなかった。
いや、それを含めても今のコルテスの態度は目に余るものはあるが。
その理由は、今夜は満月だったということだ。それが何を意味するのかは、コルテスとバレルだけが知っている。
月の光を浴びたコルテスが生前の姿に戻る、一ヶ月に一度の大きなハンデを負う日。
大嵐の一件から、地図を見ながら指示を出すという体で室内にいたが、実際は事情を知っているバレル以外の人物に生前の姿を見せないようにするための対策だった。
そしてもう一つ、この日に行う筈だった、二人にとって大切な事。
小さな島にある洞窟の中で二人、秘め事に耽る夜を過ごすこと。
あの日から始まった特別な関係は、気がつけば満月の日を何度か経験し、そのまま慰め合いは続いていた。
本来ならば、とっくにすべての仕事を終えて二人きりの時間を過ごしているはずだったのだが。
「こういう事が起きる可能性があったのは重々考えられたことだろう」
「まだ雲で何も見えねぇ状態になってくれてたら諦めつくのによ。……いやそれもムカつく」
「まあ、また一ヶ月待てばいいだろ」
「いッ……」
バレルの言葉に、勢いよく立ち上がる。腕を震わせ、今にも爆発してしまいそうな程に激昂するが、すぐにバツが悪そうに目を逸らし、舌打ちをしながら再びどかりと座った。
「とりあえず、その態度をなんとかしてくれ。船員たちに気を遣わせるんじゃない」
「…………オレ様に指図するな」
「コルテス」
「もういい。出ていけ」
瞬間、まとわりつくような、ひんやりとした嫌な寒気が身体を覆ったのと同時に、気のせいか否か、部屋の中の照明が薄ら暗くなった気がした。
違和感に気づいたバレルは睨みつけてくるコルテスの顔を見ると、逆光がかかったかのように表情が見えず、代わりに青い目だけがいやに光って見え、そして、なぜか酷く殺気を感じた。
これ以上ここにいては危険だと判断したバレルは軽く首を振り、わかった、と声をかけて仕方なく部屋を後にした。
遅れて船員達と夕食を摂りながら談笑し、シャワーを浴びて自分の部屋で一息ついた頃。
どうにも眠る気が起きず、バレルはベッドに腰掛けていた。
家から持ち込んだ本も読み終えてしまい、かといって読み返す気もなく、急に手持ち無沙汰感に襲われる。
普段なら直ぐに眠りに落ちる事ができていたのにと考えていると、ふとコルテスの事が気になった。
誰しも機嫌が悪いときがあるとはいえ、さっきのコルテスは完全に癇癪を起こしている子供のようだった。
それに、最後に見せた、今までにない殺気。
いくらなんでも、あそこまで荒れるのはやや異常に思える。
⸺様子を見に行くくらいなら、構わないだろうか。
どうせ眠れないならと、風に当たりに行くつもりで、バレルはベッドから立ち上がった。
「コルテス、いるか」
船長室の前で、さっきと同じようにノックをしても返事はない。そっと船長室の扉を開けると、消灯されてはいるものの、机の後ろにある大きな窓から差し込まれる月光で、十分に室内は明るかった。
コルテス自身は部屋にはおらず、静寂だけが広がっている中、もう寝たのかと部屋を出ようとした瞬間。
ガタリ、と確実に部屋の奥から物音がした。
「……コルテス?」
怪訝に思いながらも、机の横にあるコルテスの寝室のドアの前まで歩を進める。
ドアノブに手を伸ばすと、鍵は掛かっていなかった。
不用心な、と思いながらも音を立てないようにそっと開く。何もないなら、直ぐに部屋を後にしようとした、のだが。
「……!」
隙間から見えたものに、思わず目を見開いて息が詰まる。突然自分の周りの時が止まったかのように、身体が言うことを聞かなくなった。
部屋にコルテスは確かにいた。いたのだが、想像していなかった事態が目の前で繰り広げられていた。
満月の光が大きな窓から差し込まれ、ベッドの中で横になっているコルテスを照らし、生前の姿になって横たわっていた。
自らの猛り勃った陰茎を手で扱き、荒く呼吸を繰り返しながら。
「あ……っく、ぅ……ンッ」
頭が、手が、大きな尾がシーツを滑り、一人で自慰に耽るコルテスがいた。
よりにもよって、とんでもないところに遭遇してしまった。そもそもここはプライベートな部屋であって、覗いていい場所ではない事を今になって気がついた。
ただ様子が気になったという理由で、入り込んでいい空間ではない事に気がついた。
離れなければいけない。見てはいけない。そう、わかっているはずなのに。
月に照らされ、艶かしく声を上げながら身体を捩らせるコルテスの姿から目が離せず、足も鉛が乗っているのかと錯覚するほどに重く動いてくれない。
普段絶対に見せない、眉を顰めて歯を食いしばり、自涜に耽る様を瞬きも忘れて見つめ続け、コルテスが不意に顔の向きをこちら側に動かした瞬間。
ばっちりと目が合ってしまった。
⸺しまった。
そう思ったときには、もう遅かった。
「うおっ!?」
突然、ドアがひとりでに勢いよく開いたと思えば、背中に突風を受けて足が部屋の中に無理矢理押し込まれ、再びドアが勢いよく閉じた。
身体がよろけて持直す暇もないうちに、バレルの身体に蛇の尾がぐるりと巻きついて、コルテスの目前まで引き寄せられた。
「……見てたな?」
「あ……その」
「バレルのすけべ」
クク、と力無く笑い、上体を挙げる。
状況が状況なだけに、なにも言い訳が出来なかった。
「夜這いとはお見逸れしたな。伝説の船乗りさんよ」
「ち、違う!ワシはただオマエの様子が気掛かりだっただけだ!あんなに荒れていては明日の航海に支障をきたすと思って……」
「んで覗きに来たってか。はー、とんでもねぇときに来やがったもんだな。……本当に、とんでもねぇときに……」
言うと、コルテスの身体がぐらりと揺れた。同時に、巻きついていた尾の締め付けが緩んだのを見計らい、身体から引き剥がして慌てて一歩後退った。まではよかったのだが。
見ると、どうにもコルテスの様子がおかしい。
一人耽っていた名残りで力が入らないのかと思っていたが、そもそも調子が悪いようにも見える。
紅潮を見せる顔と、とろりと座った橙の目。大きく上下する肩に、全身から吹き出している汗。
まるで風邪を引いているような状態だった。
「コルテス……?どうした?」
「……ッ触るな!」
手を伸ばしたバレルの手を、勢いよく跳ね除けた。
驚いて一瞬怯みかけたが、今の行動のせいで完全にバレルの頭に血が登った。
ベッドに乗り上げ、コルテスの胸ぐらに勢いよく掴みかかる。反射で身体を後退しかけたところを無理矢理引き寄せ、激しく身体を揺さぶった。
「コルテス!いい加減にしろ!さっきからオマエの態度は目に余るぞ!納得いくように説明しろ!!返答次第では今回限りでワシは船を降りるからな!」
威勢よく捲し立てられ、コルテスの目が大きく見開く。
部屋の中に、気不味い静寂が流れたあと。少し間があって、未だ肩で息をするコルテスが諦めたように何度も頷いた。
「……わかった、わかったよ……説明するから……手を離せ」
掴んだシャツを離し、ベッドから降りる。腕を組んだバレルは黙ったまま睨みつけていたが、コルテスはバツが悪そうに視線を逸したまま、一度舌打ちをした。
「……一回しか言わねぇからな」
「ああ」
「…………発情期に入っちまった」
「…………は……?」
聞き慣れない上に、予想だにしていなかった単語を言われ、一瞬、思考が停止して理解することができなかった。
睨みを効かせていた目の力と怒りがすっと抜けて、きょとん、と目が丸くなり短い瞬きを何度も繰り返す。
「……聞き間違いじゃなければ……発情期……?発情期って、あれか……?」
「……ああ、そうだよ、二度は言わねぇぞ……クソッ、オレ様自身すっかり忘れてたんだよ……」
乱暴に頭を掻き、弱々しくベッドを殴る。
熱に浮かされたように上体をゆらゆらと揺らしていたが、やはりまだ辛いのか再び身体を横たえてしまった。
「しかし、なんでまた急に」
「……ずっと光の届かない島の洞窟の中にいたからな……最近になって毎月戻るようになったから……身体が順応してきたんじゃねぇの。部屋に入ってカーテン開けて……光浴びた瞬間このザマってわけ」
はっ、と力無く笑い、顔をシーツに押し付ける。布の掠れも強い刺激になるようで、小さく声を上げながら、ビクリと身体が跳ねた。
人間からすると、発情期というものはあまりピンと来ないものの、よく聞く作用を思い出せば、今の反応と、さっきのやけに攻撃性の強い態度を取っていた事に俄然合点がいく。
「どれくらい続くんだ」
「わかんね……まぁいくらか発散できればある程度は済むと思うけどな」
「……なにか、できる事はあるか?」
そう言った途端、コルテスの目がバレルを見た。ズル、と身体を動かして、見つめる目が細くなる。
「……オマエ……わかってんの?今この状況でできる事なんて……一つしかねえけど?」
「このままでいるわけにもいかないだろ?それに……どうせ今日は満月だったんだ、……する前提だっただろ」
「……そうかい」
にぃ、とコルテスが口角を上げて笑う。
ゆっくりと上体を起こすと、腕を伸ばしてきた。誘われるようにバレルがベッドに再び乗り上げた瞬間、手を掴まれて身体を引き寄せられ、コルテスの腕の中にすっぽりと包まれた。
首元に顔を擦り寄せられ、吐息が掛かる。
ぴたりと付いた肌から伝わる、跳ね続ける心臓の鼓動につられて、こちらまで心音が強くなっていく気がした。
「優しくできねぇよ?」
「……こんな状況で期待なんてするか」
「それならいい。後で文句言うなよな」