紬を抱きたくない丞の話 昔から、妙なところで思い切りが良いのは紬の方だった。
改めて思い知らされた気がして、丞は眉間に皺を寄せ目を逸らした。慎重に言葉を選ぶ。返事を間違えば、丞の望まない方向へ流されてしまうだろう。つまり、紬の思い通りに。
考えて、考えて、考えがまとまる前に口が動いた。
「だめだ」
紬の視線が頬に突き刺さる。部屋の空気が一段と重くなった気がして、丞は息を詰めた。
本当なら、紬の願いは叶えてやりたい。丞の手の届く範囲のことならば。だけどこればかりは。
寮の二人部屋には丞が持ち込んだ黒い革張りのソファがあったが、ふたりして床に座り込んでいた。一度落ち着いて座り直そうと言う隙もなかったし、そういう雰囲気でもなかったのだ。
「じゃあ」
正座をした膝の上でぎゅっと拳を握り、紬が口を開いた。
「逆の方がいい?」
「逆って、お前」
「つまり、俺が丞に」
「……言わなくていい」
眉間の皺が深くなる。
傷つけるかもしれない。苦しませるかもしれない。そんな役割を紬におわせたくない。だが、それでは代わりに自分がそちらをするかと問われれば。正直に言ってしまうと想像することすら躊躇われる。
「ねぇ、丞。やっぱりさ」
静かに丞を見つめる青い瞳に、すべてを見透かされているようだった。つい一分前に口にした言葉を紬は繰り返す。
「丞が、俺にいれてよ」
丞が俺を抱いて。握りしめた手の甲に、細い指先を重ねられて心臓がぎくりと跳ねる。
——もしも俺が紬のようにたおやかに、言葉を使いこなせたのなら。もっと上手く事を運ぶ事ができたのだろうか。
すでに自分にとって分が悪いことを、丞は薄々感じている。
「その二択にするのは、ずるいだろ」
力無い丞の反論でも、少しは効果があったのだと思いたい。はじめて紬が、丞から目を逸らした。
場所を変えようと提案したのは丞だ。
どういう結論になろうと、まずは互いが納得できるように話し合うしかない。だが休日の昼下がり、中高生もいる団員寮でする話ではないので。
その場所に、いわゆるラブホテルを選んだのも丞だけれど。落ち着いてふたりきりになれる、そして他人に聞かせられない事を話せる場所として、仕方なくだ。決して紬の要求を呑んだわけではない、が。
「準備してくる!」
選択を間違えたのかもしれない。
勢いよくクローゼットに向かう紬の、心なしか弾んだ背中を見送りながら、丞は深いため息を吐いた。
キャビネットから車の鍵を取り出す。ピスポケットに財布を突っ込んだら丞の準備は済んでしまう。
その間にも紬はぱたぱたと部屋の中を走り回っていた。出かけるときにはあまり荷物を持ち歩きたくない丞と違って、紬はいつもあれやこれやとカバンに詰めて、結局大荷物になる。
「もう出られるか」
「うん、大丈夫」
連れ立って寮を出た。ワゴンに乗り込む。
丞の隣。助手席。紬がいつもの定位置におさまった。ちらりと見た横顔の、ふっくらとした頬が薄桃色に染まっている。
慣れた道だ。幼馴染みに恋人という関係が加わってから、紬を乗せて何度も通った。まるでふだんのデートのようだと勘違いして浮き立つ心をどうにかおさめようと丞は顰めっ面を作り続けた。
そんな丞の的外れな努力など紬はまったく気にしていない様子で、窓の外を眺めたりトートバッグの中を覗いたりと忙しい。
ふたりともがそわそわと落ち着かない車内には、エンジン音だけが響いている。
シャワーを浴びてくる、と風呂場に飛び込んでいった紬を止められなかったことは、どう考えても失敗だった。
——いや、だが止める暇もなかったぞ。
あんなに素早く動く紬を、丞は舞台の上以外で見た事がない。
仕方なくベッドに腰掛けた。
水音がかすかに聞こえる。
風呂場に突撃して連れもどそうにも、紬はもうすべてを脱ぎ去ってしまったあとだろう。何度となく見てきた紬の裸は、この密室のなかでは急に、気軽に見てはいけないもののように思えた。
長い時間をかけたあとでほこほこと湯気を纏ったガウン姿の紬が出てきても、ラグランシャツをしっかりと着込んだままだったのは、丞のせめてもの抵抗だ。
隣に紬が腰掛けてベッドが沈む。はっきりと言わなければ。最後までするつもりは丞にはないのだと。
「たすく」
紬が丞を呼ぶ声の、おわりが甘く掠れた。どう切り出そうかと、丞が考えているあいだにも、悪戯な手が丞の手の甲をひっかいてゆく。紬が身じろぎをするたびに、石鹸の香りがふわりとただよった。
言葉では、どうせ紬に勝てないだろう。それならば行動で伝える事が、丞に残された唯一の手段なのかもしれない。幸い紬はとっくにその気になっている。
そうと決まれば。悪戯を咎めるように細い手首を捕まえて、引き寄せた。なんの抵抗もなく紬が寄りかかってきて、それどころかぐいぐいと遠慮なく体を押し付けてくるものだから、丞も素直に背中からベッドへ倒れ込んだ。
ぴっとりと丞の上に寝そべって、紬は触れるだけの口付けを落としてくる。熱を帯びてきた両手で丞の頬を包み込んで、幾度も幾度も。口の端、つんと尖った上唇の先。下唇を軽く噛んでは、すぐに離れる。焦らしているのだろうか。餌をねだる雛鳥のようなそれは、いたいけでもあり、もどかしくもあった。
うっすらと目を開ける。眉を寄せぎゅうと目を瞑った紬が目の前にいる。どうやら待てをしている自覚はないらしい。懸命に丞をもとめる紬の姿に、どうしようもなく煽られる。
いつだって、先に我慢が効かなくなるのは丞の方なのだ。
じゃれつくような触れ合いはもうおわりだと、まあるい後ろ頭をがしりと掴んで逃げ場をなくしてしまう。そうして深く深く、口の中をまさぐってゆくと、すがるように紬は丞のシャツを握った。
「ん……っ、あ、ふぁ」
息継ぎのたびに、小さな声が口の端からこぼれる。あふれた唾液を親指でぬぐって、ついでに耳たぶをくすぐってやる。紬はちいさく体をふるわせて、肩をすくめた。
きっちりと下まで閉められた、ガウンのボタンを外すことすらじれったい。
たくしあげてうっすらついた腹筋に手を這わせれば、紬はもぞもぞと緩慢な動きで丞の腹を跨いで馬乗りになった。ひとつふたつと、紬がボタンを外してゆく。全てが外されるまで見守ることなど到底できなくて、体を起こし、あらわになった白い肌にすかさず唇をよせる。くふくふと紬が笑うのが、触れたところから伝わった。くすぐったがりなのは昔から変わらない。
唇を触れながら、背中を抱き込むようにして体勢を入れ替える。
「う、わっ」
呑気に笑っていた紬は、突然ベッドへと押し付けられてぱちくりと目を瞬かせた。まだ湿った髪が、はらりとシーツに散らばる。
「丞?」
おずおずと見上げてくるあおい瞳は、ゆらゆらと揺れてどこか不安げだ。自分にまたがる男は、紬の目にはどう映っているのだろうか。
熱を持った体に張り付くシャツが煩わしくて、勢いよく脱ぎ捨てる。
「触るぞ」
声をかけて安心させてやるつもりが、低く強張った声では余計に不安を煽ったかもしれない。紬が恥ずかしげに目を伏せて、こくりと頷いた。まだくつろげてもいないジーンズの中がすでに苦しくて、気持ちばかりが焦る。
下着を下ろして紬自身に触れる。熱く形をたもったそこに、内心でほっと息をついた。
ゆっくりと上下に手を動かしながら、素早くジーンズのチャックを下げる。
「俺も」
恐る恐る伸びてきて触れた手が、まだどこか遠慮がちだったので、しっかり触ってくれと上から握り込む。
「あっあっ丞、つよい」
「は……紬、大丈夫だ」
何が大丈夫だというのだろうか。自分でも何を言っているのかよくわからないままに、口からはひとりでにあやすような言葉がこぼれる。
他の誰でもない紬に触れられているという事実と物理的な刺激に、思わず吐いた息は自分でもわかるほどに熱い。
紬の指先ごとふたりのものをまとめて扱く。どちらのものともわからない先走りが、溢れて混ざって手を汚してゆく。すぐそばで感じる汗と石鹸の香り、手から伝わる熱、生々しい水音と、紬の押し殺した吐息。そのすべてが丞を昂らせた。
「丞。ねぇ、たすく、もうだめ」
だめ、と繰り返される言葉に一瞬手が止まるが、そのまま手を動かし続けた。中途半端に止められる方がつらいだろう。紬も、丞自身も。
紬が出したものが手を汚しても、自らを高める手は止めてやれなかった。紬が泣くような声を出す。そうして幾度か扱いた後で、ようやく丞も精を吐き出した。
「はぁ、は、大丈夫か、紬」
「ん……」
肩で息をしながら、紬はとろんと眠たげな目を細める。腹の汚れをティッシュで拭き取って、それから涎の後を拭ってやれば子犬がなつくように、丞の手に擦り寄ってくる。こんなふうに無防備に甘える紬を、丞は恋人になってから初めて知った。
昔から紬はよく丞への好意を言葉にしたが、仕草や視線でも遠慮なく愛情を伝えてくるようになったのはこうして触れ合える関係になってからだ。
愛しさが胸を突く。腹の底で未だ燻る熱に蓋をする理由は、手に触れる柔らかな頬のこの温度だけで十分だった。
「なぁ、紬。こうやってお前と触れ合うだけで俺はいいんだ」
指の背で頬を撫でる。
キスをして、体に触れて、互いのものを高める。紬と恋人になってから何度も繰り返してきた。それだけでいいではないか。
「……丞はほんとうに、それで満足なの」
ところが紬は、ふるふると首を振るとゆっくり体を起こした。問いかけではない。そうじゃないだろうと見透かして、責めるような声色だった。
「それは」
「俺は、丞にいれられたい」
「いや、でも……無理だろ」
紬の薄い腹を見る。他人と比べることなどそうそうないが、自分のものが、体のデカさと比例していることは自覚している。
こんなものが入るのだろうか。紬の中に。
「見てて、ね」
丞の両肩に紬の手が乗った。ベッドの上に丞を座らせて紬は向かい合わせの格好で正面に膝をつく。紬が持参したものなのか、ローションをとろうりと手のひらにこぼして、そうしてそのまま、その手を後ろに回す。
体の硬い紬には見るからにきつい体勢で、苦しそうだと丞は思った。
止めるべきだ。今ならまだ間に合うと、頭の中では警鐘が鳴るのに、丞の手は握りしめられたままぴくりとも動かない。ただじんわりと汗が滲んで、ひどく喉が渇いていた。
紬はもうすでに、姿勢を保っていられないようで丞に肩に額を擦り付けて、それでも懸命に指を動かし続けている。紬がもどかしげに腰を揺らすたび、やわらかな髪が丞の耳をくすぐった。
自分のそれと比べて細い指で、十分に拡げられるのだろうか。小さく狭い、きっと誰も知らないそこを。
実際に、無理な体勢も相まって紬の指は不器用に入口を慣らすだけになっている気がした。
「丞……」
吐息のような声に、まるで助けを求められているようで。
丞はふらりと手を伸ばした。唾を飲み込む音がやけに生々しく、頭の内側に響いた。
「中きれいにしてきたから、大丈夫」
そんなことを心配しているわけではないのに。紬は見当違いの気遣いを見せて、丞の指を窄まりへと導いた。
濡れた皮膚の冷たさにぎくりと指が止まる。ところが柔らかくほぐされたいりぐちは、ためらう丞を受け入れて、大丈夫だよというように奥へと誘うのだ。
おそるおそる指を入れる。中は狭くて熱い。呼吸に合わせて動く紬の中が、丞の指をひとりでに進ませる。
「すごい。丞の指だとそんなところまで届くんだ」
独り言なのか、それとも丞に言っているのだろうか。どちらにせよ丞の耳にはしっかりと届いて、ドッと心臓が強く脈打った。耳が熱い。周りの音がやけに遠くて、指に伝わる濡れた肉の感触だけが生々しかった。
男の性か、どうしたって自分のものがそこに包まれることを想像してしまい、息が上がる。
紬の指はもう、丞の手をすりすりと撫でるだけだ。丞の指こそが、紬の中を拓いていっている。
「もう、大丈夫だから……」
紬は丞の首に手を回そうとして、困ったように動きを止めた。
「あ、汚れちゃうかな」
さきほど紬が勢いよく出したローションは、明らかに多すぎたようだ。手を濡らし肘まで汚していた。
「そんなことは、どうでもいい」
「ふふ、ありがとう」
「……なにがだ」
「ううん、なんでもない」
紬がやけに嬉しそうに微笑んで、丞の首に抱きつく。そうしてそのまま背中から、ベッドへと倒れ込んだ。
「丞、きて」
「……くそっ」
狭いいりぐちにひたりと先端を押し付けて、中を進む。指でそうしたときよりも、何倍も熱く感じた。
「は、ぁ」
「んっ、あ、あ、きた……」
指で届かなかった場所はきつく閉じていて、丞の先端をぎゅうぎゅうと刺激する。先へ先へ、進もうとする本能で繰り返しそこを穿った。
気持ちがいい。動いて、出したい。紬の中に。
そればかりしか考えられなくなって、夢中で腰を振った。
「う……」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。ずっ、と鼻を啜る音で、丞は我に返った。
「つむ?」
紬が、ほろほろと涙をこぼしている。昔は泣き虫だった幼馴染みの泣き顔を、最後に見たのはいつだっただろう。丞は目を見張った。
痛かったのだろうか。それとも、好き勝手にされて、辛かったか。
恐れていた事が起こったのだと丞は悟った。背筋が凍る。こうなる事がわかっていたから、俺は。
「悪い大丈夫か」
慌てて涙を拭う。
「つむ、泣かないでくれ」
抜くぞ、と声を掛けて腰を引く。こんな時だというのに、引いた刺激にひくりと震える自分を恨めしく思う。ゆっくりと動かして、そうして引き抜く瞬間に、強い力に戻された。
「う、お」
紬の足が、腰に回っていた。紬らしからぬ仕草で、必死に丞を引き留めているのだ。ずびずびと鼻を鳴らしながら紬が口を開く。
「たーちゃんのばか」
「な」
「ちがう、ごめん。勝手に出てくるんだ」
生理的な涙なのだろうか。嫌じゃない、つらくもないよ。続けて欲しいと、紬は言った。
「けど、お前」
ためらう丞を紬は許してくれずに、みずから腰を揺らす。ぎこちない動きにも反応して、すぐに硬さを取り戻す自分のものが情けない、のに。
「ん、ん……っおおきく、なった」
紬が嬉しそうに笑うものだから、わからなくなるのだ。
「つむ、いいのか」
「いまさらだよ、たーちゃん」
目にかかった前髪を指で払ってやると、紬がくすぐったそうに目を細めた。
「俺は、もっと丞に求めて欲しい」
俺を欲しがってよ、たーちゃん。
紬の薄い腰を両手で掴み、もう一度、奥まで進む。あたたかな紬の中は、健気にひらいて丞を受け入れた。
このどうしようもない欲すらも、愛情だと求めてくれるのならば。
「丞、好きだよ」
「……俺もだ、紬」
口付けを落とす。幾度かの律動のあとで、紬の最奥で、熱を吐き出した。
「ごめんね、丞」
無理が祟ったのか、もう腕の一本すら上げられないといった様子の紬を濡らしたタオルで拭いてやってると、紬がぽつりとこぼした。
「何がだ」
言いたいことはなんとなくわかる。丞に無理を強いたとでも思っているのだろう。わかってはいるが、あえてはぐらかす。
「ううん、なんでもない」
紬もそれ以上続けるつもりはないようだ。丞だって、紬に無理をさせたことを気にしていないわけではない、が。ここで言うのは、ごめんではなくて。
「紬」
「なあに?」
「すっげえ、よかった」
言葉にするのはあまり得意ではないけれど。素直な気持ちを伝えれば、紬は楽しそうに、声をあげて笑った。