ずっと好きだった ヤマには苦手な先輩がいる。
就職を早々に決めた大学四年の春、卒業までの時間を無駄に過ごすのも勿体ないとガソリンスタンドでアルバイトを始めた。そのバイト先で出会った先輩。それがアサギだった。
年齢は聞いたことはないが、ヤマより年上らしい。幼く見える顔立ちなので、初めは年下か、せいぜい同い年くらいかと思っていた。見た目は同性から見ても整っていて、あけすけに言うと、モテそう。
性格は人懐っこく社交的。と、言えば聞こえはいいが、どうにも軽く見える言動と人を揶揄うような態度が、ヤマには理解し難かった。
「お疲れ様です」
「おーヤマ! お疲れ〜」
学校が終わり、ヤマはいつものようにバイトへ向かった。
事務所で確認したシフト表によると、夕方からのこの時間帯は、ヤマとアサギ、バイトリーダーのヒロセ、それに先輩のオオイシが勤務しているようだ。
ヒロセから、アサギの作業を手伝うよう指示されたヤマは、スタンド内を横切り目当ての姿を探す。洗車機のそばで、制服のつなぎを着崩した細い背中を見つけ、声をかけた。
振り向いたアサギはキャップを軽く持ちあげると、左手のリストバンドで汗を拭った。彼がいつも身につけているシルバーのネックレスが太陽を受けきらりと光る。
ガソリンスタンド、SUNNY STATIONでヤマが働き始めてから三ヶ月ほどが経っていた。桜はとうに散り、夏の足音が聞こえ始めている。屋根があるとは言え、スタンドの仕事は屋外。これからの季節は暑さとの戦いになるだろう。
「洗車機周りの仕事初めてなんすけど、教えてもらっていいっすか?」
「おけ、これはねぇ〜」
意外にも、アサギの説明は簡潔でわかりやすい。普段の言動からは想像できないが。
自ら新人の教育を買って出る性格ではないからなのか、彼に仕事を教わった記憶はあまりない。だが、聞けば大概のことは教えてくれるのだ。アサギのバイト歴は仲間達の中でも長い方だ。
「こうっすか」
「そそ、さっすがー! 覚え早いじゃーん」
言われた通りに作業を進めていけば、アサギはカラカラと笑ってヤマを褒めた。
こういうとこだ、とヤマは思う。さすがだとか、すごいだとか。さらりと言ってのけるのだ、この人は。
その言葉の重みはどれほどか。信用ならねー。内心ではそう思うのに、褒められて浮き立つ心が単純で恥ずかしい。
「あとはひとりで大丈夫そーだね」
「え?」
邪念を振り払うように黙々と仕事を片付けていると、背後から声をかけられた。振り向けば、すでに数メートル離れたところにアサギがいて、ぶんぶんと手を振っている。
「俺、事務所の掃除してくんね」
「は、ちょっとアサギさん!」
「あとでジュース奢るから〜」
リーダーからは、アサギを手伝うように言われたのだが。なぜ自分ひとりがやることになっているのだろう。外はあっついねー、と歌うように言いながら遠ざかってゆく背中を、ヤマは呆然と見送っている。体よく外作業を押し付けられたか。
まったくあの人は。事務所に消えてゆく先輩を連れ戻すことは早々に諦め、ヤマは作業へ戻った。腹立たしいはずなのに、どこか憎みきれない。あの屈託のない笑顔を見れば、毒気が抜かれてしまうのだ。アサギの、タイヤやオイル交換の営業成績がやたらに良いことを思い出した。人たらしなんだ、あの人。
せめて自販機の中で、一番高いの奢ってもらうか。なんて、せこいことを考える。
自由な先輩に振り回されているというのに。せいぜい二百円かそこらのジュースひとつで許してしまう自分はやはり、単純なのだろう。ヤマはため息をついた。
西陽が背中を焼く。悪戯っぽく笑うアサギの、胸で揺れたチェーンの眩しさが、なんだかまだ瞼の裏に残っているようだった。
季節はさらに過ぎ、大学生活も終わりが近づいてきたある秋の日のことだった。突如、SUNNY STATIONの閉店が告げられた。
バイト仲間たちのほとんどは、残念そうな表情を浮かべつつも、どこか仕方ないと割り切った様子であった。
それもそうだ。各々事情はあるだろうが、皆この場所が、この仕事が全てではないのだ。ヤマだってこれから就職して、新たな仕事と新たな生活が待っている。仲間達がここで集まることはなくなっても、それぞれの人生は続いてゆく。
この感傷もひと時のものだ。
多少の動揺はあったが、いつものように仕事を終え、帰り支度を整える。着替えを済ませ、ロッカーの扉を閉じたその時。
「ヤマ〜」
珍しい声に呼び止められてヤマは勢いよく振り返った。
「これから暇? 飲みにいこーよ」
「は? 俺っすか?」
「めっちゃ名前呼んだじゃん!」
何がそんなに面白いのか。
うける、と笑う目の前の男、アサギをまじまじまと見つめてしまう。彼もすでに制服から私服に着替えている。シンプルな白い長袖Tシャツに黒のパンツ。オーバーサイズの服のせいか、普段よりさらに細っこく見えた。キャップを脱いだばかりの髪が乱れて、ぴょこぴょこと跳ねている。
いったいなんの気まぐれなのだろう。バイトを始めてから一度も、飲みに誘われたことなんてなかった。けれども、奢るからさ、なんて言われれば断る理由もなくてヤマは大人しく頷いた。きっと、閉店の話を聞いて寂しくなってしまったのだ。自分も彼も。柄にもなく。最後だから、という言葉が頭をよぎって、なぜだか無性に腹が立った。
アサギに連れてこられた店は小洒落たバルだった。薄暗い店内は程よい喧騒に包まれている。
店の中にはテーブル席もあったが、満席だったので店先の立ち飲み席に通された。秋の夜風が心地よく、悪くない。ウィスキー樽で作られたテーブルは狭く、身じろぎすれば肘と肘がぶつかってしまいそうだった。
最初の一杯のビールで上機嫌になったアサギは、よく食べ、よく笑い、よくしゃべった。外仕事が多いのに不思議と焼けない白い肌が赤く染まって、目尻がとろんととろけている。
もう酔ってんのか。コスパいいなこの人。
ヤマは小瓶のビールをちびちびと飲みながら、ほとんど一方的なアサギの話に適当に相づちを打つ。アサギは時折、大笑いしながらヤマの背をたたき、肩に手を触れた。
バイト先でもこんなふうに触られたことなどない。普段の気安い態度とは裏腹に、他人との距離には一定の線引きがあるひとなのだと思っていた。酔うとこんなふうなのか。新たな一面に驚きはしても、なぜだか嫌な気はしない。
ひとしきり話して満足したのか、アサギはテーブルに肘をつき、串焼きの肉をガジガジとかじっている。
「行儀わりーな」
「おい、言葉遣い」
先輩だぞーと叱るアサギはしかしケラケラと笑っている。あんたがそれ言います? と思わないでもないが、一応謝っておいた。すんません。意外と上下関係に厳しいのだ。あのノリで。
どれくらいの時間、ふたりで飲んでいただろうか。もう夜も深いが飲屋街はまだ明るく、賑わっている。ぼんやりと道ゆく人を眺めていると、アサギがぽつりとこぼした。
「店閉まったらさ、どーすんの? ヤマは」
「あーまぁ就職先決まってるんで。あとは卒業まで短期で働きますかね。アサギさんは?」
「ん、俺ももともとダブルワークしてるしね〜。もいっこのほう増やすかなー」
みんなもそんな感じだよねぇ、とアサギは目を伏せて笑う。その横顔がどこか寂しげで、ヤマは口をつぐんだ。
「俺とオオイシなんかはさ、元々知り合いだから。変わらず付き合ってくと思うけど。これきりになるやつもいるのかねー」
小さく笑い、アサギはぽつりとこぼす。
さみしいよ。それはほとんど独り言のようで、夜風にまぎれて消えてしまいそうだった。
誘えばいいだろ。ヤマは胸の内でつぶやく。これが最後なんかじゃなくて。呼び出されれば、いくらでも付き合ってやる。今夜みたいに、酔っ払いの相手でもなんでも。そう思うのに、口に出せなかった。
いつもみたいに笑って、また誘うわーなんて、軽く返してくるアサギを想像する。そんな口約束など、なんの意味もないように思えた。ただきっと、初めて触れたであろう彼の本音を、隣で黙って受け止める。
バイト先で出会ったただの先輩。俺はこの人のことを、まだ何も知らない。
街明かりに照らされる横顔を、ヤマはそっと見つめた。アルコールに潤んだ瞳が何を見つめ、何を思っているのか。やはりヤマにはわからなかった。
閉店の日が迫っていた。ヤマは名残り惜しむようになるべくシフトを入れた。仕事にも熱が入っている。
仕事終わりのロッカールームで皆と話している時間も以前と比べて増えた。別れを惜しんでいるのはバイト仲間達も同じなのだろう。
「お疲れ様です」
「おーお疲れ」
仕事を終えロッカールームへ入ると、オオイシと鉢合わせた。制服のつなぎに袖を通している彼は、これからシフトに入るようだ。キャップを脱ぎ、手櫛で髪をとかすと、ヤマは軽く頭を下げた。
「今日結構お客さん入ってるっす」
「お、そうか。そりゃ働きがいがあるな」
仕事の話をしつつ帰り支度をしていれば、そういえば、とオオイシが振り返った。
「こないだアサギと飲みに行ったんだろ? 大丈夫だったか?」
悪戯っぽい笑顔のオオイシに、疑問符が浮かぶ。
「は? なにがすか?」
「あいつに合わせて飲んでるともたねーだろ。ま、無理やり飲ますってこたぁねーだろうが」
えっと思わず声を漏らした。酒弱かったよな、あの人。
「そんな飲む人なんすか?」
「ん? ザルだぞ、あいつ」
きょとんとした顔のオオイシと、思わず顔を見合わせていれば、
「お疲れちゃん〜」
気の抜けた声が沈黙を破った。
何も知らないアサギが、呑気にロッカールームに入ってくる。同時にふたりに見つめられ、今日もよく働いたとばかりに満足げだった笑顔が、きょとんと固まる。
「なんかよくわかんねーが、あんま後輩を揶揄うなよー」
「えっ? なんのことよ?」
うははは、と豪快に笑ってオオイシが出ていった。残されたのはなんにも分かっていないくせにあいまいな笑みを浮かべるアサギと、むすりと唇を引き結ぶヤマのふたりだけだ。
どしたん? なんて声をかけてくるアサギを、ヤマは見据える。アサギさん。思いの外、低い声が出た。
「今日は俺がジュース奢るんで」
「んんー? 遠慮は……できない感じ?」
「できねーっす。いいから行きますよ」
本当のところ、この人がどんなだろうが、関係ないはずなのに。
オオイシさんとはそんなよく飲みに行くのかよとか、俺にしたみたいに触って、笑いかけるのかよとか。
どうでもいいはずのことに苛つく。そんな自分に、戸惑っているのは他でもない。ヤマ自身だ。
アサギにはブラックコーヒーを、自分には炭酸飲料を買う。戸惑うアサギを自販機横のベンチに座らせ、逃げ場を塞ぐように彼の前に立った。
「あんた、他の奴とは結構飲みに行くんだな」
「えー、なになに。やきもち?」
「揶揄うなよ」
およそ先輩に対するものではない言葉遣いを、いつかの夜のように叱られるかと思いきや、アサギはただ眉を下げ笑っただけだった。まるで子どもの癇癪を、微笑ましく見守っているような。
言うてそんなによ? と言い聞かせるようにアサギは続けた。
「バイト詰めまくってるから、俺けっこー忙しいんだよね」
「酒も、ほんとは強いって」
いよいよ駄々っ子のような自分に呆れるが、口が止まらない。ただ、まるで掴みかけたものがふたたびするりと手をすり抜けて逃げていってしまったような。そんなもどかしさを感じていた。
思わず出そうになった舌打ちをすんでのところでこらえる。
「あー、まぁ、あの日は疲れてたからね〜」
それに。言葉を切ってアサギはヤマを見上げた。
「お前と飲めて浮かれてたし」
「は?」
彼の名前と同じ、浅葱色の瞳。
夕闇の中でそれだけがやけに鮮やかだった。
いつもの彼が嘘のように、静かに見つめられ、まるで追い詰められているようだ。逃げ道を塞いだのは、自分のはずだったのに。
「なんなんだ、あんた。わけわかんねー」
「ほんとに、わかんない?」
先に目を逸らしたのは、ヤマの方だった。アサギは立ち上がり、俯くヤマを覗き込んだ。まるで逃がさないというように。
小さく息を吸う音。
「ずっと好きだった」
彼のものとは思えない、穏やかな声が、ヤマだけに届いた。
一瞬、息が止まった。それから、いつものようにアサギが楽しげに笑う声が。ヤマはずるずるとその場にしゃがみ込む。
いやほんと、なんなんだよこの人。
「なんで、俺……」
「んー? ずっとかわいー後輩だと思ってたよ〜」
「また揶揄ってるんすか」
「俺、ホンキだよ?」
いつか垣間見た、彼の本音。
優しく細められた瞳があの夜と重なった。
「ずりーだろ」
「おーい言葉遣いー」
思わず呟けば、笑い混じりに叱られる。
何を考えているかわからない、苦手だったはずの先輩。彼と出会ったこの場所は、なくなってしまうけれど。きっとこの先も、この人とは長い付き合いになるだろう。
そんな予感がした。