──序──
ドイツはベルリン、絵画館。アルセーヌ・ダンドレジーは、暗闇の中ただひとつライトで照らされる肖像画を見つめていた。白い壁の前に立ち、目の前の小さな鏡に向かって首飾りを掲げながら恍惚とした表情を浮かべる女性。ヨハネス・フェルメール作『真珠の首飾りの女』である。
「次はそれかい?」
不意に、彼の後ろから声がかかる。アルセーヌは緩慢な動作で振り返った。
「いいや?いかなる物にも『あるべき場所』というものが存在する。彼女の場合、それはここだ。私がどうにかするべきではない」
「相変わらず美術品への熱意は誰にも引けを取らないようだね」
と、彼に声をかけた人物は満足そうに首肯する。アルセーヌは彼が誰なのか、よく知っていた。
「これはまた奇遇だね、ジェームズ先生」
名を呼ばれた彼─ジェームズ・マクスウェル─はにこりと優美に微笑む。
「おやおや、畏まる必要は無いよ。第一君も先生だろう?ダンドレジー卿」
「副業だがね」
もう既に絵画館は閉館時間を迎えていた。この場にいるのは、ジェームズとアルセーヌのふたりだけだ。
「それで、先生。私に何か用かな?」
アルセーヌがここにいる理由、それは単純明快。目の前の男に招待されたからである。彼からの招待状を受け取り、わざわざ日本からドイツまで遥々やってきたという訳だった。現に閉館時間を過ぎてから入館しても咎められることはなく、こうやって無人の美術館でひとり絵画を眺めていたのである。
「そうそう、その話だったね。僕は君と取引をしようと思っている。ドイツの地を選んだのも、イギリスにいる"彼"の目を逃れると同時に─この地に関連がある話だからだよ」
「ふむ。と、いうと?」
「分かっているだろう?ダンドレジー卿。君があの絵を所持していることは僕も既に調べたさ」
ジェームズはつかつかとアルセーヌに歩み寄りる。ライトの明かりの範囲内に入った事で、先程よりもはっきりと視線が交錯した。
「カール大帝」
薄い唇を開き、何か秘密を共有する少女のような悪戯っぽさを内包した表情でジェームズは囁く。
「モザイク画さ。君が最近フランス人の銀行家から買い取った、ね」
「───。」
「銀行家も馬鹿だねぇ。あの絵の本当の価値を知らないだなんて」
「それには概ね同感だが・・・譲り渡すというのには同意しかねるな」
「どうしてだい?」
「貴殿はどうやら、絵画が欲しいわけでは無さそうだ」
対するアルセーヌはにやり、と同性でも見とれてしまうほどに整った顔を歪め、不敵に笑ってみせた。ジェームズは数度ぱちくりと瞬きをしたあとくすくすと笑う。
「流石。鋭いね」
「先程言った通りだ。いかなる物にも『あるべき場所』が存在するし、それは決して私の元では無いかもしれないが、それ以上に君に渡すべきではないと思うのだよ」
「─では、頼み方を変えよう」
あくまで笑顔のまま、ジェームズはぱちりと指を鳴らした。
「ハートの7。この意味を君は知っているだろう?"現代のアルセーヌ・ルパン"君」
「───その呼び方はやめてくれるかい?Mrモリアーティ」
アルセーヌは穏やかな、だが有無を言わさぬ雰囲気を纏っていた。
「名誉だろう?」
「いいや、私はルパンではない。その呼び方は少々身に余る」
「それだけが理由じゃなさそうだが・・・まぁいい。僕としてはそちらはどうでもいいからね。質問に答えて貰えるかい?」
「分かった、分かったよ。私もまさかとは思って調べてみたが、本当にあれが存在しているとは思ってもいなかった」
「やはり、か。それで、君はそれをどうするつもりかな?」
「今考えているところさ。少なくとも、君に譲り渡す気は毛頭ないがね」
「君個人の手には余るだろう?」
「だとしても、だ。私はメリットが無い行為はしたくないのでね」
「・・・・・・そうかい」
あくまで毅然とした態度を崩さないアルセーヌに、ジェームズは軽いステップで後ろへと下がる。
「やはり君の事は嫌いだよ、アルセーヌ・ダンドレジー」
「・・・それは残念だ。私は君がそれなりに好きだったのだが」
ジェームズがぱちん、と指を鳴らす。ほとんど落とされていた館内の電気が全て灯った。急に目に飛び込んでくる光にくらりとめまいがし、アルセーヌは眉間に皺を寄せる。
「君は客観的に見ると本当に美しい男だね、アルセーヌ。だが、僕はそうは思わない。たまに考えるよ、彼女は君のどこが気に入ったのだろう、とね」
「それは私自身も些か疑問ではある。皆目見当もつかないね」
「・・・・・・・・・」
彼の返答を聞いてからポケットから無線機のようなものを取り出し、それに向かってジェームズはぼそりと呟いた。
「撤退だ、騎手。歩兵にもそう伝えるよう」
同時に、何やら外が騒がしくなる。アルセーヌの顔がそこで初めて焦りの色を帯びた。
「っ!先生、まさか」
「譲り渡す気が無いというのなら仕方ない。それはこの国の国家機密なのだよ、ダンドレジー卿。そんなものを一個人が持っているなんて、この国が許すと思うかい?」
「・・・断ったら、こうするつもりだったと」
「ああ、勿論他に色々考えているさ。普段の君のようにね。例えば・・・彼女、今はイギリスにいるんだったか」
「ッ!」
ぎり、と歯を食いしばるアルセーヌ。そんな彼の表情を見て満足したのか、ジェームズはにこりと再び笑った。
「君とは良い関係でいたかったのだが、君がルパンでは無いと言うなら致し方ないね。・・・意気地無しの君とは違って、僕はモリアーティだ」
暗転。
「嗚呼、まるで舞台のようじゃないか。暗転で登場人物が切り替わる。明転したら現れるのは、一体誰なのだろうねぇ?」
その言葉と首筋に感じる僅かな痛みを最後に、ジェームズの気配はその場からすっかり消えた。そして、再び全てのライトがつく。
「久しぶりだな、Herr Dandrezi」
次にアルセーヌの目の前に立っていたのは、190は優に超えているであろう大柄なドイツ人であった。
「・・・少佐」
ジークハルト・エリアス・アルペンハイム。ドイツ軍の少佐であり、アルセーヌとも旧知の仲である。
そこでアルセーヌの視界がぐらりと歪む。そこで彼は初めて、自分の首筋に何かが刺さっていることに気がついた。それが麻酔であることを理解するのにそう時間はかからない。
「・・・あのシェイクスピアかぶれが」
悪態をつく。倒れそうになったアルセーヌを素早くジークハルトが支えた。
「男に抱き抱えられる趣味は無いのだが」
「文句を言うな、Herr」
意識を失う前、彼が最後に聞いたのはジークハルトの「ドイツ軍が貴殿を保護する。・・・理由は、お分かりだね?」というあくまで事務的な、感情のひとつも感じられない言葉だった。