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    day8dreamoon

    字描きかもしれないし絵描きかもしれない。

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    day8dreamoon

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    はこさん(@hakomonoto_gnsn)のイラストを基に🏛🌱小説を書かせていただきました。掲載許可ありがとうございます!

    仕事帰り雨に降られた🏛。
    静まりかえった家にこれ幸いと一目散に風呂に駆け込むが先客が居り……

    #カヴェアル
    Kavetham
    #kavetham
    #🏛🌱

    バスルームの湧昇その日は日暮れから雨が降り続いていた。
    この国にしては珍しい長雨でスメールシティの人々は手近な屋根の下に集いつつ、思い思いに時間を過ごしている。

    アアル村帰りのカーヴェは水を吸ったシャツが肌に張り付く不快感に耐えながら、便宜上「自宅」と呼ぶ家屋の鍵を回した。家主の居ないリビングには明かり取りの窓に叩き付ける雨音だけが響いている。
    水気で重くなった外套をそこらに引っ掛け、浴室へ直行する。足元の砂はすでに雨が洗い流していたが、冷えた身体が限界を迎える前に汚れを落として温まらなければ。

    濡れた服を剥ぎ取るようにして浴室の扉をくぐった時、わずかな違和感がカーヴェを捉えた。
    淡い光、それに立ち上る湯気。
    誰か、居る。
    「ヒッ……!」
    バスタブに身を沈めたままゆらりとこちらを見上げた瞳には、呆れたような色が宿っている。
    「亡霊でも見たような顔だな、カーヴェ」
    「君か! 驚かすなよ」
    「俺以外に誰がいると?」
    ふん、と鼻を鳴らし手元の本に目を戻したアルハイゼンは、もうカーヴェのことなど気に掛けてはいないようだ。
    ただなおざりに投げられた、平坦な声の「おかえり」に、憮然とした「ただいま」を返す。同居人のよしみで不本意ながらも習慣となった挨拶が今だにこそばゆい。その機微に気付かないふりを、もう長いこと続けている。

    「帰ってるならもう少し存在感を出したらどうなんだ?」
    「誰もが君のように、家でまで熱心に騒ぐわけではないからな」
    見上げてくる視線に、怖かったか?と揶揄う色が含まれているのが腹立たしい。素っ裸で立ち尽くす哀れな濡れ鼠を視界に収めながらもまるで風呂場を明け渡す気の無い家主を前に、カーヴェはいっそ来た道を引き返そうか迷った。けれど濡れた服をもう一度着直す気には到底なれなかったし、早く身綺麗にしてカウチの上で手足を伸ばし大の字で寛ぎたい。
    そんな欲求に抗えず、ひとしきり騒ぎ立てた後でおとなしくシャワーを浴びることにした。それに流石のアルハイゼンも、後ろがつかえていれば早々に出て行ってくれるだろう、という打算もあった。
    温かな湯を頭からかぶると生き返ったような心地だ。今は遠き卓上の酒瓶と山盛りの果物に思いを馳せながら、話しかけるともなしにぼやいてみる。
    「はぁ、君が教令院か酒場にでもいると思って、ひとりでゆっくり晩酌する計画が台無しだ」
    「裁量労働で自身を酷使している君と違って、俺には定時というものがある。それに今夜はあいにくの天気だろう」
    「脱衣所に服の用意も無いから僕はてっきり……」
    「そうか。今度から気をつけるといい」
    尚も言い募るカーヴェを一瞥したアルハイゼンは前髪から垂れる雫を振り払い、言葉を続ける。
    「強盗に刺されてからでは遅いからな」
    ……今日の彼は、心なしか優しかった。

    もこもこに泡立てた髪を洗いながらアルハイゼンの方に視線を投げる。水面から突き出た肩の辺りをわずかに染めて、瞳はじっと紙上の文字を追っている。目は口ほどに物を言うというけれど、表情の変化に乏しい彼ではそれが顕著だ。字をなぞる時も思考を巡らせる時も、きゅるきゅると動く目の玉がカーヴェは嫌いではなかった。もはや身体の一部のように常日頃身に付けているヘッドフォンを外した耳は、ただでさえ白い肌の中でも際立って無垢だ。
    勇猛無比なマハマトラ達とは別の切り口で、学者連中から畏怖の対象となっているこの書記官様を指して「血が通っていない」なんて囁く、口さがない連中がいる。彼らにこの、身も心も緩みきったアルハイゼンを見せてやったらどんな反応をするだろう。
    ……自分で想像しておいて酷くおもしろくない気分になったから、この話はここまでにしようか。

    時間をかけて洗い終えた髪を紐で括り、身体を清め始めてもまだ彼は書物に夢中だった。
    この家のバスルームには彩り豊かなたくさんの容器が並んでいて、その殆どはカーヴェのものだ。
    砂漠方面の仕事が長くなれば、吹きさらしのテント生活続きで、絨毯を数枚広げた程のオアシスが大所帯唯一の水場、なんて事態もザラにある。そうなると強い日差しと風砂に晒され、髪束は麻紐のように肌はなめし革のようになってしまうのだ。
    建築に精を出して脳内が快楽物質で満たされている間は気にも留めないが、一旦仕事が落ち着いて仕舞えば、自身の容姿や身なりをそれなりに気に入っているカーヴェには耐え難いことも確かだった。
    だからこそ今夜のように、帰り着いた浴室で気に入りの香りに包まれながら髪や肌を磨きあげていく時間は、カーヴェにとって作業というより創作に近しい、大いなる喜びなのだった。
    ……ひとりきりだったらもっとずっと良かったけれど。

    散々生き恥を晒した後輩とは今更裸を隠したいような間柄でも無い。それはまるきり色気の滲む喩えではないのだけど……だって彼とカーヴェだ、これまでも今もこれからも。
    だが本来プライベートな空間に「名前の無い間柄」の男とふたり、ぎゅうと缶詰めになって何も思わずにいられるほど己の神経は太くなかった。
    ともすると学生時代の記憶をさすらい沼地のほうへ引っ張られていく思考に抗うように、カーヴェはわざと大きな声を出した。
    「なぁ、風呂にまで本を持ち込んでるのか? 通りで君の入浴はいつも長いわけだ」
    「砂漠帰りの君ほどには水資源も、その安からぬ瓶の中身も費やしてはいないがな」
    「髪の手入れにコストを掛けてるんだから当然だろう! 君の無造作ヘアと一緒にしないでくれ」
    「ほう、その割りには持ち主と同じように騒がしく跳ねているように見受けるが」
    「ああいう髪型なんだぞ? 評判だって悪くない。君には理解出来ずとも驚かないが……」
    泡を流しきってぴかぴかに磨き上げた全身を鏡に映し、満足して頷く。ようやく美意識に適う自分が戻ったところでそろそろバスタブに浸かりたいのだが、アルハイゼンはやはりゆったりと身を崩して書籍に目を落としている。
    こちらの思惑などもう筒抜けだろうに、一向に動こうとしない。温泉文化が豊かと聞く稲妻やナタになら、長風呂我慢大会なる行事もありそうなものだがここはお馴染みの故郷・スメールだ。
    この後輩、いい加減場所を譲ってくれないだろうか。図体も態度もデカい相手を前に、ついつい上手くも無い皮肉が溢れる。

    「あぁ、僕がその本なら君の元から逃げ出したくて堪らないだろうね。ほらその水滴、奴の涙かもしれないぞ」
    「この本は近頃印刷されてテイワットに広く流通しているもので、文物的な価値は無いに等しい。それに素論派の学者が開発した耐水性の紙が使われているから水気を気にする必要は無い。本は読まれるために存在しているのだから、俺に買われたこれも本望だろう」
    「……だとしても、だ!」
    言葉と共に左足を浴槽に突っ込めば、穏やかだった水面がとぷん、と波打つ。そこで初めて気がついたが、アルハイゼンの周りにはぷかりと二羽、黄色な鳥の模型が浮かんでいた。どうせまたあのつまらない木彫りのようにどこかの店で手に入れたものだろう。散財に対して物申したくなったが、一旦は留めておく。
    「温浴とは本来、心身の疲れを取るためのものだろ。そんな風に文字を頭に詰め込んでいたら、休まるものも休まらないじゃないか」
    「……はぁ」
    自身の陣地を損なう気はないが、先輩を追い出すつもりもないらしい。アルハイゼンに向かい合う形で何とか身体を捩じ込んで、ひと息つく。少々窮屈な体勢だがひとまず良しとしよう。
    繊細な意匠の施されたバスタブは、人ひとりには大きすぎるが、大の男ふたりではやはり手狭だ。カーヴェはつるりとした陶器の縁に顎をのせながら、依然として何がしかの本に心を奪われているアルハイゼンを見遣った。
    「なぁ少し脚を退かしてくれないか」
    活字の世界に入り浸りながらも一応は聞いているらしく、慎ましくも空けられたスペースにすかさず折りたたんでいた脚を滑り込ませる。彼の職業柄無意味にも思える上半身は腹が立つほど体積がある割りに、細身なのか腰の辺りにはゆとりがあった。
    面倒ごとを避けるための牽制、あるいは実用性に特化した身の鍛え方なのだろうが、石膏に型どって道端に置いたら観光名所になりそうな造形だ、とカーヴェはぼんやり思う。
    (あぁでも、色彩を欠いては意味がないな)
    冷たい石の造物を愛する建築家にしても、この独特の虹彩が成す眼差しの失せた彫像はきっと物足りない心地がするだろう。

    ところでこの朴念仁は、一体いつからここに陣取っているのだろうか。悠々と座る彼の胸元辺りまで張られた湯は、こちらの冷えた身体にはぬるくて物足りない。
    身を乗り出してアルハイゼンの肩口にある蛇口を捻り、温水を注ぎ足していく。伸ばした左手と気を利かすつもりの無い右肩がぶつかり合い、互いの体温がわずかに触れたが何も言われなかった…から、「ごめん」とひとこと音にするのを躊躇った咥内が、妙に渇く。……アルハイゼンはとことんかわいげの無い後輩である。

    さて、大して熱くもならなかったがこの辺でよしとしてやろう。ついでとばかりに籐籠に入れて持ち込んだ花を湯船に散らしていく。
    「……カルパラタ蓮か」
    崖上に咲くつる植物はその入手の困難さからか、シティの花屋でもめったに見かけることはない。だからこれはカーヴェが帰路の道すがら、自ら集めてきたものだった。淡い芳香と色付いた花弁に惹かれた蝶のように、衣装の裾を泥で汚しながら。
    「のんびりするって言っただろ。何か意見でも?」
    アルハイゼンはそれには答えずに、ふとカーヴェの頭上を見る。今にもほころびそうな花の蕾を模した灯りが、狭くはない浴室を照らし出している。
    「カーヴェ、この照明は何だ?」
    「何だ藪から棒に。『潜心の光』だろ。調度品に関する審美眼が逆立ちしたみたいな君に代わって、この僕が直々に選んでやったんだ。忘れたとは言わせないぞ」
    「その通りだな。そして知恵の殿堂にこれが置かれているのは、光源が人間の集中力に与える影響を考慮した結果と言える。もちろん聡明な建築デザイナーである君なら熟知しているだろう?」
    「……」
    「つまりこの浴室は、スメールでは三番目に読書に適した環境ということだ。……理解したか?」
    知恵の殿堂が頂点、己の書斎が次点でその次がここ、とでもいうのだろうか。だからここで読書に長時間費やすのも赦せ、と。いつになくこじつけめいた主張に文句の一つも言いたくなるが、この男の前で口を開けば終わりなき舌戦となる。人生で千数回目の悟りを得たカーヴェは今度こそ口を噤んだ。花を愛でるほうがずっと良かったから。

    天井あたりでわだかまっていた湯気が水滴となって鼻先に落ちる。頭の中で描いていた設計図が暗礁に乗り上げつつあることを自覚したカーヴェは、指先で葉の一枚を弄ぶ。ぬるま湯でも長らく浸かっていると、身体全体がじんわり温まる。雲の上の城はこんな居心地だろうか。次第に瞼が重くなってくる。
    だが、向かいで読書に興じる男がその無駄に長い脚を組み替えた時、カーヴェの微睡みは急激な断絶を強いられた。

    「あっアヒル隊長が〜!」
    ざぱぁ、と豪快な音がした。
    ランプに照らされた小さな海の中で起きた大きな波が、排水溝に向かってなだれていく。その水流が蓮の花弁と葉とを押し流して、隊列を組んだ鳥の玩具たちがそれに続く。
    自分の引き起こした惨事をまるで気に掛けないアルハイゼンを横目で睨むが、ぷんぷん怒るカーヴェのことを意に介す様子はない。
    「何?」
    「流れちゃったじゃないかまったく!」
    「いや、その妙な呼び方は……」
    「ああ、依頼人のうちにちいさな子どもがいてね。君のこの子たちと同じような玩具を彼女も持っていて、そう呼んでいたんだが……母親が編んだ網に入れて、どこへ行くにも連れ歩いていた」
    まだぷくぷくとした手で握りしめたそれを、「友だち」だと主張して大切にする幼い姿は可愛らしく、思い出しているだけでも笑みが溢れる。
    「そうか。ところで彼らは本当にアヒルなのか? 君の思い込みではなく」
    「はぁ?」
    「アヒルならシティの水辺にもいるだろう。あれらは一様に、白い羽毛を持っている」
    ぐい、と伸ばされたアルハイゼンの左足の踵がカーヴェの肩に食いこむから、ムッとした顔を向けてやる。
    「その通りだ。そこらの子ども達だって君よりは生態に詳しいだろうね」
    「だがこの人形はどう見ても陽だまり色をしている。妙だと思わないか」
    確かにその点については、カーヴェも疑問に思っていた。家主たちにアイデンティティを疑われているせいか、落ち着いた色合いのこの浴室では、鮮やかな黄色の鳥はどこか所在なさげに見える。無機物相手に罪悪感が芽生えそうだ。
    だがここで同意するのは、アルハイゼンが仕立てた議論の俎上に上がらされるのと同じことだ。単純に、気に食わない。
    「思わないな」
    「ならいい。だが残念だ。君の御高説を賜えるかと期待していたんだが」
    聞けばこの愛らしい黄色いアヒルは、スメールで開発された新素材を、フォンテーヌの玩具メーカーが加工した商品だった。暖かみを帯びたその色を陽だまり、なんて浮ついた形容をした彼は、妙な感じがする。違和感の正体を探りながらぺたぺたとその慣れない手触りを楽しんでいると、じっとこちらを見ていたアルハイゼンが口を開く。
    「それ、君と気が合いそうだと思わないか」
    「何だって?」
    「限界まで見開かれた瞳や尖った口元なんかが、徹夜明けの君を彷彿とさせてなかなかに愛らしい」
    「さては馬鹿にしているな?」
    「そうか? 大衆に好まれるいい造形だと思うが」
    「この玩具の話じゃないさ」
    「ああ、その玩具の話ではない」
    これは一体どうしたことだろう?
    カーヴェの耳か頭か感受性かが故障していないのだとすれば、アルハイゼンの台詞はまるで、カーヴェの容姿を誉めたように受け取れる。いや、そんなことあるはずがない。
    カーヴェはまず、同居人の体調を訝しんだ。
    熱があるのか。のぼせたんじゃなかろうか。
    ようく観察してみれば、ぼんやりとうるんだ虹彩と淡く色づいた薄いくちびるが物言いたげにそこにある。
    やっぱり体温が上がっている。そう指摘しようとしてカーヴェはふと、アルハイゼンの首筋に目を留めた。湯に揉まれ鮮やかさを増したカルパラタ蓮の花弁が眠るように息づいている。顔色も表情も、いつも通りの鉄面皮なのに、首筋と、肩と、耳が、赤らんでいる。その呼吸のたび、わずかに上下する肩が、ついさっきまでとは違って見えた。
    濡れ髪のせいか、いつもの装いを脱ぎ去ったからか。水蒸気、やわらかな光源、花弁の反射光……この空間の何かが彼を常よりも幼く見せている。湯の温度で血色が良く見え、いっそ冷たく映る怜悧さもアシンメトリーなうつくしさも欠けていて、そこが彼を危うく見せているのかもしれなかった。
    「なぁ君、もう上がれよ。具合が悪…そうだ」
    常ならざるアルハイゼンの姿に、平静を装った声がすこし震えた。その音が空気を伝わった途端、甘やかにも見えた彼の姿は蜃気楼のように立ち消えた。またもやページを捲る指先は一分の隙も無い。惜しい、と思う。でも何故なのだろう。
    「君に指図される謂れはない」
    「ッ、そんなんじゃなくて……!」
    売り言葉に買い言葉になって、真っ直ぐに届かない関係性を歯痒く思う。それはかつての自分の失態だし、若き彼の所為だった。
    お互いの間にあるのが信頼故の不干渉なのか、破綻した関係の成せる無粋なのか、己ですら判然としなくなる。この生意気な後輩を疎ましく思う輩たちと共鳴するような気さえした。
    「君の態度は気遣ってやった先輩に向けるべきものか?」
    「他人のことを気にしているゆとりがあるのか。随分優しいんだな」
    「じゃあ僕はもう行くぞ」
    「そうか」
    「倒れたってビマリスタンへ運んでやらないぞ!」
    「お構いなく」
    ドスドスと足を踏み鳴らしながら脱衣所へ続く扉をくぐり、派手に音を立てて閉める。こんな家、壊れたって構うものか!……慌ててその考えを打ち消す。自らの美学に反するものだ。家主や依頼者がどんなに嫌な奴でも、全ての建築物は尊重されるべきである。

    せっかく丁寧に洗い上げた髪をタオルでぐしゃぐしゃかき回して、長い息を吐く。
    家族でも友人でもないこの関係をどう形容したものか。酒場の喧騒の中、あのふてぶてしい顔を見上げたあの日から惑い続けている。
    もちろん他人に問われれば答えるだけの間柄は、いくらでもあるのだ。
    けれどもそれら無味乾燥な定義をどこか飲み込めない自分が心の隅で膝を抱えて座っている。

    ……いい加減、こっちを向いてほしい。
    狂って惑わされて、草臥きった心に不意に浮かんだのは思いもしない欲求だった。ずっと昔に生まれて、一度鼓動を止めたはずのそれが息を吹き返しそうになる。それは恐ろしかった。
    慎みも遠慮も恥じらいも掻き捨てた上での共同生活に、今更何を求めるというのだろう?
    (……何を考えているんだ僕は)
    砂漠での連日の仕事に、雨林の冷たい雨。環境の変化が穏やかでない精神に負荷をかけているようだ。わだかまりを疲労のせいにして、カーヴェは思考を断ち切った。

    ++++++++

    騒々しく出て行った先輩の気配が彼の自室へ消えるのを確かめてから、アルハイゼンはゆっくりと息を吸う。深く、思考の森に浸る。

    カーヴェのうなじのあたりで緩く結ばったまとめ髪から、水の滴る音がやけに大きく聞こえた時、嫌な予感がした。耳を塞ぎたくとも、ヘッドフォンは書斎に置いてきたのだった。
    浴室で鉢合わせたところで、多少の気まずさが残るかどうか程度の関係だ。それ以上でもそれ以下でもない。
    けれど……苛立ちを隠さずリシュボラン虎のように噛みついてくる顔も、眉根を寄せて睨むくちびるも。もうずうっとかわいくて堪らないのだから。柔軟性を欠いた表情筋を褒めてやりたくなる。実に有用だ。

    早くに身内を亡くしたアルハイゼンにとって、自分ではない誰かの幸せを願えることはそれ自体が安寧の証だった。
    「俺は、満たされている」
    ちいさく呟く。応えるように水滴がひとつ落ちる。
    それは実感であり確証だった。
    成り行きから鳥籠の神を救け、沈みゆく泥舟の職場を掬い、仲間たちとの思いがけない邂逅を得て。何一つ不自由のない暮らしに加えて、ひとりの凡人として余りあるものを手に入れたと言えよう。あとは適度に職分を果たしつつ、遍く知識に手を伸ばし続けるだけの時間があればこの人生に不足はない。
    対してあの同居人は、あれほどの天賦の才に恵まれ若くして実績と名声を得ながら、更なる高みを目指しているらしい。彼が人の寿命の限りにおいて真の幸福を手に入れるなんて望むべくもない。
    だが。
    名前の無い関係性ならば、喪わずに済む。
    棚に置かれた鮮やかな箱に埃が積もる程、ひとつ屋根の下で暮らしているが、一度断絶した深いところには互いに触れないまま。もどかしく思うことも、胸を痛ませることもない代わりに、長らく熾火のように燻り続けている感傷を飼い慣らすことにも、もう随分慣れた。
    口論と沈黙を幾度も、地層のように積み重ねて思索に耽り思いに沈み、繰り返し辿り着くただ一つの結論に満足しながら、今宵も眠りにつく。
    リビングで盃を傾ける彼に就寝前の挨拶を送れば、何故か不服そうなため息と共に返事が返ってくる。
    いつか彼が贖罪のような損耗を辞め、大手を振ってこの家の玄関を出ていく日が来ればいい。
    彼が彼のための家を建て、新しい「家」を作る日が。
    心から彼の幸せを願っている。


    バスタブから排されていく水流が床下をつたい、遠くへ行こうと足掻いている音が聞こえる。じっと耳を澄ませていると深い青の中へ溺れていくような心地がした。ごぼごぼと耳障りなその声を愛用のヘッドフォンで塞ぐ。雨林の夕立は激しいが、いつにない長雨もきっともう、すぐに止む。
    朝になったらカーヴェに声を掛けて坂を下り、カフェでコーヒーを飲もう。ローズシュリカンドの気分でなかったら、フィッシュロールを買いに酒場まで足を伸ばしてもいい。
    変わり映えのしない、それでも確かに幸福な明日を思い描きながら目を閉じる。
    雨はまだ降り続いている。……もしこのまま夜更けに目が冴えてしまったら、散歩がてらマスターに事前注文をしに行こうか。熱を持った首筋に、雨上がりの夜風はきっと心地良いだろう。

    雨が引き起こしたひと時の湧昇はやがてまた水底に沈むだろう。この家の主は居候の理想主義者よりも余程、夢物語のような浪漫に身を浸している。
    その身のうちに燻る情動はただ月明かりだけが知っていた。


    終わり
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