始まりの話「……なんか、甘い匂いしねェ?」
いつもどおり夜食がてらペヤングを半分コしてたときのことだった。突然、そう、突然場地さんがそんなことを言った。すぐに「学校で女子に抱きつかれたから」とかなんとか言えればよかったのに。それなら本当だしこころもいたまない。だけどオレには心当たりがありすぎて、思わず時を止めてしまった。
初めてのバース性検査から、オレのそれは変わらない。オメガ、いわゆる『産める性』だ。『産ませる性』であるアルファになりたかった、なんて高望みしてたわけじゃないけど、月並みにはショックだった。
こんなものがあるなら男女、なんて区別はなくしてくれればいいのにと思うのは当然だった。オメガが全部抱き心地のいい柔らかい体なら、きっとオレもそれを受け入れた。
だけど現実、オレは男という少し硬めの体に育つ個体だ。柔らかくなれるようちょっと太ってみるとか、試みてもそんな体質じゃなかったようで駄目だった。それにオレはどっちかというとやんちゃするほうが好きで、オメガだから弱いとか、そう思われるのが嫌で鍛えたし喧嘩もした。晴れて抱き心地のいい柔らかい体とは程遠いソレを手に入れたのだ。
それでも別に、産まなければいいだけだ。昔々と違って今は勝手に漏れ出るフェロモンを抑える薬も充実してる。孕むため定期的にやってくる発情期さえなんとか過ごせれば、生涯独身だって構わなかった。多分、かーちゃんが女で、周りのかーちゃんも女ばっかりだから、やっぱり男のオレが産むのはおかしい、っていう固定観念から生まれてる思考だと思う、けどこれをなくすつもりはなかった。
だから、だから。仲良くなる人には一番人口が多くて平凡な
ベータだ、と通してる。男は種を注ぎ、女が産むバース性。つま女に突っ込むことはあっても突っ込まれる対象にはならなくて、クソみたいなフェロモンが漏れなけりゃバレることはない。
はず、だった。
「……ぁ」
「なに、千冬。どしたん」
「えと、いや……別に」
どうしたもなにも、甘い匂いがするって言ったのはアンタでしょうが。それに対してのリアクションにはたしかにおかしかったかもしれねぇけど、どうした、はない。
オレは短く答えて、ペヤングの残りを口に入れた。さっきまで美味しかったはずのそれは、よくわからないけど、味を感じなかった。
場地さんは辺りを見回している。くるくる、視線を動かしてきっと、甘い匂いの出どころを探してるんだ。やばい、逃げたい。でも逃げてどうする、ここはオレの部屋だ。ペヤングの容器と割り箸を持ったまま、オレの体は固まって動かなくなる。
「……ん?」
くん、と場地さんの鼻がこっちを向いた。心臓が、まるで単車のエンジン音みたいに鼓動する。ゴキの後ろに乗せてもらったってこんなに震えねぇのに。
場地さんはオレが持ったままのペヤングの容器と割り箸をオレから奪ってゴミ箱に捨てた。そして、前のめりになってオレの体の、匂いをかぐ。
あ、これきっとアルファの本能だ。そう思った。場地さんのバース性は聞いたことがなかったが、絶対にアルファだという自信があった。他にもバース性を聞いてないやつはいるけど、オメガの本能で誰がなんなのか、予想できた。『産める性』は『産ませる性』を求めやすい。アルファは体も脳も優秀だと言われてるからかもしれない。場地さんを見てると、たまに首を傾げたくなるけど。
場地さんの鼻が、首を撫でた。そんな近いことあるか、と思いながらもオレはやっぱり、場地さんに手を出すことはできなかった。突き飛ばすなんて以ての外だ。いやでも、そうしなきゃバレるかもしれない。抑制剤が聞いてないなら病院にいかなくちゃ。様々な思考が、脳内を回る。
「千冬ぅ」
「……は、はい」
呼ばれると同時に、首筋を舐められた。体が震える。だけどその震えは嫌悪感じゃないからたちが悪い。わかっていることも、またたちが悪い。全部冗談であってほしかった。
「オマエさあ……オメガ?」
「お、れは……」
終わった。バレた。なんでだよ、抑制剤飲んでたらフェロモン出ないんじゃないのかよ。今は発情期前だけど、まだそうじゃない。発情期だって大丈夫、そんな謳い文句の抑制剤を飲んでるんじゃないのかよ。今この瞬間、オレはあの製薬会社の不買運動を決めた。
「イー匂い。千冬の身体からする」
「そ、れ、女子の香水じゃない、っスか……」
「今日抱きつかれてたやつ? オマエ、あれ腕だゼ」
本格的に、終わった。見られてたなんて思ってなかった。心臓の音はいつまでもうるさくて、死ぬんじゃないかと思うくらい。だんだん冷静じゃいられなくなってきたのは気のせいだろうか。それはバレそうになっている焦りか、それとも。
「ハァ……、別に取って食おうってわけじゃねェよ」
「そりゃ、そうでしょ」
溜め息をつかれた瞬間、目の前が真っ白になった。そしてなんとか紡いだ言葉と、続けた「オレなんかを」の捨て台詞。あれ、なんでオレ、ショック受けてんの。そんなの、めんどくせぇやつと思われたんじゃないかって不安からに決まってる。場地さんにはそんな、バース性とか性別とか、気にしないでほしかっただけなのに。ただ、そばにいたかっただけなのに。
「……昨日、テレビで見たんだけど」
場地さんはゆっくりと、そう言った。突然なんだよと、思わなくもない。
「アルファには……好きなやつがオメガかどうか、そいつが抑制剤飲んでても……、わかる本能があるんだってよ」
「……は」
「具体的にどんなふうに、とかは言ってなかったけど、でも、こういうことか、って……なんとなくわかってよォ……」
いや、まて。文脈が最初から最後までおかしい。なにひとつ繋がってない。違う、そうじゃなくて、オレの頭が繋げられないだけだ。そんな、そんな都合いいことあるわけない。
「ちゃんと聞いてっか?」
「き、いてます」
「……じゃあ、返事くれよ」
返事とは。オレはなにも問われてないし、なんなら聞いてるか、という問い掛けにはちゃんと答えた。
こんなことでも考えてなきゃ、心臓が爆発する。本当に、ホントウなのか。オレは思わず、場地さんがいない側の、自分の頬をつねった。痛い。
「……夢じゃ、ねぇの」
「夢がいい?」
「そんな……、」
「好きだ、千冬」
そんなわけない、そう言おうとしたオレの口は、場地さんの言葉で遮られた。その言葉は、オレが一番聞きたくなくて、一番聞きたかった言葉だ。
バレたくない、そう思っていたのはこの人に会ってから、特にだった。オレはこの人に、場地さんに恋をしていたから。だからオレがオメガだって知られたくなくて、意識したくなくてバース性も聞けなかった。オレがその対象になる可能性を信じるよりも、ならない可能性を恐れて触れずにいた。この人のそばにいるだけでいい。そう、思ってたのに。
「ッ……」
勝手に溢れて落ちる涙は、本当はこの人の前で見せたくなかった。オレは東京卍會壱番隊副隊長、松野千冬。こんなことで泣いちゃだめだ、だけど、うるさかった心臓が、いつまでもうるさいままだった。
「オレも、すき……っ」
「ン」
ちゅ、と音を立てて吸い付かれたのは、今まで鼻が撫でてた首筋だ。食われるかと思った。食われても、いいけど。
「キスしてい?」
「ぁ、……はい」
わざわざそうして宣言をして、それから触れた唇。触れるだけ、すぐに離されたら、唇がかすめる距離で「ちふゆ」と名前を呼ばれた。
「オレ、はじめて」
「……オレも、です」
場地さんに関してはホントかよ、と言いたくなったが、何度もついばむだけのキスをしてきたから、きっとその先はわからないか、知識しかないんだ。なんだか可愛く思えた。
「ーーーー……」
「え、え? なんスか、いきなり……」
唇を離した場地さんは、オレの体を抱きしめた、それはもうきつく、きつく。心地よくて頭が馬鹿になりそうだったけど、すんでのところでこらえて、背中に手を回す。
場地さんの手がオレの頭を、背中を、腰を撫でる。まるでそこにあることを確認するような手付きに、おかしくなって笑った。
「なンだよ……」
「いや、なにしてるのかなと思って」
「……ずっと好きだったンだぜ? それなのにこう、してて……」
そう言うと、もう一回、って付け足してキスをしてきた。相変わらず触れるだけでまるで犬か猫みたい。オレも経験あるわけじゃないし、これ以外のキスをどうやるのかなんて、知らないけど。
オレは、生まれてはじめてオメガで良かったと思った。好きな人が、オレのために珍しく恥ずかしがって好きだって言ってくれて、それはオレのフェロモンが、よく分かんねぇけどこの人に届いてたおかげで。そんな、科学を超えた不思議な本能ははた迷惑だけど、それでもオレは、この瞬間を逃したくないと思った。
この瞬間だけじゃない、もっともっと、手を離さないでそばにいてほしいって。
「場地さん」
「ン?」
「もっと、キスしてほしいっス」
触れるだけ、それで良かった。この人と体温を分け合えるだけで、体中のすべてが満たされるんだから。
──これは、オレと場地さんの新しい始まりの話。