オマエがいいんだって それは、何気ない一瞬のことだった。名を呼ばれ、そちらを見れば不意に触れて、潤んだそれはすぐに離れていった。さっき、つい数分前にリップクリームを塗ったのを見たから、そりゃあ、潤ってるんだろうけど。
「……なんだよ」
「つい、うっかり」
まるでいたずらをした子供のように舌を出したココの顔が、ほんの少し、いつも見ていなければわからないほどに赤くなっていたと思う。そういう”キビ”には疎いほうだと思うが、ココのことなら話は別だった。
だからそのキスに意味があるなら意味を知りたい。うっかりってなんだよ、うっかりで他のやつにもキスすんのかよ。だんだん腹立ってきた。今ここにレンガでもあったら投げつけてたかもしれないが、ココの家の中は投げたらヤバいもんしかねえ。
「じゃあ」
オレはココの腕をつかんだ。引いて、うっかりキスをした。そこまでやってのうっかりがどこまで通用するかはわからないが、リップクリームを事前に塗って真正面からキスをするよりはうっかりだと思う。
「なんでイヌピーがすんの」
「オレが聞きてえよ」
それは、ココがした理由だ。なんで、うっかりなんて言うんだよ。
「ちゃんとしろ」
「はあ?」
「うっかりは嫌だ」
わがままか、そんな訳はない。キスをしておいて二度目三度目は嫌だなんて言わせない。ココは少し悩んだあと、オレの後頭部に手を回して、引き寄せてキスをした。まだ潤ってる唇。オレはどうだろうか。そんな部分に気を回したことはないから、きっとカサついてる。
そう思っていたら、不意になにかがオレの唇をなぞった。濡れたものなんて舌しかなくて、舐め回されてると気づく。あ、これはいわゆるあれだ、ディープキス。恋愛ごとに興味がなかったオレでも多少の知識はある。本当に多少だが。
ココはきっと経験があるんだ。そう思いながら唇を薄く、開いた。それを招くように、自分の舌も差し出して。一瞬驚いたように動きを止めたココは、まるでストッパーを外したようにオレをソファーに押し倒して口の中に舌を突っ込んできた。
食われる。そんな感覚だった。跨がられては身動きも取れなくて、ただひたすら、オレの口内を蹂躙する舌に応えるだけ。応え方なんてわからないのに、ココがするようにそうしたらどこか嬉しそうにもっと触れてくれる。気持ちいい。そんな気がする。
「ぁ、は……」
「……いぬ、ぴ」
唇が離れればよだれが伸びた。ノした相手のそれが手についたら気持ちワリぃと思うのに、粘膜同士で触れ合ったココのそれはそう思わねぇ。根本的になにもかもが違う。
「その、あの、……違うから」
「は?」
ここまでしておいて違う、とは。そもそもなにと比べて違うというのか。キョロキョロと視線を彷徨わすのが気に食わなくて、オレは上体を起こした。覆いかぶさられてる状態でそんなことをすればどうなるかはわかってる。それが狙いだ。
「ってえ!」
ゴツン、と音を立ててぶつかった額。オレはココに頭突きをかました。そうすればココはぶつかった場所を押さえながらオレを真っ直ぐと見てくれる。
「……んな物理に頼ンな」
「オレはこれしかわからないからな」
。返した言葉には『ちゃんと言われなきゃわからないんだぞ』という意味を込めた。伝わるだろうか。ココなら、きっと伝わると思う。
「……その、別に赤音さんとイヌピーを重ねってるわけじゃねぇからって、そういう意味の違う」
「……あぁ……」
そんなこと一欠片も思っていなかったから、思っていた理由と違ったことによる安堵のほうが強い。もう忘れるって言ったんだから、そんなこと、気にしなくてもいいのに。
「じゃあ、今のキスは?」
「は……言わすのかよ」
「最初うっかりで誤魔化そうとした罰だ。言えよ」
今度はしっかり、その顔が赤くなる。オレのことで照れてるココがひどく愛おしく見えた。
「……好きだから、イヌピーのこと」
「うん」
「うんって! 返事かそれ!」
「怒るなよ、ちゃんとオレも好きだから」
「だああ! 適当かよ!」
仕返し。うっかりで済まそうとしたことが、オレは本当に嫌だったみたいだ。ココの気持ちをちゃんと受け取りたかったのに、なにも言わねぇでやめようとするから。
「……オレはオマエがいいんだって」
「嬉しい」
「ほんと?」
「なにをやったら信じてくれるんだ?」
いつの間にか絡められた指で、手の甲を撫でる。ココの体がびくりとはねて、少し可愛いと思ってしまった。
「……全部。全部くれよ」
「ああ」
ようやっとオレを求めてくれた。ずっと、その言葉を待っていたんだ。オレだって、オマエがいいんだって。知ってるだろそんなの、ずっと、最初から。