無題(無名)「おや、またあなたウチへ来たんですか」
スイセンの香りがくすぐったい庭から顔を覗かせると、家の主である男は少し困ったような、嬉しいような、そんな顔をして俺に近づいた。よう、久しぶりだなと答えてみせると男はやっぱり困ったように小さく息を吐いて「お入りなさい」と目を細める。縁側に座り込むと、男もそこに置いてある椅子に深く腰を落ち着けてじぃ、と俺を見ている。幻太郎、と男の名前を呼ぶと、彼は「食べ物ならありませんからね」とひとさし指を立てて軽く振った。腹が減った、何か食わせてくれとぼやいてみせると男は「おいで」と椅子に深く体を預けたままその白い腕だけをこちらへ伸ばした。
夢野幻太郎は俺の友人だ。
いつだって大きな家の一室で何やら物を書いていて、それで食っているらしい。たまに顔を覗かせて声をかけると、死人のような顔で出迎えたり、逆に怖いほど爽やかな笑顔でメシを与えてくれたりする。そんな友人は、痺れをきらしたように椅子の中で両腕を上下に振っている。
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