時計泥棒 犯行声明はただの一言だった。実にシンプルで端的なものだから、かえって深い意味があるのではと邪推してしまうくらいだ。青年は昨晩買い足したばかりのコーヒーを淹れながらふと空を見た。青の絵の具を隙間なく塗って、その上に白いペンキをぶちまけたみたいな空だ。あれは積乱雲というやつだろうか。雲に詳しくない彼はそんなことをぼんやりと考え、頭の中の雲を払うためにコーヒーに口をつけた。
「時計を見ろ」
呟いて、時計を見た。一人暮らしの狭い家の中、テレビの前に置かれたデジタル時計を見る。
そこにはなんの数字も、アルファベットも浮かんではいない。
「時計を見ろ」
犯行声明はただの一言だった。
その日から時計はただの置物になった。
時計がないと時間がわからない。
時間がわからないと仕事に行くためにいつ家を出て、どの電車に乗っていけば間に合うのか、早すぎないのかもわからない。
いつまで定時で、いつから残業なのかわからない。
みんながみんな体内時計で思い思いの生活を送る。青年は朝の日課のコーヒーを飲んで、家を出た。いつも7時に目が覚める。支度をして7時半。15分歩くと駅があって、57分の電車に乗れば9時に間に合う。毎日14時ごろお腹が空くし、帰りの時間の頃には何故だか無性に帰りたくなる。が、そういう時ほど面倒な仕事が入るものだ。対処して30分。家に帰って家事を済ませて20時半。あと少しで好きなドラマが始まる。そんな風にして、なんだかんだで生活を送る。
「時計を見ろ」
青年はうわごとのように呟いた。
時計は何も返しはしない。
時計の鳴る音がする。いつも6時半に設定しているアラームだ。青年は飛び起きて、けたたましい呼び声を乱雑に黙らせた。
「時計を見ろ」
言い聞かせるように呟いて、時計を見る。
水曜日、6時半。充電が少ない。
準備をして、7時半。腕時計をつけて、電車に乗って会社に向かう。踏切安全確認で5分の遅れ。始業のスキャンはギリギリだ。今月の残業時間は法律ギリギリだから今日は絶対に定時で上がらなければならない。だが、そういう時ほど面倒な仕事が入るものだ。
家に帰って、家事をして、21時半。ドラマは録画を見るしかない。最終回の特番で1時間半ある。
時計を見ろ。
時計は残酷に時間を告げる。
手首に巻かれた腕時計は、なんだか手錠のようだった。