抗う者達⑥「あ、そうだ、忘れる前に」
狭い個人用テント内に詰めて腰を下ろした杉山は思い出して言った。
「八木山、すまん」
そして頭を下げる。八木山は首をかしげた。
「何がだ?」
「咄嗟のこととはいえ、お前のことを『ヤギ』と呼んでしまった」
「? それがどうかしたか? 以前からたびたびそう呼んでいただろう」
「いや、まぁ、そうなんだが……しかしあの呼び方は」
七浦が使っていた。杉山はそれを気にして遠慮していたのだ。
苦笑いを浮かべる八木山。
「別に構わない。好きに呼んでくれ」
「だが」
「いいんだ。他でもない俺とお前の仲だろう。今さらだ」
それに、と続ける。
「お陰で自失から立ち直れた。むしろ感謝している。ありがとう」
今度は八木山が頭を下げる。杉山は後ろ頭をかいた。
「……そうか。お前がそう言うなら」
照れ臭そうに呟く。
「じゃぁ、八木山サン、やぎサンでいい感じ?」
えべたんが言った。うなずく八木山。
「あぁ。……考えてみれば、俺も名前を呼び捨てにしているしな」
「構わんさ」
「別にいんじゃね?」
杉山とえべたんは笑った。
──閑話休題。
「さて、先程の話だが」
穂高が入れてくれたはちみつ入りのコーヒーを口にして一息ついた杉山が言う。
「無理に話さなくてもいいぞ?」
念を押す八木山。
「ナンバーワンを諦めたお前が、何故この登山についてきてくれたのか、その延長線みたいなものだからな」
「それは、最初に説明したはずだが」
首をかしげる杉山。
「それはそうだが」
複雑そうな顔をする八木山。自分から頼み込んだからとはいえ、杉山を連れ出したことには正直後ろめたさがあった。
杉山は苦笑した。
「お前の言いたいことは分かるがな。……三郎が気になっているのは本心だ。そしてお前等が心配なのも事実。だから、今回の登山を辞退する選択肢はなかった。正直悩みはしたが、見送れば後悔すると思った」
八木山はうなずく。
「そう、そこだ。お前は基本的にお人好しなんじゃないかと思ったんだ。そんなお前の『動物全殺しの男』なんて反倫理的な姿には違和感しかない」
「……」
八木山の言葉に杉山はしばし沈黙し、それから微笑んだ。
そして告げる。
「弱いからだ」
「弱い?」
聞き返す八木山。
「そう、私は弱い。昔から弱かった」
「いやいやいや、徹心が弱かったら全世界の人間が弱小じゃん」
ありえないとえべたんが手を振る。
しかし杉山は肩をすくめた。
「そういう意味ではない。私は、心が弱かったんだ」
「……」
黙って先を促す八木山。
「心が弱かったから、怖くて……しかしそれを認めることも恐ろしくて、誤魔化すように殺戮を繰り返してきた。そうして己を錯覚させながらこれまで生きてきたのだ」
「そうだったのね」
穂高が慰めるように相槌を打つ。
「だが、まぁ、この通り、どうにもならない脅威もあることを思い知り、諦めたというワケだ」
そこで深くため息をつく杉山。
「今まで手にかけてきた動物達には詫びる言葉もないし、許されるつもりもないが……せめてこれからは慎ましく生きようと思っている」
そして杉山はえべたんに微笑みかけた。
「だからお前の帰りも原宿のタピオカ屋で待っているぞ」
えべたんがいつかK2と狂気山脈へ挑むことを意識しての言葉だった。
「……しょーがないからタピオカ飲みに行ってあげるし」
杉山の決意と人生の転機に、にっこり笑ってえべたんも応える。
杉山はうなずいた。
「だから、皆で生還しよう。可能なら三郎も連れて。そのためなら、いくらでも私の持ちうる力を尽くそうじゃないか」
「……」
だから杉山は随所にて率先して行動していたのだ。八木山は彼の言葉を噛み締めた。
「もち!」
えべたんが元気に応える。……彼女も初のビレイの衝撃から立ち直ったようだ。
「私もそのために来たのだから」
と穂高。
「あぁ」
八木山もうなずいた。その内心で彼は杉山を──この誰よりも優しく悲しい男を、絶対に殺してはならないと強く強く決意したのだった。
「徹心、お前は強いよ。誰よりも、強い」
確信を持って告げる。
「そんな褒めたって何も出ないぞ」
杉山は照れくさそうに笑った。
また、悪夢だ。
足元の闇溜まりが呻いている。
──志海、だったモノが手招いている。
「生きて帰れると本気で思っているんですか?」
地の底から這うように。複数の声が重なって。
「逃がしませんよ」
闇溜まりから目だけをのぞかせて。
ニタリと笑う、
志海三郎。
「僕と一緒に山とひとつになりましょう?」
ぶわりと沸き立つように。
声が。
声が。
声が、声が、声が、声が、声が、声、声、声声声、こえこえこえこえコエコエコエコエコエコエこえ、
叫びが叫び、いくつもの叫びが、あががががががががが、
叫びがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ反響し、
頭の中が揺れているような感覚と共に目が覚める。
気分はあまり良くはない。耳の奥でまだ、邪悪な声が細く弱く鳴り響いている。
しかし停滞するか進むかと問われれば、進む一択だ。
長居はむしろ危険だろう。何度も悪夢を見せられるのは精神的にかなりの負荷がかかる。
それに早く志海を見つけなければならない。
時間は有限で、自分達の体力も有限だ。特に八木山は死へのタイムリミットを抱えている。
天候は降雪。
四人とも、確認するまでもなく出発の準備をしていた。
現在、標高六千メートル。
一応のゴールと定めた七千メートルまであと少しである。
──しかし目前には壁がそびえていた。
一ピッチほどの、ミックス帯。
黒い岩と、へばりついた氷が混ざり合う、難易度の高い垂直登攀となる。
「この岩は、大黒壁と同じ壁だろうか?」
杉山が呟く。
八木山が壁面に触れ、岩の隙間をのぞき込んでみたりした。
「……やはり見た目からは分からないな」
険しい顔をしてため息をつく。
「お前の地質学の知識でも無理か」
「Googleで狂気山脈の壁について検索できたらスゲーわ」
笑うえべたん。
「本当にカムやナッツは打てるの?」
前回大黒壁を登らなかった穂高が尋ねる。八木山はうなずいた。
「あぁ。ただ、今回は本当に転落に気を付けないとな……」
昨日のことを思い出し、八木山は気を引き締め直す。壁面に傷を付けないように中間支点を打つ時は、カムやナッツと呼ばれる器具を壁の隙間に挟む。しかし転落者を支えるには強度が心もとないことも少なくない。衝撃で支点が外れて落下、なんてことになったらひとたまりもないだろう。
「分担どうするー?」
「私が登るわ」
えべたんの問いに穂高が言う。
「いや、ここはまず経験者の我々で挑んだ方がいいんじゃないか?」
そう提案する杉山。
「でも、えべたんと八木山さんは休ませたいところなのよね」
「あぁ、なるほど」
昨日の今日でまた垂直登攀である。
「えー、いいよ、やるし!」
やる気充分のえべたんに対し、八木山はしばし思案した。
「俺も大丈夫だが……いや、そうだな、今回は任せるか」
「心配性……」
不満そうに頬を脹らませるえべたん。八木山は苦笑する。
「昨日は気負って登って落ちたからな」
「じゃぁ、いいよ。えべたんも一回休みにするし」
隊長の判断を尊重し、えべたんも渋々引き下がることにした。
「では私かあずあずだが……本当に行くのか?」
穂高はうなずいた。
「えぇ。後学のために経験しておきたい。その代わり、ナビゲートよろしくね」
「任せろ」
お決まりのサムズアップだ。
「じゃぁ、ビレイヤーは俺だな」
「そうなるよねー」
ビレイで衝撃を受けたえべたんに再度任せるわけにはいかない。えべたんは肩をすくめた。八木山がビレイヤーを務めることになった。
杉山は壁から少し距離を取り、目視と双眼鏡を頼りに登攀ルートを探る。その間に準備をする穂高と八木山。
「徹心、どおー?」
いつでも開始できる段になり、えべたんが杉山に声をかけた。
「たぶん、大丈夫だ。そこから登り始めよう」
「了解」
杉山の指示通りに穂高は登攀を開始した。
幸いなことに、穂高は再び問題なく登りきる。
「あと、一つ」
予定進路方向を望んでも見えないが、ピークをかわして進んだ先には、衛星写真にあった通りもう一つ壁が存在している。
それを上がれば七千メートルまで間もなくだ。
「……」
志海の姿も、手がかりすらも、全く見つけられずにいるけれど。
本当に、この先に、期待するしかない。
いて欲しいと、例え遺体であったとしても、いて欲しいと、強く強く願う。
そうでなければ八木山が危うい。
不眠によるタイムリミットもそうだが、何より穂高が心配しているのは、見つからなければ七千メートルで引き返してはくれないかもしれないということだった。
体力が続く限り彼は捜し続けるかもしれない。どうせ長くないからと、無理を承知で、さらに先へ進んでしまうかもしれない。
引き返したとしても、帰らずにまたすぐ山へ戻ってしまうかもしれない。
その時、自分は八木山を阻止できるだろうか。
もちろん全身全霊を以て引き止めるつもりではいる。しかし八木山の決意はあまりにも強い。
正直、呑まれない自信はあまり、ない。
杉山とえべたんが協力してくれたら心強いが……もし杉山とえべたんが八木山の意思を尊重してしまったら、もう無理だ。
事前に頼んではいた。八木山のいない所で。しかし、仲間思いの二人の願いは、八木山だけでなく志海にも向けられている。二人だって、志海を見つけたいだろう。
そうなったら、彼等を見捨てて自分だけ帰るという選択肢を選べるはずがないではないか。……それに穂高とて志海を見つけたいと思っているのだ。
「──いまさら、か」
本当は、解っていた。最初から、そうなる可能性もあると、むしろそうなるのだろうと。それでも、いや、だからこそ、自分はついてきたのだ。
共に死の淵をのぞく覚悟を決めて、ついてきたのだ。
三人を生かすために。
きっと、超常的な恐怖にさらされて、揺らいでしまっているだけだ。
穂高はかぶりを振った。
強く意思を持たなければ。
気を取り直し、穂高は下の三人の登攀のために支点を準備し始めた。