抗う者達⑧ 眠れない時間は、誰もがロクでもないことを考えるものだ。
──もし志海が見つからなくても本当に大丈夫なのか。
口では大丈夫だと答えはしたが……正直なところ、八木山自身にも分からなかった。
だが三人の命を危険にさらし続けるのも不本意で、もし何かあれば睡眠どころの話ではなくなるのは火を見るより明らか。自分のせいで死なせてしまうなんてことになったら、その後悔は間違いなく己を殺すだろう。
そんな八木山にとって、えべたんの提案は渡りに船であった。
同時に、そう考えた自分に対して怒りが湧く。
えべたんの果敢な意欲は自発的なもの、ということになるからだ。何かあった時に、自分は止めたがえべたんが望んだ、なんて話では、責任逃れも甚だしいではないか。
あぁ、志海。お前は本当に何処にいるんだ。焦燥と恐怖が八木山を急かす。
せめて手懸かりだけでも出てきてくれれば、もう少しマシな心境でいられたかもしれないのに。……いや、逆に急き立てられてなおさら余裕がなくなるだろうか。
見つけたい。出てきて欲しい。早急に。できれば生きて。最悪、遺体でも。
これ以上は長居したくないし、仲間にもさせたくないのだ。
そして、志海、もし生きているなら、残しておきたくない。可能性が微塵でもある限り、諦めたくはない。
まるでシュレディンガーの猫だ。蓋を開けてみるまで、中がどうなっているかは決まっていないのである。だから期待してしまう。
その期待は、毒だ。
全身に回ってしまう前に解毒しなければ、俺達は──
「ヤギ、起きろ。ヤギ」
声が眠る八木山を揺する。
「んん……」
八木山はまどろみの中からぼんやりと目を開けた。
初めに視界に広がるのは薄明かりが照らし出す、霞で滲んだような配色の世界だ。やがてそれが像を結び、はっきりしてくる。
自分にしては珍しく寝ていたらしい。人に起こされるのは久し振りである。
「もう朝……」
目を覚まし、
「 ぁ ?」
八木山は凍りついた。
死体が自分を見下ろしている。
「っ、」
七浦、と名を呼ぶはずの口が震えて音にならない。
またか。
まただ。
狂気山脈だ。
狂気山脈が、悪夢に七浦を使ってきやがった。
七浦の死体は生気と表情のない顔で八木山を見下ろしていた。
何かをするでなく、ただひらすら八木山を見下ろしていた。
「……っ!」
その、虚ろな目から視線を外せない。
七浦の、七浦の死んだ、死んだ眼差しから、七浦の眼差しから、目をそらせない。
あぁ、視界から、視界から現実が、どんどん流れ込んでくる。
七浦の死が、八木山の目から侵入し、頭を、体を満たしていく。
八木山の唇がわなないた。心の底から何かが、何かがせり上がってきて溢れそうになる。
ななうら、
ななうら、
七浦、
なな、う、ら、
八木山はヒュッ鋭く息を吸い込んだ。
喉の奥で感情がはぜる、
──寸前。
おもむろに、
「……?」
七浦が腕がゆっくりと動き出した。……動いた?
横に水平に上がり、
そして、
外を指差す。
外?
七浦の唇がかすかに動いた。
し
う
み
「なんだ!?」
杉山は慌てて飛び起きた。バサバサ、ガサガサと、激しい音がしたのだ。
すぐさまテントを出て周辺を見回す。えべたんと穂高も出てきていた。
「八木山君!?」
異変に気付いたのは穂高だった。
杉山が目を向ければ、なんと八木山が装備もそこそこに吹雪の中を何処かへ向かって走っている。
「ヤギ!!」
杉山は駆け出した。強風や足元にもつれもつれ走る八木山の後ろ姿から、ただ事ではないと判断した。
すぐに追い付き、背後から抱きついて身動きを封じる。
しかし八木山は激しくもがいた。
ななうら、ななうらが、ななうらが、
正気を失った目で叫びながら前方に腕を伸ばし、暴れる。
「落ち着け、八木山! 七浦はもう亡くなっているだろう!」
「遺体だってここにはねーじゃん!」
杉山に続き、えべたんもなだめる。
しかし八木山は七浦の名前を連呼しながら暴れ続ける。
「駄目、完全に正気を失ってるわ。全く聞く耳を持たない……!」
困り果てたように穂高が言う。
杉山は舌打ちした。
「仕方ない!」
言うが早いか。
「が……っ」
八木山の首に腕を回して絞め落としてしまった。
ぐったりと力が抜けて崩れる八木山。
「ちょ……杉山君、無茶しないで!」
穂高は杉山の行動をとがめた。
「しかしこうする以外どうしようもなかっただろう」
八木山の体を担ぎながら杉山は肩をすくめる。
「脳を損傷させかねない危険な行為なのよ!」
ただでさえ睡眠不足で弱っている状態だというのに。穂高は顔面を蒼白させて指摘する。
「それは知っている。だが私も多少は人体について理解しているつもりだ。何せ何人もの相手を落としてきたからな。加減はした」
「さすが動物全殺し~」
口笛を吹くえべたん。
「感心するところじゃないから……」
眉をひそめてため息をつきながら穂高は八木山の顔をのぞき込んだ。まぶたを指で開き、ライトを当てる。顔色、呼吸、痙攣などもなさそうなので、ひとまず大丈夫だろうと判断した。
「じゃぁ、戻るか」
杉山がきびすを返す。
「待って」
それをえべたんが呼び止めた。
「ん? どうした、えべ」
えべたんを振り返る。えべたんは吹雪の中を凝視していた。
「えっ」
穂高も気付いたらしかった。
杉山はいぶかしみながら同じ方向へ視線を転じる。
「……誰だ?」
黒い影が立っていた。
「七浦さん?」
穂高が首をかしげる。影は八木山が向かおうとしていた先にいた。
「いや、あんな顔じゃなかったはずだ」
杉山が否定する。
「ってかさ、なんで見えんの」
えべたんが言う。二人ははっとした。
吹雪で視界が閉ざされているというのに、その向こうにある人影をはっきりと捉えることができる。
しかも黒い影にしか見えないのに、顔が判別できた。
三人は狂気山脈が見せる怪異かもしれないと警戒した。
「……日本人だよね」
目をこらしてよく観察するえべたん。
「第一次登山隊の一人か?」
と杉山。
「いいえ、あの顔はメンバーにいなかったはず」
穂高が答える。
「二人の知り合いでもないんでしょ?」
えべたんの問いにうなずく杉山と穂高。
「じゃぁ、やぎサンの知り合い?」
「可能性は否定できないけど、どうかしら」
と穂高。そればかりは本人に確認してみないと分からない。
そうこう話している間に、人影は動きを見せた。
「あっ」
声を上げるえべたん。
人影はゆっくりと右斜め下を指差した。
「あそこに何かあるのか?」
「でも杉山君、今行くのは無理よ」
穂高が言う。
「この天気ではな。それに、迂闊に近付くわけにも……うわっ」
話の途中で人影はどろりと崩れて消えてしまった。
「……」
沈黙してしばらく様子をうかがう三人。だがそれ以上、何かが起こるということはなかった。
「戻りましょう。八木山君を休ませないと」
やがて穂高が提案した。
「そうだな」
うなずく杉山。
「明日、天気が良かったら確認しに行ってみよ」
えべたんは言った。
その日の朝は珍しく快晴無風だった。
「!!」
飛び起きた八木山は慌てて周囲を見回す。
さっき、七浦がいた。
生ける屍と化していた七浦がいた、はずだった。
しかし、もはやいない。いた形跡もない。
夢だった。
夢だった……のか?
ただの夢?
狂気山脈で?
「……」
いてもたってもいられなくなり、八木山は寝袋から抜けた。メットをかぶってテントを出る。……彼はまだ正気ではなかった。過酷な高所で道具を持つことなくさまようのは自殺行為に等しい。
「あ、ヤギ、おは」
杉山の挨拶を無視して走り出す。昨夜、七浦が指差した方へ。背後でため息を吐かれたが、聞こえなかった。
八木山は正気ではなかったが、足元に注意する理性は戻っていた。風がないことも彼の背中を押した。走る彼は間もなく岩の縁にたどり着く。
目の前には急斜面が広がっていた。
「七浦……」
八木山は祈るように呟いた。
何もなかった。
青い影も、荷物の一部も、パラシュートも、遺体も、何も。
拳を握り締める。
諦めるのは早い。斜面の所々が出っ張っており、雪の吹き溜まりがある。埋まっているかもしれない。
正気ではない八木山は一番手近な吹き溜まりまで道具もなく斜面を下ろうとした。
下ろうとして、
「!!」
足を滑らせた。
そのまま転倒し、
──手首を掴まれた。
「間一髪!」
降ってきた声に顔を上げれば、杉山がいた。杉山が八木山の手首を掴んで助けたのだ。
「………………徹心?」
ぽかん、と。八木山は相手の名を呼んだ。何度か目をしばたたかせ、それから辺りを見回す。
あれ?
「あ……俺……」
「やーっと正気に戻ったか、ヤギ」
杉山は深々と息を吐いた。それは安堵だった。
「まさかあんなに素早く出ていかれるとは思わなかった。間に合って良かった……」
「す、すまん……」
呆然としながら八木山は謝った。遅れて記憶が追い付いてくる。自分の行動に背筋が粟立った。
なんてことを。
一歩間違えば死んでいたではないか。
それを認識したとたん、どっと汗が湧き、鼓動が早鐘を打ち始めた。まるで垂直登攀中に転落した時のようだ。
「やぎサン、大丈夫ー!?」
えべたんが杉山の後ろから叫ぶ。
「大丈夫だ! すまん!」
八木山は叫び返した。
「ひとまず上がれ」
「あぁ」
杉山の言葉に八木山はうなずき、体を反転させて状態を起こそうとした。
ぼこり、と左足が雪の吹き溜まりに沈む。
「!」
「どうした?」
ただたんに雪に埋まっただけのように見えた杉山は、八木山の様子に首をかしげた。
「雪の下が空洞になってる」
「何」
八木山の答えに杉山の顔色が変わった。
「ねぇ、徹心」
「……」
徹心とえべたんが何やら顔を見合わせる。
それからえべたんが背後を振り返って呼びかけた。
「梓ちゃん!」
「こっちはいつでも大丈夫よ」
穂高が返す。八木山からは見えなかったが、地面に支点を打った穂高がビレイヤーとなって杉山を補佐していた。今現在の八木山は知る由もなかったが、昨夜のことがあり、三人は吹き溜まりを捜索するためにあらかじめ懸垂下降の準備をしていたのだった。
えべたんはもう一本のロープを八木山に投げた。八木山はそれを杉山が掴んでいない方の腕に巻き付け、手首を離してもらう。そして両手でロープを掴んだ。
「このまま降りられそうか?」
杉山が八木山にたずねる。八木山は足で雪を崩し、少しずつロープを下げるようえべたんに合図した。
洞が空いていた。入り口は人が屈んで入るくらいの狭さだが、中へと緩やかに下っており、進むにつれて広くなっている。メットのヘッドライトを灯せば、洞はずっとずっと奥へと続いているように見えた。
「!」
八木山は息を呑んだ。
ライトの明かりが届くぎりぎりのところに、
人の足!!
八木山はロープをほどいて駆け寄った。
すぐにその足の持ち主が明かりの中に姿を現した。
「三郎!!」
壁に寄りかかって足を投げ出しているその人物は、志海三郎、その人に間違いなかった。
傍らに寄り、首筋に手を突っ込む。志海の体は冷たく、顔色も悪く、ぐったりとして身じろぎ一つしない。
しかし。
「三郎ぉ……!」
八木山は涙を堪えるように顔を歪ませた。──あぁ、七浦!!──かろうじて、脈があったのだ!
「ヤギ! 三郎は!? 生きてるか!?」
遅れて洞に降りてきた杉山が問う。
「梓さんを呼んでくれ!」
それが答えだ。喜びに顔を輝かせ、杉山はえべたんに叫ぶ。
「あずあずを呼んでくれ!」
「志海さん、良かった! 待って、今呼ぶ!」
えべたんは一瞬ガッツポーズをして穂高とビレイを交代しに向かう。
すぐに到着した穂高は改めて脈を取り、息をついた。
「間違いなく生きてる。でもかなり弱っているわ。早く下山して処置をしないと間に合わなくなるかも」
それから体をウェアの上から触診し、難しい顔をする。
「もしかしたら末端が凍傷で壊死している可能性もあるわね」
「生きていたならあとは下山に集中するだけだ。速やかに準備を」
そこで、八木山は言葉を止めた。
「八木山君?」
いぶかしむ穂高を手で制す。
「……」
八木山は洞の奥を見た。何か、聞こえたような気がした。
嫌な予感がする。
「徹心、三郎を背負ってくれ」
「分かった」
それから洞の入り口から顔を出し、外へと声を張り上げる。
「えべたん! すぐに下山準備をしてくれ!」
「おっけー!」
八木山のただならぬ様子を察し、指示通りに動く二人。穂高は杉山が志海を背負うのを手伝う。
「おい! 三郎がなんかぶつぶつ言ってる!」
耳元で念仏のような声を聞き、杉山は気味悪がって叫んだ。
「なんか、てけりり、とかなんとか」
「いいから早く洞から出ろ!」
聞いてやりたかったがそんな場合ではなかった。早急にこの場から去らなければならない。八木山の中で警鐘が激しく鳴っている。
立ち去る瞬間、志海のバックパックが目に入った。ファスナーの隙間からキャットフードの空袋が見える。
「……」
生きようと、していたんだな。死の淵をのぞき込むような登山をしていた男が。
だが八木山は意識をすぐに切り替えた。感動している場合ではない。少し悩んだ末、志海の荷物はやむをえず置いていくことにした。
急いで洞から出て、斜面を登攀し、来た道を戻る。
「テント全部は片付けられないんじゃね!?」
えべたんが言う。
「二つあれば充分だ! 行くぞ!」
幸いにして快晴無風。四人は志海を連れて下山ルートを猛進した。
最初の壁を最後に降りたのは八木山だ。降りる直前にテントがあった方向を改めて確認する。何もない。彼は速やかに下降した。
その直後。
タールのようにてらてらと鈍く光る黒い不形の異形が、キャンプの跡を嘗めるようにして呑み込んでいく。それから周りの様子をうかがうように動き回ったあと……ぞろりと闇の深淵へと戻っていった。