彩の海 随分しおらしく、憐れげに、しょんぼりとして言うものだ。芝居がかって、とは業とらしいことの喩えだが、この男の『芝居』はいつだって曇りなく、本心との区別がつけづらい。
暇に明け暮れ、ついぞ普段見ないメロドラマさえ娯楽に加えられたのは知っている。
「って言ってもねぇ。自分がどんな状態だったかわかってるかい?」
「もちろんです。そして、今、自分がどんな状態なのかも、ね」
本当かい、と返しかけて口をつぐむ。彼の、あまりにリアリズムに満ちた現状把握の正確性をこの手で理解させられたばかりだった。
買い込んできた野菜や、魚介や、果物を冷蔵庫に詰める。地元で作っているという、南国フルーツのジュースをコップに注いで手渡すと、何を聞くこともなく素直に飲んだ。昨日と違って、今日は毒々しいほどの紫色なのだが。
「暑いよ、お前さんにゃ特に」
「承知の上です」
「そんなら、」
エプロンは、チェズレイの再三の注意によって習慣付けられたひとつだ。スーパーで適当に買ってきたそれはなんの面白味もない紺無地。後ろ手に紐を結んで、モクマはうなずく。
「明け方なんかどうだい。日の昇る間際なら、まだマシだろう」
「ええ、そうしましょう」
今日の夕食は、貝の酒蒸しだ。
陽の昇る、少し前。夜に冷まされた空気は肌に心地よく、それは薄手のカーディガンを纏う彼にとっても同じようで、涼し気な目元をほんの少し緩めた。
漆黒を和らげ、紺青の空に明け残る星々を目で数える。東にゆくにつれ桔梗を帯びる天空は、家々の屋根を青く染めていた。
「寒かないかい?」
「ええ」
舗装の甘い道の砂利を噛む草履裏、デッキシューズの裏が立てる音は鮮明に耳に届く。草木もまだ微睡みにある、深閑とした空気を吸い込んで、杖を握るのとは反対の手を引いた。
「そんならまあ、ちょっとそこまで」
返事と同時に踏み出された小さな一歩が、モクマの耳には染み入るように響く。
地元住民の人家に紛れるよう建つ逗留先を、どうやって選んだのかは知らない。ただ、度々長期で異邦人が滞在することに周囲は慣れているらしく、南国特有ののんびりした調子でどこからきたのか、どれだけいるのかなどを聞かれることがあった。当たり障りなく答えながらも、モクマは聞き返す。例えば、新鮮な食材を手に入れられる店、特産物やその調理方法、日用品の調達先。例えば、家々の軒に飾られた美しい花飾りの由縁。
「女神さまがいるんだって」
出し抜けの言葉に、チェズレイはうなずいて視線を通りがかりの家へ向ける。目の醒めるような赤い、大ぶりな花を基調に、黄色や白の花と緑をリースにして玄関ドアを飾っていた。
「あっちの先にお社があるんだけど、そこに石像が祀られていて、年に何度かお祭りがあるんだってさ」
「直近では降誕祭でしょうか」
「ありゃ、やっぱり知ってた?」
「もちろん」
得意げな横顔が薄く、黄金を帯びる。輝かしい微笑みに目を細め、空を探った。微睡みから抜け出そうとする空は徐々に青を鮮やかにして、雲の底へ赤みを押し付けている。
大通りに差し掛かり、信号機に従って足を止める。歩行者の往来は日中のピークを知っているモクマからすればないに等しく、しかし、車が途絶えることはない。ほとんどがトラックで、夜通し走らせた後の目に染み入るような朝陽を記憶から重ね、青となった信号に従って歩き出した。
区画が変わると、花飾りも変わる。先ほどまで主流だったリースは小さな籠となってドアに下げられるようになっていた。小ぶりな紫を中心に、しだれる花や葉、蔓を組み合わせ、籠からこぼれるように飾るのが流行らしい。
いろいろな場所を歩いてみるといいわ。アドバイスをしてくれた婦人の説明はつまり、こうだった。
「女神さまはお花が好きで、でも特に決まったものはないんだって。だから、みんなそれぞれでこういうのがお好きだろうって工夫して、いいなって思われたものは真似していくと」
「近所である程度のまとまりが出る。なんとも穏やかな慣習だ」
「いいよねぇ、のんびりしてて」
軒下の青い影に染まって、小さな花はまだ静かに花びらを閉じていた。チェズレイは各戸の花飾りに素早く視線を走らせながら、心持ち、歩みを遅くする。
「花に関しては国から補助もあるようですし、最近では各地区担当のデザイナーも存在するとか」
「ははは、のんびりだけじゃいかんか」
「伝統を上手く現代に合わせた一例でしょう。愛の女神が住む島という触れ込みは、この光景とセットだからこそ他から抜きんでて有名であれる」
「ロマンチックだもの。特に、ハネムーンに大人気ってね」
もちろん、そうなるでしょうねェ。
穏やかに笑みを湛える口元を見上げ、モクマは眉尻を下げた。この表情に騙されてはいけない。頭の中で目まぐるしく謀略を駆け巡らせている顔だ。
一体何を知って、何を成すつもりなのか。ただ、チェズレイがどう動こうと、その隣にモクマはいる。
民家が途切れた。のんびりと歩く道は上から降りてきた空の青で遮られ、左右へと分かれている。モクマの鋭敏な鼻は濃くなった潮の香りを嗅ぎ取っていたが、相棒はどうだろう。もしかしたらもっと前から、寄せては返す波の音を聞き取っていたのではないか。瞬く間に目覚めを迎えた空は清々しいほど晴れ渡っている。浮かぶ雲は絵に描いたように白く、朝らしい初心な光で大気を満たしていた。カーディガンの裾が潮風に乗って遊びだす。
堤防に手をついた二人の眼前に、海は空と共にどこまでも広がっている。
「なかなか、見事な景色だ」
曙の色をした瞳に、透き通った碧が映りこんでいた。ともすれば蒼褪めてさえ見えていた頬が血色を含んで、モクマはつないだままの手を握り直す。自分がどんな顔をしているのかなんて想像するに容易かった。こちらを向いてくれるな、と願いながら、どうにか目を美しい横顔から引きはがし、雄大な海へと飛ばす。
波打ち際より沖のほうが青い。青すぎて、少し信じられないくらいに。
波音に紛れて、チェズレイが髪を払う。モクマもうなじに手をやり、熱を持ち始めた皮膚に気付いて見上げると、青みを増した紫とかちあった。アスファルトに砂を擦り付け、何を言うでもなく二人は踵を返す。
家々の花が銘々、鮮やかな色を放っている。どこかからアラームが漏れて聞こえ、ある家の前を通り過ぎたときは小麦の焼ける香ばしい香りが漂ってきた。世間が目覚める。その目覚めを置き去りにしてモクマたちは家へ戻り、きっともう一眠りするだろう。昼前に目覚め、ブランチを摂ったらチェズレイは今日も退屈そうに、そしてその退屈をおかしがりながら、陳腐なメロドラマを眺めるのだ。
「ミカグラの海は、何色でしたか」
大通りにはもう、観光客らしき人影がちらほらと見受けられた。女神像からほど近くで毎朝市が開かれているから、そこへ向かうのだろう。
「えー……緑? そこの葉っぱみたいのじゃなくて、黒に近いような」
「ヴィンウェイは濃い灰色です。底など見えるはずもないですから、落ちたら死にます」
「俺たち今、結構ロマンチックなことしてこなかった?」
「ええ。ロマンチックなランデブーでしたよ」
満足げな声色に似合わない物騒な言葉が、しかし、モクマには理解できる気がした。
数十分振りのドアを開ける。人の気配が色濃くなった空気から遠ざかるように玄関へ入ると、ドアを閉めかけたチェズレイはその隙間から空を見上げた。細く切り取られた快晴に目を細める。
「随分、遠くまで来ましたねェ」
チェズレイの真っ白なうなじが赤く火照ってしまったために、時間を多少早めたものの、早朝の散歩は続いていた。毎日通っていれば、道々の花がしおれ、やがて枯れる前に新しいものへ少しずつ入れ替えられていくことに気付き、海の変化にも気が付く。目の醒めるような青は案外変わってゆくもので、日によって紫に寄ったり、灰色を帯びたりした。
花籠に黄色が差し込む。流行りの移ろいを肌で感じながら出たその日の海は、それまで見た何色とも違っていた。色、と表現できるものを捉えられない。
堤防から軽く身を乗り出すチェズレイも、目を瞠って海を見つめている。寄せる波が砂を浜へ押し上げ、引き返す中で巻き上がるうねりが普段よりも遠くから見ることができた。
「またえらく澄んだ海だね」
「ええ、まったく」
波音は変わらず、ゆったりと大気を震わせている。数日雨は降っておらず、そのせいだろうか。ただぼんやりと眺めるモクマの羽織が引かれた。
「下りましょう」
堤防沿いに歩くと緩やかにそれは途切れ、砂と道が曖昧となる。デッキシューズの爪先が砂を蹴る直前、チェズレイは一切無駄のない動作で靴を脱いだ。細かくさらさらとした粒が、踏みしめる度に形の良い足の指を埋め、引き抜かれて舞う。足跡の鱗粉を追いかけるように、モクマは草履のまま砂浜へ足を踏み入れた。
波打ち際の砂は濡れて締まり、足の形通りに沈む。華奢なわけではなく、形が整っている。こんな、普段隠されるところまで美しいんだなぁと見つめていれば、頭上から降ってきた声音は明らかに人を揶揄する意味を含んでいた。
「脱がないんですか?」
「いや、砂まみれになっちまうし」
「ですが、動きにくいかと」
脱いだほうがよっぽど、と言いかけて、口を閉じる。ぱしゃん、と波ではない、水を踏みつける音が耳に大きく響いた。
「モクマさん」
真っ直ぐ引き締まった足首を波が洗う。その下で砂はくるくると舞い、その足もまた、透明な水を掻き分けて一歩沖へ。
「綺麗ですよ、海」
海風をはらんでカーディガンが大きく膨らむ。白み始めた空を紡ぎ出すよう金糸が流れ、モクマへとその手を伸ばす。
水面が揺らぐ中でさえ目は足を追っている。波に攫われない水流に乗って削れ、ほんの少しずつ埋まっていこうとするその瞬間、突如として砂が巻き上がった。見えない。沸き起こる口惜しさを自覚すると同時に、冷たいものが降りかかる。
モクマは、、頭から海水をかぶっていた。
「綺麗ですよ! 海!」
長い脚が水面の上で水滴を垂らす。すぐに海中に戻ったが、足で巻き上げられた海水を浴びせられたのだとようやく理解して、モクマはかぶりを振った。ざぶん、と大きな波がくる。押されて揺れながら、しかし出てこようともしない麗人を見上げ、草履を放り出した。
「やったな!」
両手を水面に触れさせながら勢いよく体を捻る。斬撃の軌跡のように真っ直ぐチェズレイへ飛沫が飛び、両手で顔を庇いながら、やはり彼も頭から水をかぶった。
白金の陰で、口角がこれ以上ないほど持ち上がる。
「びしょ濡れじゃないです、か!」
「お前が仕掛けてきたんで、しょ!」
「だってあなた、」
互いにできるだけたくさんの海水を相手へ飛ばす。よけきれない飛沫で潮垂れながら、相棒が顔に張り付く髪を片手でかき上げた。
「私ばかり見ているから」
蹴り上げた海水が雨のように降り注ぐ。透明な朝陽を反射し、それぞれガラスのように輝きながら。
「おっと」
「チェズレイ!」
波が強く押し寄せる。ぐらりと傾いだ体、中空を漂った手を握ったが、その瞬間、逆に手を引かれた。砂と、揺れ動く水に足を押し流される。
「わっ」
派手に飛沫が上がった。二人揃って尻餅をつき、海に浸かった腰をざぶざぶと波がくすぐっていった。
「チェズレイ……」
「おや、ボスのような物言いをなさる」
「どーすんの。さすがの俺も、こんなかっこで町中歩けないよ」
「どうにでもなるでしょう。フフ、すっかりはしゃいで、せっかく濁りない海だったのに」
大の大人が二人、はしゃいだ周辺はすっかり砂が舞い上がって、白っぽくなっていた。
あれだけ海に近い所に住んでいながら、こんなふうに無邪気に遊んだ覚えはない。浜の大人たちはモクマに潮を滴らせないよう注意してくれたし、そもそもモクマが姿を現すと、彼らに不快ではない緊張を与えることも理解していた。海は、漁師たちの仕事場だったのだ。
この浜は、ただ人々が遊ぶために整備されている。
「俺たちさ、随分遠くまで来たよね」
「本当に」
空が明るい。真っ青な空の下で、珍しく、チェズレイは不器用な笑みを浮かべた。
「こんな遠い海で、誰かと一緒にいるなんて想像もしなかった」
無邪気に笑いなれていないのはモクマも同じだった。どんなふうにいつも笑っていたのか唐突に忘れて、くしゃくしゃと眉間にしわを集め、口を目いっぱい引き伸ばす。
「俺も!」