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スーツが漸く馴染んできたな────そう思いながら電車に揺られるディミトリは、スマホのメッセージアプリを見返す。ルームシェアという名の同棲をしているベレトに「今から帰る」というメッセージを送ったのは10分程前だ。今日は珍しくベレトが休みで、ディミトリは彼が家に居る際には必ず連絡をしている。今日は二人揃って夕飯も食べられるし、何より金曜日だ。週末でゆっくり休める至福のひとときに、ディミトリは頬が緩むのを抑えられなかった。
それから駅から歩いて二人の暮らすマンションに辿り着く。自分たちの部屋には明かりが灯り、人が居ることを示したいた。ディミトリははやる気持ちで階段を駆け上がり(体力作りの為の習慣)、自分たちの部屋の前で足を止める。そしてそのままインターホンを鳴らした。鍵は持っているのだが、ベレトが居ると分かっていると鳴らさずにはいられなかったからだ。
「………ん?」
しかし待てども応答がない。カメラ付きだから誰かが来ているのを確認も出来るし何故…?────ディミトリが慌てて鞄からキーケースを取り出そうとドアの前で右往左往し始めた時だった。かちゃん、という施錠の音と共にドアが開いたと思ったら、がつんとした衝撃がディミトリの頭に走る。
「…? あれ、何か嫌な音が……」
「っ~………せんせい……」
「はっ…! ディミトリ、ドアの前に居たのか…!?」
目を瞬かせるのは同棲をしているベレトだ。彼はディミトリの頭を撫でながら「すまない、手が離せなかったから出るのが遅くなってしまった」と謝ってくるがディミトリは苦笑しながら「俺の方こそ邪魔な所にいたな」と返す。二人揃って部屋に入ると、ベレトがするりとディミトリの鞄を受け取る。
「おかえり、ディミトリ。今日はお前の好きなチーズグラタンにしたんだ」
「た、ただいま…先生。ありがとう、腹が減っていたから嬉しい」
リビングに入り、ベレトがソファーにディミトリの鞄を置くとダイニングテーブルにはたくさんの料理が並べられていた。大の大人二人という事もあるが、それにしても量が多い。それはベレトが細身な体躯からは想像がつかないほどの大食漢であるからだ。
ディミトリはスーツのジャケットを脱ごうと腕を動かすと、察したベレトが背後に回る。そのままディミトリのジャケットを脱ぐのを手伝い、軽く埃をはらう。ディミトリが思わずその所作に見惚れていると、ベレトの手がディミトリに伸びる。
「やっぱりディミトリはスーツが似合うなぁ。お父上に頂いたこのネクタイもすっごく似合ってる」
「っ、あ、あのなぁ…せんせい……」
しゅるり、ベレトがそう言いながらディミトリのネクタイを緩める。父からの就職祝いにプレゼントされた内のひとつのネクタイだ。それをベレトはスーツのジャケットと一緒にすると、近くにあるハンガーにかける。そして何かを思い出したのか「あっ」と声を発するのに、ディミトリは慌てて「先生?」と彼を呼んだ。
「すまない、ご飯よりお風呂の方がよかったか? 俺が腹が減っていたからつい椅子に座らせてしまった」
「あ、ああ…そういう事か」
ベレトの言葉に、ディミトリはほっと胸を撫で下ろす。実際にディミトリもお腹は空いていたし、何より二人揃っての食事だ。そして今日はベレトがディミトリの為に好物を作ってくれたと言うではないか。そんな事を無下にするほど馬鹿ではない。ディミトリは立ち上がるとベレトの手を引き「大丈夫」と囁く。
「せっかく先生が俺の為に作ってくれた食事だ。冷めない内に頂こう」
「ぁ……、よかった…」
「それに」
目に見えてわかりやすく安堵するベレトに、ディミトリはつい悪い癖が出てしまう。己より低い視線、抱き込めるのも簡単な身体。そっと身を屈めてベレトの耳元に唇を寄せて「風呂なら後で一緒に入ろうか…」と囁やけば、勢い良く胸を押される。視線を向ければ顔を真っ赤にさせるベレトがいた。
「い、いい…! 食器の後片付けもあるし……!」
「それは俺がやるよ。食事を作ってもらったんだから、当然だ」
「っ~…、で、でも…っ…」
「ベレト」
わかりやすく顔を赤く染めたベレトに、ディミトリはとどめを刺す。日常的というべきか、昔からの癖であまり名を呼ばれないベレトは、ぴくりと身体を震わせる。ディミトリは少しやり過ぎたかと苦笑すると、その手を引いた。
「明日は二人共、休みだし…。いいだろう? 久しぶりにベレトの温度を感じたいよ」
「っ、ぁ……」
ベレトがディミトリに甘えられる事が弱いなど、彼と出会った時から知っている。ベレトの優しさに漬け込む様な真似をしているが、彼もそれを知っているのだ。ディミトリの言葉に、ベレトは視線を逸らしながら「おれも……」と小さく呟く。
「ディミトリをずっと感じたかった…。ここ最近、お互いに忙しかったし………」
「せんせい……」
つい元の呼び方に戻ってしまったが仕方がない。ディミトリは嬉しさからついその身体を抱き締めて「ありがとう…」と言うと、返事の代わりにぎゅっと抱きしめ返される。そして背中を何度か撫でられた後、そっと腕の中から解放する。
「では、食事を頂こうか」
「…あっ。その前に手洗いうがい!」
「はっ…! すまない、せんせい……!!」
そそくさと洗面台のあるバスルームにディミトリは追いやられる。先程の空気は一転、いつものベレトに戻ったが自宅に帰宅してからの一連の流れに頬が緩む。それはまるで、新婚生活みたいだ…────という気持ちてあふれていたからだった。
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