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「先生、これで買い物は終わりか?」
両手いっぱいの紙袋を抱えながらそう言うディミトリにベレトは「ああ、これで終わりだ」とやわらかく笑む。忙しなく金糸の前髪を揺らしながら頬を赤らめる教え子に、ベレトは「?」と疑問符を浮かべる。
大修道院から少し離れた市場に久しぶりに買い出しに行こうとしたベレトをディミトリが偶然にも見つけ、暇をしているからと荷物持ちに付き合ってくれたのだ。ベレトとしてはそれ程までに買うつもりなどなかったのだが、教え子達の武器の手入れに必要な物や茶会の茶葉や菓子など…市場を巡っていたらあれもこれもと買ってしまったのだ。
貴重な休日にしかこうしてゆっくりと買い出しに行けない為か、ベレトは少々懐が寒くなってしまったかと思うも、隣を歩く教え子のおかげで得をしたのもある。
「それにしても、ディミトリのおかげで菓子が安く買えたな。お前の見目にあの御婦人たちも喜んでいたから」
「なっ、せんせい……」
「ふふっ、モテる男は大変だな」
そう言うベレトにディミトリはむっと唇を尖らせる。立ち寄った菓子を売る店の女主人が「お兄さんの金髪と碧眼すてきだわぁ~おまけしちゃう!」と頼んでもいないのにたくさんの菓子をくれたのだ。ディミトリとしては容姿を褒められたのが今までもたくさんあったが、こうしてベレトに揶揄われるのはなんだかむず痒い。そのむず痒さを誤魔化す様に荷物を片手で抱え直すと、空いた右手でベレトの左手を掴む。
「ディミトリ?」
「……これくらい構わないだろう? 俺と先生は、恋人同士なのだから……」
「……あ…」
ぎゅっと握り締められた手に、ベレトは驚くもディミトリの言葉に息を呑む。恋人同士、そう恋人同士なのだ…ディミトリとベレトは。いつもは手袋をしている手に馴染む、自分より少しだけ大きな手にベレトは思わず驚いてしまう。士官学校の教師と生徒という関係だったのに、気づけばそれを越えてしまっていた。ディミトリに求められるがままに関係を許してしまったが、まだまだ清い仲だ。家族───父親以外に手を引かれる事がなかったベレトは、思わずディミトリを見つめてしまう。
「こんな風に手を繋ぐの、初めてだ」
「…そうなのか?」
「ああ。父以外とは、な」
ベレトの言葉にディミトリは面食らう。しかし彼はまたふっと笑むと「だから恋人同士でこやって触れ合うのはいいものだな」と言うのに、ディミトリの中の余裕が崩れ落ちて行く。
「せ、せんせいっ……!」
「ん? どうした、ディミトリ?」
「先生は、えっと、その…」
「うん?」
がしりと肩を肩を掴まれ、ディミトリに向き直る。彼は顔を真っ赤に染めながらまたそわそわと落ち着きがなく空色の瞳を泳がせている。歳相応の可愛らしさにベレトが絆されていると目の前の青年は、「せ、せんせい」とまたベレトを呼ぶ。意を決した様な瞳に何を問われるのだろうかと向き直る。
「…先生は、恋人は俺が初めてだと言っていたな…?」
「うん。そうだよ」
「こうやって恋人同士、手を繋ぐのも初めてだと…」
「うん」
「で、では…。口づけをした事は…、あるか…?」
耳まで真っ赤に染めてそう問い掛けるディミトリに、ベレトは目を見開く。まさかそれを聞かれるとは思わなかったが、ベレトはふふっと可笑しそうに吹き出すと「な、何が可笑しいんだ…せんせいつ…!」と可愛い教え子はまた膨れっ面になってしまう。ベレトはディミトリの頬に手を伸ばすと「ないよ」とだけ囁いた。
「言われてみれば、口づけの経験はなかった」
「っ…」
「ディミトリは…?」
すすっ…とベレトの手がディミトリの顎を捉える。下から視線を絡ませられ、ディミトリはまた顔を真っ赤に染めると手近な建物の影にベレトを引き寄せる。荷物を片手にベレトを壁に押し付けると、彼の身軽さにベレトは追い詰められながらも逃げなかった。影が重なると思った時には、唇に触れる温もりに無意識に身体に力が入る。
「俺も、初めてだ……」
耳元で甘く囁かれ、全身が熱くなる錯覚に陥る。ディミトリの声にベレトが顔を赤く染めるのに、普段無表情の彼がこんなに表情を崩すとは思わずにつられて赤面をしてしまう。熱が出たんじゃないかと錯覚する心地になるも、不思議と嫌ではなく心地よく感じてしまう。幸せな気分とはこういう事なのだろうかとベレトはふにゃりと破顔する。
「ふふっ…。では、初めてを一緒にできたな」
溶けたベレトの笑顔が珍しくて、ディミトリはつい壁に向かって拳を打ち付けてしまう。拳が壁にめり込んでしまうも、今のディミトリには痛みなど感じず理性を保つだけで精一杯だった。そんなディミトリに気づかず、ベレトは彼の頬を引き寄せると触れるだけの口づけをする。
「ん、ディミトリ……もういっかい」
「っ~……せんせ…い……」
首に手を回され、強請られてしまえば逆らえない。ディミトリはそっと荷物を足元に置くと、ベレトのやわらかい唇に何度も口づけをする。お互いに初めての口づけは、例え五年経とうと忘れもしない甘い記憶に残ったのだった。
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