洋館の寝室で独り、無惨は佇んでいた。
いつもは折り目正しいシャツは皺がより、整えている髪は風を受けたように乱れたまま。
果たして記憶はないが、あれからどうやってか、無惨は洋館に戻ってきていた。
力なく室内を見渡せば、机の上に置いてある読みかけの本や、飲みかけのお茶が眼に入る。まるで出掛けた時のまま、時が止まったように感じる。しかし此処に、彼はいない。義勇は、いない。
(来ないで!頼む、……………今は…今は触らないで……、お願いだから………来ないで…っ)
泣きながら崩れ落ちる青の羽織が。
嗚咽をあげながら手をふり払う震えた肩が。
今でも鮮明に眼に焼き付いている。
拒絶の言葉は身を切り刻む刃となり、無惨の身を抉り続けている。かつて対峙した日の呼吸の使い手の斬撃よりも深く深く。
しかし身体を蝕む痛みより、無惨は己が許せなかった。自ら誓いを破り、義勇にあんな顔をさせた己が許しがたい。後悔が波のように押し寄せては身を苛んでいく。
義勇が倒れた時、二度と彼に辛い思いをさせないと誓ったのに、なんで私は想いを抑えられなかったのか。内なる問いかけだが、答えは既に出ている。ーーーー嫉妬。泣きながら風柱の名を呼ぶ姿に、歯止めが効かなかった。その結果がこれか……。
ぶわりと無惨の周囲に殺気が膨らんだ。煙のように纏うそれは、力となり部屋を破壊する筈だった。だがーーー。
カチャリーーー!
何かが、ぶつかる音。
覇気に煽られ椅子やシーツが激しく揺れる中、やけにハッキリその音だけは耳に響いた。音の主を見つけ、無惨の顔に翳りがよぎる。先程視界の端に捉えた、テーブルの上の飲みかけのお茶が入った白磁のティーカップ。
揺らめいていた力が、みるみる萎んでいく。はためいていカーテンも、揺れていた家具も、何事もなかったかのように鎮まっていた。
静寂が戻った時、無惨はゆっくりとテーブルに歩を進めた。辿り着いた先、紅い瞳には眼下の亜麻色の液体が写っていた。
身に巣くう激情が陽炎のように消えていく。
替わり思い出す、愛しい人の声。
(なぁ、無惨。疲れているなら、これを飲んでみてくれ)
横浜での件の後、眠りから覚めたある日。
いつものように義勇の傍で眠り、起きたら彼が差し出してくれたのが、この亜麻色の飲み物。
(昔、姉さんに作ってもらったんだ。風邪引いた時とか、疲れている時に。お前、紅茶好きだろう?だから、これなら……)
紅茶にハチミツとミルクを入れたもので、普段紅茶に何も入れない無惨の眉が潜められたが、義勇は気にすることなく、騙されたと思って飲んでみろと勧められ……口に含んで驚いた。紅茶の苦味の中に甘味が広がり、じんわり体に沁みていくような。甘いものはあまり好まないが、確かに美味しかった。
素直に美味いと伝えたら、不安げに見つめていた義勇は、それはもう陽だまりのような微笑みを返してくれて。ドクンと高鳴った鼓動に、危うくカップを落としかけてしまったのは、遠くない思い出。
それというのも、義勇がいることで眠るようになった無惨だが、熟睡する習慣がなかったからか、長時間睡眠後は上手く覚醒出来ないことが多かった。当初、俺と同じで寝起きが悪いんだな、と苦笑していた義勇だったが、覚醒が悪ければ睡眠の質も下がるというもの。徐々に疲労が蓄積していたのは自覚していた。ただ、そこは鬼の始祖。多少の疲れはモノともしないし、改めて言うことでもなく、いずれ改善するだろうと高を括っていたのだが、近くで見ていて義勇が気付かないわけもない。
だからこれなら…と、言の葉は途中で切れていたが、その先にあろう憂慮を、無惨はしかと察していた。心配ーー。他の者なら忌むべき思いが、義勇なら向けられて嬉しいと思う。
紅い瞳が弱々しく陰る。