たまゆら〜ライヤンEnd後のバレンタインIFこんな喜びを隠さない陛下、初めて見たな。
実に珍しい光景に、皇帝首席副官のアルツール·フォン·シュトライト中将は、暫し逡巡する。手元の紙の束を、今渡すか渡さないかである。非常に迷ったが、渡さないことには話が始まらないので、当初の予定通り、執務机に座す皇帝の前に書類を差し出した。
いつもなら直ぐに目を通し始めるラインハルトだが、条件反射で受け取りはしたものの、全く視線が動いていないことに、シュトライトはやれやれと内心溜息を吐く。
「ーーー陛下。私は暫し席を外した方が良うございますか?」
「っ!?何だ突然?」
いや、何だと言われても。
さも意外と見上げてくる若き皇帝だが、手に取った書類はくしゃりと悲しい音をたててるし、明らかに動揺しているのが見て取れる。
それもこれもーーー。
「そちらの袋の中身が、気になっておられるのではありませぬか?」
「(なぜわかる)っ!?」
ああ…今、陛下の心の声が聞こえた気がする。それくらいラインハルトの綺麗な氷蒼の瞳は、右往左往していた。その心は机の端に置かれた小さな手提の紙袋に奪われているのだと、シュトライトは知っている。
ーーーというか見ていた、一部始終。
数分前にふらっと現れた黒髪の青年が、いつもお世話になってます、とおはようの挨拶と変わらない体で紙袋をラインハルトとシュトライト、二人に手渡していった。彼が去り、さて草案を渡そうと目をやれば、そわそわして心此処に在らずな顔とばったり。
泰然自若を地で行く方が、なんとまぁ年相応な顔をなさる。額に手を当てたい気分を忠誠心で抑え、小さな、ラインハルトにとっては大嵐を巻き起こしていった人を思う。
現在、元敵国の元帥は、保護の名目で身柄を帝国に預けている。色々あったが、今や食客に近い扱いで、諸将達にも好意的に迎えられている。監視件護衛はいるが、彼に二心は考えにくいということで、ふらふらと、このフェザーンの皇宮内を出歩いている。
たまにラインハルトに意見を求められ、嫌々ながらもこの皇帝執務室に来ることがあるので、彼、ヤン・ウェンリーがここを訪れることは珍しくないのだが、その行動は予測がつかない。確か彼の同盟側での呼称は“不敗の魔術師“だったか。なるほど、確かに彼は魔術師だ。我が皇帝の御心に、斯様に魔法をかけていくのだからな。
(これは今日の執務は立ち行かんな…)
脳内で早急に片付けなければいけない事案はない事を確認し、シュトライトはコホンとわざとらしく咳をした。真面目な皇帝は、何事かと意識をこちらに向けた。
「手元の草案ですが、明後日の御前会議にて正式に民政尚書と財務尚書から意見申し上げます。その前に陛下におかれましては、一通り目を通して頂きとうございます。この件につきましては、これで宜しいですか?」
「う、うむ」
「畏まりました。民政、財務両尚書には、私から具申の機会を頂いたと伝えておきましょう。ーーーでは、陛下」
いつになく性急に喋るシュトライトに、ラインハルトの綺麗な顔が訝しげる。こちらを見上げてくる皇帝は、何を言われるのか構えているが、ちらちら視線が横に流れる。紙袋が気になって仕方がない様子。
部下になってから初めて、シュトライトはラインハルトを“若いな”と思った。二度目のやれやれだが、まあ仕方がない。実際、彼は若いのだ。シュトライトよりずっと。
「申し訳ありませんが急用を失念しておりました故、小官はこれで失礼致します」
「急用だと?」
「では、失礼致します」
「おい!?シュトライト!」
声掛けはスルー。お辞儀し、流れるように退室を決め込んだ首席副官の背が消えていくのを、ラインハルトは呆然と見送った。パタンと扉が閉じる音に、後の祭りを悟る。
(………やってしまった!執務中であったのに!)
哀れ、ぐしゃぐしゃにしてしまった書類。突き放すように机に置く。空になった手は、頭を抱え込みたい気分だった。
明らかに気取られた。情けない。真面目なラインハルトは、仕事に私心を混ぜることはしないよう心がけていた。いたのだが、実際はシュトライトに気を使わせたわけだ。ああ!予としたことが!
しかし落ち込む気持ちと裏腹に、自由になった手は、抑えきれずに手を伸ばす。ずっと気になっていた机の端、彼がくれた紙袋。
書類とは打って変わり、そうっと壊れ物のように手元に寄せて。白地に薄ピンクの柄の紙袋は、成人男性の大きめの手の平に収まるくらいの大きさ。
何が入っているのだろう。袋と同じ色合いの薄ピンクに包装された、小さな長方形の箱。いつになく慎重に、正直ラッピングなぞ開けるのに無駄じゃないかを地で行くラインハルトにしては、珍しく破かぬよう開けていく。
格闘すること一〜二分。箱を開けると、中には一口大のトリュフチョコレートが4個。予想通りの中身に、ラインハルトは両手でチョコレートの箱を掲げた。あまりの嬉しさと衝撃で、なんと言っていいかまとまらないが、兎に角、時の皇帝は一言。
「よし!」
思いのまま声を上げた。何がよしなのか、それ以外、言う事無いのか、などと無粋なツッコミをする者は、幸運なことにいない。
まあ、銀河帝国の新皇帝にツッコミかませる人はごく少数。一人は元凶の黒髪の魔術師。もう一人は義眼の副官くらい。で、二人ともいない。更に候補を探すなら、最愛の姉君と亡き親友か。グリューネワルト大公妃殿下なら、「落ち着きなさい、ラインハルト」と諌めてくれそうだし、赤髪の亡き親友殿なら、「良かったですね、ラインハルト様」と喜んでくれただろうが、その二人もここにはいないので、誰も皇帝を諌める者はいなかった。
ただまあ、今日という日に想い人からチョコレートを貰えて狂喜乱舞している若者に、辛辣なことを言う輩はそうそういないだろう。
そう、嬉しそうなのだ。眼の前のチョコレートを食べたいのに、食べたら無くなってしまうから食べる踏ん切りがつかない皇帝陛下は、悩ましいが喜びが滲み出ていて幸せそうである。
だって、今日はバレンタイン。
大事な人に贈り物を。
銀河帝国では、バレンタインはさほど盛り上がるイベントではない。主に夫婦やパートナー間で日頃の感謝を伝える日だ。
特定の相手がいないラインハルトには、然程興味のある日ではなかった。けれども今年はーーー。今までが嘘のように、ラインハルトは気になって気になって仕方がなかった。傍にいてくれる彼がいるから。
同盟ではざっくばらんに、友チョコなるものもあるらしい。もしかしてと期待して。でも貰えるか聞けるわけもなく。悶々しながら今日という日を迎えて。朝食時、ヤンは何も変わったところもなく、落胆しながら執務をしていたら。
貰えた!?
ヤンから!?
俺にだよな!?
天にも昇る気持ちとは、まさにこれかというくらい、ラインハルトは浮かれていた。よって実にくだらないが、本人には重大な悩みに直面していた。難しい表情で、チョコレートを見すえる若き皇帝。どんな難敵より厄介な案件。
どうしたものか。出来ればとっておきたい。
いや、待て?これは食物だ。食べないといけない。
だが食べたら無くなるな。それは勿体ない。
食べたいのに、食べたら無くなるのは嫌。二律背反。
「食べないとヤンの好意を無下にしてしまう。だが、そうそう食べられん!俺は、俺はどうすれば良いのだ!?」
不毛な叫びは、幸いなことに扉の前に護衛していたキスリングにも届かなかった。いや、正直言うと聞こえていたが、聞こえないふりをしていた。反応したらラインハルトが困るだろうという気遣い。臣下の鑑である。
キスリングの手にも、ラインハルトのものと同じ紙袋がある。この紙袋一つで凄い影響だ。先程、席を外したシュトライトの手にも、同様のものがあった。実は魔術師ことヤン・ウェンリーは、平等に、皆に渡していた。ラインハルトも見ていたのだが、好いた人から貰えた事実は格別なのだろう。
微笑ましい主君の声を背に、ギュンター·キスリング准将は護衛の任を続けるのだった。
「なんだ、これは?」
「バレンタインのチョコです。日頃のお礼に渡していまして。あ、返品は不可ですので」
笑顔で釘をさす相手に、そんな風に見られているとは心外だとロイエンタールは感想を浮かべたが、同性、しかも家族でも恋人でもない者からバレンタインに贈り物をされたら、相手次第では突き返しているので、あながち間違ってはいないが。かのヤン・ウェンリーのから贈呈されて断る選択肢は、ロイエンタールにはない。
「いや、贈り物を返す不躾さは持ち合わせていない。ありがたく頂こう」
切り揃えた美しい黒髪が揺れる。律儀に頭をさげる帝国の双璧の一人に、ヤンはむずがゆそうに頭を掻いた。収まりの悪い黒髪は、同じ髪色なのに正反対に鳥の巣だ。
同い年の二人を他所に、同じく双璧のウォルフガング·ミッターマイヤーは、手の中の小さな手提げ袋を大事そうに扱いながら尋ねた。
「中身はチョコレートと言いましたが、いつ用意したので?」
ミッターマイヤーの問いに、ヤンはえぇとと記憶を辿る。
「先日、本を買いに出た時に、街のソリビジョンで同盟のバレンタインを特集してたんですよ」
「ほう?最近、帝国内で同盟を取り上げた内容は人気が高いからか」
そうですねと、のほほんと返す黒髪の人をチラリと見ながら、ロイエンタールが補足する
「祖先は同じですが、帝国と同盟の文化や風習は大分異なっています。物珍しいだけかもしれませんが、興味を持つのは良いことです。理解は相手を知ることから始まる。これが協調の兆しになれば良いですね」
故郷を離れ、遥か異国に身を置くヤンの声音は、思いの外穏やかだ。ミッターマイヤー達の気遣いの視線を感じ取り、払拭するように微笑み返す。
「お陰様で物流も市場も活性化しているようですし、更に企業間の競争にも繋がれば、面白いことになりますよ」
ゴールデンバウム王朝時代は厳格行われていた自由惑星同盟に対する情報統制。同盟を実質の自治領としたラインハルトは、折を見て統制を解除した。緩徐であるが、帝国の国民は自由惑星同盟とはどのような存在なのか、一国民が知れるようになった。
また同時に発信する自由も解禁となり、ある程度の量しか情報を与えられていなかった帝国民は、目新しい事実に目を輝かせ、ソリビジョンや雑誌に取り上げているのだ。今回に限れば、同盟のバレンタインという情報を与えられることで、市民が興味を持ち、市場も活性化している。
「無駄に統制は好かんが、与えられる荷物が多すぎて持てないのでは本末転倒ではないか?」
膨大な情報に溺れ、民が右往左往してしまわないのか。ロイエンタールが危惧を発するが。
「ロイエンタール提督のご指摘はわかりますが、言論統制はある程度のところで緩めないと、自立心が低下しかねない。人は知ることで考え悩む。例え皇帝という絶対的存在がいようとも、思考することを止めたらーーー」
「いずれは、ゴールデンバウム王朝と同じになりかねないーーか」
「ふむ、一理あるな」
「あの、あくまで私見なので、深く受け取らないでもらえると助かります」
ロイエンタール、ミッターマイヤーの同意に、ヤンは眉を下げる。ごにょごにょと言い訳かましいが、件の言論統制解除は、珍しくこの不敗の魔術師も意見を述べたと双璧の耳にも届いていた。
民主共和制を推す彼は、国民一人一人に自立心が芽生えればと考えているのかもしれない。あからさまにヤンは政治に関わりたがらないので、意見を述べたことは言ってくれるなということだろうが、正直、ロイエンタールには、ヤンの目標は夢物語に聞こえる。人とは、楽な方に流れる生物だ。彼が言うほどに、己を律し、決断を肩代わりしてくれる支配者に抗える者など、僅かであろう。
だが、それこそ推論だ。改めて言うほどのことではなく、そんな事はヤン自身がよくわかっているだろう。誰よりも現実を見通し、その癖、理想を追い求める智将ならば。
言論統制解除は皇帝がそうすると決断し、施行されたこと。もしこの先、不備が出るようであれば、自分やミッターマイヤーが打開策を上申すれば良い。そのようなか決意し、ロイエンタールはひっそりと考えをしまい込む。
「ふむ、卿の考えはわかった。ーーーそれで、卿自身がチョコレートを購入することで経済を回し、お零れを我等に施してくれたわけか」
貰った紙袋を誇示すると、ヤンはくしゃりと自身の髪をかき混ぜる。彼の癖だと今や双璧の二人も知っているが、みるみるボサボサになる髪型は、いつ見ても困ってしまう。しかし当の本人は気にすることはなく、そういうのではなくてと言い淀み、左右に黒い瞳を泳がせた後、ポツリと呟いた。
「だから…………お礼ですと言ったじゃないデスカ」
「照れるところか?」
「何度も聞かれる程、大仰なことじゃないのに聞いてこないでくださいよ」
「礼といわれても、別段俺はお前に何かしてないがな」
何かと気にかけているミュラーや、奥方の手料理を振る舞ったミッターマイヤーならともかく、ロイエンタールはヤンの補助はしていない。酒が飲みたいと文句あげているのを見兼ねて、飲みに誘った事ははあるが、それも他の諸将達と共にである。
「ここ一年。お二人始め、帝国の皆さんには大変お世話になってるでしょう」
ハイネセンから帝国に来た経緯を、お世話になってるの一言で片付けるのはどうかと思うが、本人がそう言うなら良いのだろう。そしてヤンの言葉に、どうやら自分達以外にも渡す相手がいるのだとわかる。
「同盟では手作りがポピュラーと言っていたが、卿はしないのか」
「え、手作りですか?いやいや!?私に作れるわけないです。ーーって、随分お詳しいですね、ロイエンタール提督」
「情報の取得は戦の基本だろう」
別に戦じゃないだろうに。何のかんので、ヤンが目にしたような同盟の特集をきちんと把握しているロイエンタールが意外であり、この人ならそういうのも雑事と見なさず目を通すのだろう。
「手作りする場合もあるのですか?」
ミッターマイヤーが尋ねた。
「本命には手作りという風習は昔からありますけど、結局は人それぞれですよ。そもそも私には無理ですし」
「確かに洒落たものなら、商品の方が良さそうですね」
お互い料理には縁遠い身である。ヤンにはユリアンがいたし、ミッターマイヤーには愛妻。
「ミッターマイヤー提督の言う通り、販売していたチョコレートは、種類も形も様々でした。同盟からの輸入品もありましたが、多くは国内産。帝国企業も活発に商品を出してて、実に興味深い」
ヤンは楽しそうに話す。
ヤン的には、結構重要な出来事なので。
銀河帝国は長きの貴族階級の支配により、戦争終結時の国内上位企業は、どの分野でも国営か貴族お抱えのものばかりだった。貴族の意思一つで、市場すらコントロールされる。民間企業は、ある程度の規模に達したところでストップする。それより上に行きたければ、貴族のお眼鏡にかなわないといけなく、売り込みに行く勇気ある者もいたが、多くがある程度で妥協し、それなりの規模に抑えていた。
この現状に、なんてこった!?、というのが当時現状を知ったヤンの第一声。これでは、企業間競争も起きやしない。国内総生産も上がらないのでは?
リップシュタット戦役後、ラインハルトは門閥貴族下の企業を国有化していた。託せる人材も少なく、急に民営化も難しい。ヤンが同じ立場でもそうしたであろう。ーーーただし期限付きで。
戦争中なら良い。だが戦後まで国有企業を膨大に持ち続ける事は、メリットよりデメリットが大きいと、ラインハルトから帝国の財務データを見せてもらった時に、ヤンは率直に伝えた。
一概に国有が悪いのではない。
ただ自由競争に晒されていない組織は、官僚化が進む傾向がある。帝国内を調査したところ複数の企業が事実そうであった。国務、財務、内務尚書等の進言も後押しし、若き皇帝は、国有国営企業の厳選を指示。手始めに、幾つかの企業が民営化に移行しつつある。
そこに自由惑星同盟の情報の投の下。あちらの国では、あんなことをしているのか。同業者の動向は気になるもの。まして帝都をフェザーンに置いた帝国は、貿易という畑に踏み込まなければならない。そうしないと、逆にフェザーンにくいものにされるか、飲み込まれる。
占領時から、ラインハルトはフェザーン経済の抑制は行わなかった。どちらかと言えばフェザーンは、トップがすげ変わり、国名が帝国首都に変わりましたというもの。つまり、今もフェザーン企業は健在で、貿易は帝国、同盟、フェザーンの三者で成り立つ形態は変わらない。海千山千の経済競争に飛び込むには些か経験が足りないと、帝国政府も帝国の実業家達も、現実を受け止めていた。まずは国内産業の充実と洗練。企業間競争により、製品レベル、組織レベル、経営コンセプトを向上させ、貿易も積極的に絡んでいきたいというのが帝国の目標。帝国より企業間競争が激しい同盟では、バレンタインは儲けのチャンスとばかりに、各社、お値段お安めからショコラティエ監修の本格派まで、多種多様な商品を展開している。ターゲットも恋人に限らず、友チョコ、自分用ご褒美チョコ等など、バレンタインを多様化させ、顧客を獲得しようとしている。手作りキットもあり、様々なニーズに応えている。ーーーとまぁ、つい気になっていた流通の活性化に思いを馳せるヤンであった。
「そもそも、何故ヤン提督はお礼でチョコレートを渡すように?」
ミッターマイヤーが尋ねた。素朴な疑問である。
ヤンの性格上、バレンタインに積極的なのが意外だ。
「こちらでは、男性から女性に贈るのが通例なので、我々が貰うのが目新しいのですが」
「ああ、確か花やプレゼントを贈るのでしたか。ミッターマイヤー提督も、夫人に何か贈られたのですか?」
「え……と、はぁ。まあ、一応」
頬を染める疾風ウォルフの肩に、ロイエンタールがぽんと手を置く。
「今年も薔薇だな」
「なっ!お前、見たのか!?」
「見ずとも、毎年のことだ。卿が選ぶのは赤い薔薇だろう。しかも五本と決まっている」
「〜〜〜〜っ」
怒鳴りたいのか、叫びたいのか、何とも言えない狭間で、ミッターマイヤーはロイエンタールを睨む。だがまあ、あれだ。頬を染めて迫力はない。表情豊かな相手に、ヤンは素直な方だと評する。
「ああ、なるほど。薔薇の花五本とは、熱烈な花言葉ですね」
「意味をご存じで!?やはり貴方は博識で在られる」
称賛されるが、ヤンは首を横に振った。
「薔薇の花言葉は有名ですから。一本はひとめぼれ、二本は世界であなたと私の二人だけ、三本は愛していますという告白、四本は死ぬまで気持ちは変わらない。五本はーーー」
「貴方に出会えて良かったーーーだったな」
割って入った親友に、ミッターマイヤーは驚いた顔を向ける。
「知っているのは意外じゃないが、お前は興味がない言葉だと思っていたぞ」
特定の相手を持たないロイエンタールには、縁が遠い言葉といえる。失礼に聞こえるが、ミッターマイヤーの言葉に揶揄も裏もないのはわかりきっている。金銀妖瞳が面白そうに細められた。
「以前、フラウ·ミッターマイヤーが嬉しそうに教えてくれた」
「なんだって!エヴァがっ!?」
妻にしっかり伝わっていた喜び。
親友に見抜かれていた驚き。
それをヤンに知られた恥ずかしさ。
様々な感情に翻弄され、朱色を散らしたように照れるミッターマイヤーは、双璧と呼ばれる将帥であるのに、少年のようなあどけなさが垣間見えた。
「照れることでもあるまい」
「そうですよ。夫人に伝わっていて良かったですね」
「お、俺の話はいい!ええと、それで何故ヤン提督はチョコレートを贈られるのです?」
「ああ、それはですね」
半ば無理やりな話題の転換であったが、ミッターマイヤーをからかいたい意図はないので、ヤンは素直に乗ってあげた。
「友人に贈られたのが最初です」
「友人?」
「卿にもいたのか?」
「いましたよ!そりゃあ私に人付き合いの甲斐性はないですけど」
驚いたミッターマイヤーの後に、間髪入れず聞いてきたロイエンタールに思わずヤンは反論するが、自身の性格と生活実態を知る者は、友人がいたの?と聞きたくはなる。放っておくと本と酒で完結してしまう出不精なのは、帝国の諸将達にも知れ渡っている。
いや、それよりも。
「いた、ということは、現在はーーー」
「ええ、戦死しました、アスターテで。彼とは士官学校の同期で同室だったんです」
同じような境遇の双璧達は、顔を見合わせる。さぞ大事な者だったのだろう。
しかしヤンからは悲壮感は感じず、むしろ同盟軍最高の知将と呼ばれた人は、軍人には見えない穏やかで優しい微笑みを浮かべた。大切な思い出を紐解くように、ヤンはゆっくりと語りだした。
ジャン·ロベール·ラップ。
ヤンに最初に声をかけ、友になってくれた男。
明朗快活で同期のみならず、上級生、下級生にも慕われ、成績もヤンと違い優秀。まさに将来を嘱望される人物だった。
「士官学校の二期頃でしたか。ラップの奴、部屋に帰ってくるなり、読書中の私の本を取り上げて、世話になってる礼だってチョコレートを差し出してきたんですよ」
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『ほらよ、お前にやる。世話になってる礼な』
『は?』
扉を開けるなり、ベットに臥床しながら読んでいた本を取り上げられ、代わりに可愛らしいラッピングの小箱を渡されれた。
『いいから受け取れ。ハッピーバレンタイン。ヤン・ウェンリー候補生』
『え?ちょ!?待てラップ、何で俺に?』
『だから礼だ、礼。難しく考えるなよ。お前の悪い癖だぞ』
『急にこんなの渡されたら、普通は戸惑うだろう!?』
とにかく理由が知りたいと、いつになく感情を露わにするヤンを、ラップは満足気に見つめ、ニカッと笑い返した。
『良い反応だな。予想以上だ』
何が?うんうん、腕組みするラップがわからない。
説明しろというのに取り合わない親友が、ヤンにはこれっぽっちもわからなかった。こんなに話の通じない奴じゃないだろうに。
『………ラップ、頼むからちゃんと説明をしてくれ』
『しただろう?お礼、俺からお前に』
『だから何で?』
『バレンタインだから』
『理由になってない』
『立派な理由だろうが。そうそう、お前は甘い物苦手だろうが返品不可だからな』
太陽のようと言われる笑顔。いつもは理路整然に返すヤンの困惑ぶりを、彼は嬉しそうに見つめていた。
呆気にとられるヤンが視線を落とすと、手の中には無理やり押し付けられた可愛いリボンでラッピングされた箱。自由に外出も出来ない士官学校時代に、どこから手に入れたのか。
突然なぜ?
世話になっているのは、私の方だ。
宇宙船暮らしで、イベントにも疎いヤンにはバレンタインに興味がなく、言われて初めて気づいた。そういえば校内も浮かれている雰囲気だったなと。
しかもラップの行動はそこで止まらず。俺が事前に用意しておいたからと、当時気にかけてもらっていたキャゼルヌ事務次官にも二人して渡しに行く羽目になった。行きたくないと渋るヤンの襟を掴んで、半ば強制的に先輩のところに行ったら、普段は余裕な大人が大層驚いてくれた。
そしてーー。とても喜ばれた。
来年も期待しているぞ、と軽口をたたかれもした。
まだ戦場を知らない、学校という揺り籠の中であった些細な出来事。
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「なんのことはない。ラップに騙されたというか、バレンタインはそういうものだと信じ込まされたというか」
「ふむ。刷り込みか」
「そうそう、そんなところです」
ロイエンタールの指摘は当たっている。本当に礼の意思もあったろうが、ラップの真の狙いは、意図的に働きかけないと人付き合いがおろそかになるヤンを危惧して、イベントならと画策したのではないだろうか。彼亡き今、真偽は定かではない。だが優しい彼がヤンを気にかけてくれていたのは事実だろうから。
その気持が嬉しかった。喜ばれたことも、嬉しかった。だから、またやってみたいと思った。
それ以来ーー。毎年、近しい人に贈ってきた。
ラップ、ジェシカ、キャゼルヌ一家、アッテンボロー。艦隊司令官になってからは、副官や幕僚達。ポプランやコーネフ。そしてローゼンリッター。
薔薇の騎士の彼にも。
「皆、喜んでくれたのが嬉しかった。単純ですが、それが私が贈る理由です」
「そうでしたか。では私もありがたく頂戴しましょう」
快く受け取るミッターマイヤーに、そういえばとヤンはもう一つ同じ手提げ袋を差し出した。
「すいません、ミッターマイヤー提督。こちらはエヴァさん、えと夫人に渡してくれますか。先日は茶葉をありがとうございました、と」
「はーー?あの茶葉とは?」
黒と白を混ぜた灰色の瞳が瞬く。
「シロン産の茶葉を買い過ぎたので、お裾分けにと頂いたんですけど。あ…と、夫人に贈り物はマズかったですかね?」
独身男性から既婚女性に贈り物はまずかっただろうか。ヤンはそれを気にしているが、ミッターマイヤーが気になるのはそこではない。
「いや!それは大丈夫です。こちらは責任をもってエヴァに渡します。ですがヤン提督、妻と個人的にやり取りしてらしたのですか?」
夫人宛の紙袋を大事に抱え、ミッターマイヤーは尋ねた。聞けばエヴァの買い物の時に二人はばったり出会い、荷物が多いからとヤンが持ってあげ(大部分は護衛のラッツェル大佐が持っている)、自宅まで送り届けた際に茶葉を分けてもらったと。ヤンとそっと護衛として控えているラッツェルの説明では、そういうことらしい。
いやはや、妻が誰と交流を持とうが、基本は干渉しないのがミッターマイヤーの流儀だが、顔見知りとはいえ、まさかヤンと個人的に会っていたとは、予想していなかった。別にヤンと妻の関係を疑っているのではない。二人に限ってまず有り得ないであろうから、範疇にないだけだ。
ただ、純粋に驚いたのだ。妻のエヴァンゼリンは、優しく穏やかな女性だが、良く言えばおっとり、悪く言えば控えめで受動的な性格だ。必要があれば対応してくれるが、彼女が自分からミッターマイヤーやロイエンタール以外の軍人と話すのは見たことはない。
それがヤンとなら話せるのかと、ある意味関心した。そういえば、二人とも柔和な雰囲気が似ている。ヤンも本質は受動的だ。軍人らしくない。そこが妻には接しやすく感じたのかもしれない。
「そういえば最近、妻が紅茶を煎れることが増えていましたが、ヤン提督から薫陶を受けていたのですね」
思い浮かぶのは美味しい茶葉が手に入りましたのと、嬉しそうに湯気が立つティーカップを差し出す妻。コーヒーでないのは珍しいと思ったが、ミッターマイヤーはあまり気に留めていなかった。実際、紅茶も美味しかった。
「そんな大仰な。それに私より、アンネローゼさんの影響じゃないですかね」
「ーーーーーはい?」
たっぷり数秒後、ミッターマイヤーにしては間の抜けた声を上げた。彼はなんと言った?聞き捨てならないことを聞いた気がするが、アンネローゼさんとは、まさか!?
「た、大公妃殿下の御名が何故!?」
驚愕に思考を投げ出したくなっても、きちんと聞き返した胆力は、流石は帝国軍の至宝と呼ばれる人物。が、そんな努力を吹き消すように、元敵の知将は爆弾発言を投下する。
「え?だって、お二人共。料理仲間ですよね?」
知らない。聞いてない。
妻の交友関係が、とんでもないところまで伸びていたことに、ミッターマイヤーは目眩がしてきた。
「フラウ·ミッターマイヤーが大公妃殿下と親交深いとは、俺も存じ上げなかったが?」
助け舟のつもりで、ロイエンタールが口を挟んだ。
口調は問いかける。なぜ貴様が知っているのかと。
それに対し、ヤンは困ったと首を傾げた。ちょっと前のことなんですけど、と前置きし。
「以前、ミッターマイヤー提督のご自宅に招かれた時、夫人の料理をご馳走して頂いたじゃないですか。とても美味しかったのですが、その事を話したら、アンネローゼさんが、私も料理上手な夫人とお話してみたいと言い出してですねーーー」
で、どうしたら良いか相談を受けたものの、ヤン自身が働きかけることはできない。保護された身、采配を振るうことはできない。
とはいえ、聞いたからには力になってあげたかった。後宮に囚われていた女性のささやかな願い。夫と弟に話すと面倒なことになるので、ヒルダこと、マリーンドルフ伯爵令嬢に仲介をお願いし、アンネローゼは勇気を出して夫人にコンタクトをとった。
「ーーーで、たまにお茶を飲んで、料理談義をしてるみたいですよ」
「りょ、料理談義?大公妃殿下と!?」
「この前、アンネローゼさんが紅茶を使ったレシピを思いついてですね、買いに行けないから夫人が茶葉を購入し、分割する話になったみたいです。私はそのお零れを貰えたのでーーーーあの、ミッターマイヤー提督?」
ヤンの声が遠い。駄目だ、ついていけない。
戦場で不測の事態にも動じない歴戦の用兵家も、妻のまさかの交友関係に、言葉が出てこない。
親友の動揺っぷりを、ロイエンタールは慰めるように肩に手を置いた。結婚せず家族もいないロイエンタールにはわからないが、皇帝の姉君に覚えがめでたいとあらば、普通は喜ぶところ。しかし真面目なミッターマイヤーのことだ。恐れ多いとか、大公妃殿下といてエヴァは大丈夫なのか、とか。心配で仕方がないのだろう。
「貴様、何故言わなかった?」
「今、話しましたけど」
「その前にだ。ミッターマイヤーには話しておくべきだっただろう」
「苦情はわかりますが、私に言う権利はありませんし、夫人と妃殿下、ヒルダさんの三人で、お茶飲んで談笑してるだけですから。風潮することでもありません」
黒髪の青年の言うことは一理ある。あるのだが。そうだなと頷けないのは、相手がヤン・ウェンリーだからか、納得できないからか。判断しづらい案件をロイエンタールが思考する中、ヤン提督と、誰かが呼んだ。
「閣下。そろそろ行きませんと、次の方にお会いできない可能性があります」
ヤンの護衛ラッツェル大佐だった。3人の遣り取りを邪魔しないよう、周囲を警戒しつつ待機していたが、手首の時計をチラリと確認し頷いた。
「急かして申し訳ありません。如何なさいますか?」
「そうか。指摘してくれてありがとう、大佐。そうだね、そろそろ行こうか。ではお二人共、私は失礼させて頂きます」
ぺこりと黒い頭を下げ、ヤンは踵を返す。足早に消える背に、ラッツェルの「そちらではありません、閣下」と焦った声がかかり、跳ねた黒髪は去っていった。
残されたロイエンタールとミッターマイヤーは目を合わせる。やがてどちらともなく、やれやれと力なく笑った。
「嵐が通り過ぎて行ったな」
「流石は魔術師。翻弄してくれるものだ」
本人にその気はなくても、帝国の双璧をここまで振り回せるのは、皇帝を除けばヤンくらいなものだ。
「しかし………エヴァがなぁ……。帰ったらなんと言っていいやら」
「別段、改ませることもあるまい。奴の話では御婦人方が茶会をしているだけのようだしな」
「だが無用に拝謁するは、互いに良くないだろう?」
ローエングラム王朝の血統は、ラインハルトとアンネローゼのみ。皇帝以外唯一の王族と個人的な関わりを持てば、周囲が邪推しかねない。ミッターマイヤーはそれを心配している。
「確かに卿の懸念はわかるが、妃殿下の話相手として、フラウ·ミッターマイヤーは正しいと俺は思う。立場的にも、彼女の人間性から見てもな」
アンネローゼと近しい者は、側仕えの者を除けば、ヒルダのみ。友人にヴェスパトーレ男爵夫人、シャフハイゼン子爵夫人がいるが、彼女達は気さくに会えるものでもない。そういう意味でも、料理の話という日常を話せるエヴァンゼリン·ミッターマイヤーは、アンネローゼにとって貴重な相手だろう。
「それに卿は宇宙艦隊司令長官。陛下の信頼も厚い。その奥方が殿下と親交あろうと、身分を鑑みても文句は言うまい」
別段、ロイエンタールもラインハルトもアンネローゼ自身も、身分に拘る質ではない。であるが、多くは立場や地位に敏感で、貴婦人の傍にいて許容できる人物でなければいらぬ荒波を立てる。その点、フラウ·ミッターマイヤーは宇宙艦隊司令長官の細君で、典型的な奥ゆかしい帝国女性である。存外、目が高い。ロイエンタールの中で、グリューネワルト大公妃殿下の株が密かに上昇した。
そんな親友の言葉に最初は目を丸くしていたミッターマイヤーだが、愛妻を褒められ嬉しくないわけがない。自然、唇を綻ばせる。
「卿がそこまでエヴァをかってくれていたとはな…。意外だ」
「彼女は俺のような者も饗してくれる。それに、言うべきは言う強さも持っている」
ロイエンタールが夜毎、愛でる花を変えている話を聞いても非難せず、たまには自身も大切にして下さいと
微笑み、料理をふるまってくれる。家族という存在が希薄なロイエンタールにとって、ミッターマイヤー宅の饗しは、むず痒く、暖かいものだ。……まあ、そこまで言うつもりはないが。
「それにしても、すっかり姉君と和解されたようだな」
「ああ、一年前が嘘のようだな。これもヤンのお陰か」
ラインハルトとアンネローゼ。
二人の確執はラインハルト陣営で暗黙の了解であった。
詳しく語られたことはなかったが、きっかけがキルヒアイス提督の死であるのは、近しい者なら察していた。理由がセンシティブなだけに、他者が触れることは憚られ、辛うじてヒルダを介して護衛を了承してもらったり、連絡をとっていたようだが、姉と弟の見えない溝は埋まらないまま停戦を迎えた。
そんな中現れた異分子が、ヤン・ウェンリーである。
ヤンはアンネローゼと知己を得ると、あれやこれやでいつの間にかラインハルトとの仲をとりもってしまったのだ。数ヶ月前、アンネローゼ自ら私的な面会で、遥々オーディンからフェザーンに、お忍びで訪ねてきた時のラインハルトの驚きようといったら。どんな窮地にも対処してきた常勝の天才の面影はなかった。
唯のーーー姉と会えて嬉しい弟の顔だった。
一体どんな手を使ったのか?質問攻めするミッターマイヤー達に、「私は部外者ですから、皆さんより話が通しやすかっただけですよ」と、答えになっていない答えを返し、それ以上ヤンは語らなかった。
「妃殿下の来訪は、来月の陛下の生誕祭に合わせてと聞いている。心穏やかにお過ごしのようで、陛下もお喜びだろう」
「お二人が仲睦まじくあられるのは、ローエングラム王朝にとって吉兆。それもこれも、あの男の手柄と思うと複雑ではあるが…」
「そうか?俺はヤン提督なら有り得ると思っていた。卿もそうだろう?」
当然そう思っていると疑わない口調で聞き返すミッターマイヤー。そうだろうか。約一年前から顔馴染みになった元敵国の同い年を、思い浮かべる。
ふわふわまとまりのない黒髪。茫洋とした表情。どれをとっても軍人らしくない男は、街にいれば一般人に紛れてしまう。それなのに、実際に交流を持てば、印象がガラリと変わる。
確かに彼は随一の智将で、皇帝と同格の傑物であると。真の意味でラインハルトの気持を理解できるのは、おそらくヤンだけ。それは………ロイエンタールにとって認めがたく、容認し難い事実。ロイエンタールは自身の能力が他者より秀でていること、人の上に立てる人材であることを自覚している。皇帝の偉業が、己にも達成できたであろう能力はあると自負する。
しかしーー。しかし、現に己はやろうとしなかった。成せたかもしれないが、かもしれないで終わるのが己。成したのが皇帝ラインハルト。故に偉業なのだ。例え能力があろうとやらなかった者に並び立つ資格はない。
野心と矜持を胸にしまい込み、ロイエンタールは何かを諦めるように、ふふ、と笑った。
「そうだな。俺もそう思う」
ロイエンタールの同意に、ミッターマイヤーは破顔した。辺りが明るくなるような、眩しいほどの笑顔を浮かべ、手の中のチョコレート達を抱え直した。
「では俺は、大事な贈り物を渡す為にも、さっさと仕事を終わらせるとしよう」
「同感だ。今日は部下達も、浮足立っている。能率も上がらんだろうよ」
「ところでロイエンタール、お前今日の夜の予定入っているか?」
「空いているが何だ?」
「夕食を共にどうかと思ってな」
有り難い誘いだが、ロイエンタールは首を横に振る。
「こんな日だ。夫婦水入らずの方が良いだろう」
「こんな日だからだ。俺はお前に来て欲しい。それに実のところ、ロイエンタール提督を夕餉に誘うよう、妻から密命を帯びている。俺の任務達成の為に、頷いてくれると有り難いな」
「疾風ウォルフに依頼するとは、流石だな。そうか……ではお言葉に甘えさせてもらおう」
「そうか!ではエヴァに連絡せねばな」
本当に嬉しそうに笑う親友の横顔を見ながら、ロイエンタールは空を見上げる。晴れ渡る空は蒼く澄んでいる。鬱屈した過去を抱える自分は、どこか澱んでいる自覚がある。この空と真逆のような。
でもミッターマイヤー夫妻のように、寄り添ってくれる人達がいるから、己はこの空を綺麗と思う心を忘れないでいられるのだ。おそらくラインハルトが、ヤンを求めていたのも同じ。正気を失わない為の標。
「どうした、ロイエンタール?」
「いや、何でもない。早々に職務を終わらせるとしよう。フラウに土産を持参したい。卿の意見も聞かせてくれ」
「そうだな。エヴァが喜ぶのはーーー」
風になびく、真紅と深青のマント。
帝国の双璧と称される二人は、士官学校時代のように、幼く口元を綻ばせ、廊下の先に消えていった。