愛しのルージュ流川楓の手は、直径24.5cmの人工皮で作られたオレンジ色のボールをイメージ通りに操るための手だった。
ボールだけを持って生きていたはずの手には色々なものが積み重なり、バスケット以外のことも持って歩まねばならなかった。
それだけを見て生きるというのは存外難しいことなのだと知った。
まず学生という身分において、勉学は切り離せなかった。試験の点数が悪ければ試合に出られない。特に英語はアメリカに行くためには最低限必要で、それを使ったコミュニケーション力もとい考えを言葉にして伝わる文章にするために国語が必要だった。
プロになっても同じで、選手として結果を出すのはもちろんのこと、競技の裾野を広げるためにテレビや雑誌などのメディアに出たり、スポンサーと会食したりしなければならなかった。バスケットという競技で食べて行くには仕方のないことだと割り切ろうにも他人との接触が煩わしくてしょうがなかった時期もあった。
最も煩わしいと思っていた恋愛に関してもそうだった。それが流川の人生において、バスケットと同じくらい大切なものになるとはおもってなかった。あの人に出会う前の自分に言っても信じないだろう。
「寿さん」
ん、と手を差し出すと、愛する妻は少し嫌そうな顔をする。
「なー、また持っていくの?」
それでももう一度催促すると、渋々といった表情で、流川が広告塔を勤めたティントリップを渡す。流川がポスターで使用したのは鮮やかな赤だったが、三井は同じシリーズでオレンジ味のある色を選んだ。名前は何と言ったのだったか。
名前を覚えていなくとも、三井によく似合うことだけが分かればいい。
流川はパートナー同伴のパーティーに行く時は必ず胸ポケットにその日の口紅を持っていく。それまで面倒でしかなかったパーティーも、隣に三井がいるというだけで視界が華やいだ。容赦なく焚かれるフラッシュもこのひとを美しく撮るために必要なのだろうと思えば、不思議と腹も立たなかった。
きれいだな、と思って見ていたら無意識の内にキスをしていた。ワアッと周りが煩くなったような気がしたが、それで止まるような男ではない。三井も三井で突拍子もない流川の行動に固まってしまって、やわらかな口付けをただ享受するのみ。
キスしたら口紅だけでなく上に塗られたグロスもろとも落としてしまって怒られた。ーーしかし三井が怒ったのはそこではなく、その場面をがっつりメディアに写真を撮られており、瞬く間に世界中に拡散されたからであることを流川は理解していないーーだから口紅を持っていくようになったのだ。
キスをしてもメイクを直せるように。
「いやお前が外でしなきゃいいだけの話なんだがな?」
とは三井の弁だが、流川は無理な相談だと聞き流した。