日和誕2021かえひよ 玄関を開けたら、日和がいた。
そろそろ日付も変わろうかという夜更けにチャイムを連打され、どこぞの酔っぱらった先輩でもなだれ込んできたのかと、思ったのだ。だったら出る必要ねえかなあ、とも。
「金城が寂しがってないかと思ってさ」
しかしそこに立っていたのは確かに、鼻先を赤くして白い息を吐きながらそんなことを嘯く、日和であった。それならもっと早く迎えに出たのにと、浮かびかけた後悔は、口にはしないことにする。
「寂しいなら郁弥クンの家にすれば? 近いだろ」
「なに言ってるの。こんな時間に行ったら近所迷惑でしょ」
飄々とした調子で生意気ばかり言いながら、勝手知ったるというふうにするりと俺をすり抜けて、靴だけは手早くそろえ日和は俺の部屋へ上がり込んだのだった。すれ違いざまに、冬の冷えた匂いがした。凜と澄んで、どこか悲しげな香りだった。
俺が暗に「寂しがってるのはお前の方だろう」と指摘したことに、気づかない奴ではない。けれど日和は、そこについては言い返さなかった。
「……泣き虫日和」
「金城の家、こたつがあるからいいよねえ! あ、あったかい」
昔こいつを散々からかっていた古びたフレーズも、少々芝居がかった暢気さでかき消されてしまう。そのまま日和は遠慮もなく一直線に、部屋の真ん中に置かれたこたつへと、俺に背を向けてすっぽり、収まった。
中は温かいに決まっている。俺だってチャイムが二度も三度も鳴るまではそこにだらだら寝転がっていて、一生出たくねえなあ、いや明日になったら泳ぎてえなあとか、こたつで温まった身体に相応しい無益なことばかり考えていたのだ。
「いつでも家に来ていいって言ったのは、楓じゃない」
「言ってねえ」
日和が俺の暮らす学生アパートを訪ねたのは、記憶の限り、今日が二回目である。「いつでも」、などと言った覚えはない。
それとも俺はこいつを招いた日に、勢いか疲労か感傷か、そんなことを口走ったのだろうか。日和の背中が猫みたいに丸まっているのだけが見え、どんな顔をしているのかは、わからない。
「言ったよ。『うちもめったに親がいないから』、来ていいって……」
「……いつの話だよ」
「ふふ、懐かしいねえ。楓と会ったころだから、小学生かなぁ」
ぺらぺら喋りながら、日和が何気なく眼鏡を外す。机上のボックスからティッシュを一枚、勝手に取って、レンズの曇りを拭おうとしているようだった。
笑い声を出した、ということは今の日和はもう笑っているのだろうと、俺は思う。それならそれでよかったというような気もするし、一方でどんなツラをしていたのか無理にでも暴いてしまえばよかったという気もする。手首を掴んで、首をこっちに向かせて、もしくは胸ぐらを掴んでしまうのだってアリだ。寒い夜中の街を駆けて突然やってきた日和が、どういう表情で昔話を始めたのか。無理矢理、知ってしまった方が俺にも日和にも、よかったんじゃないだろうか。
メガネを拭く手が、ふいに止まる。
「はっ、……くしゅ!」
一瞬の静寂ののち、日和は腕に顔を伏せて、くしゃみをした。
話し声よりややトーンの高いそれは、そばで過ごしていた昔と変わらない。幼げな、頼りないような、なんだかすっきりしない、そういうくしゃみだ。
「外、少し雪も降ってたよ」
濁った声で呟いて、ずび、と鼻をすする。
「じゃあほいほい出歩くなよ。お前すぐ風邪引くんだから」
「今僕のことそんな風に言うの、楓だけだよ」
鼻をぐずぐずさせながら、やはり日和は機嫌良さそうに話している。
「あの頃はちょっとね……自分で思うより、弱ってたのかもね。
それに楓の心配には及ばないよ。もう引いてるし」
もう一枚もらうねえ。
間延びした声とともに、ティッシュを素早く引き抜く音がした。こたつ布団をごそごそさせて、どうやら中で膝を立てている。布団ごと腕で抱え込み、背中がもっと丸くなる。人様の家で極力音を立てないよう行儀良く、日和は鼻をかんでいるが、その分手こずっている様子でしばし、ティッシュと格闘を続けている。不器用な背中を眺め、俺は日和の言について、何とはなく、考えていた。
そうか。もう昔とは違うのか。
こいつの作り笑顔の奥の孤独を、強引に解き明かす必要はないのだろう。日和にとっても、俺にとっても。
あと、もう風邪を「引いてる」って言ったな。
「マジか」
その一言だけが声になり、こぼれたところで俺も玄関に突っ立っているのを止め、角を挟んだ日和の隣へと、収まることにしたのであった。
「ティッシュはいくらでもやるけど、出すものはねえぞ」
「ああ、僕コーヒー買ってきたから。飲もうよ」
俺がこたつに入ると、先に入っていた足が律儀に避ける。日和の鞄から、チルドカップの微糖コーヒーが二本出てきた。日和もよく行くというコーヒーショップのロゴが、あやしく微笑んでいる。緑色の、セイレーン。人魚姫は日和の内からいなくなったのかと思ったのに、まだこんなところにいたのか。俺は内心可笑しくなり、唇の端がひきつる。
「郁弥はもう寝てるんじゃないかな」
コーヒーを吸ったあとのストローから、空気の音がした。苦みと香ばしさと、ほのかな甘みが、冬の夜更けにちょうどよい。日和はまた小さく鼻をすすって、天板の木目でも見つめながらふいに呟いた。
「〇時まで起きてようとして、でもいつのまにか寝落ちしちゃって朝……ってところかな」
俺は斜向かいに座る、互いにデカくなった身体をこたつに押し込め合って触れそうな距離で暖を取っている日和が、遙か遠くにいる郁弥を思っているみたいな瞳で話をするのを、何の感慨もなく聞いていた。
「へえ」
ただ、今の日和の鼻でコーヒーの味がわかっているのだろうか、とか。郁弥のことならなんでも知ってるような顔するんだな、とか。やはり気に食わない物は気に食わない、とか。考えることといったらそれくらいだ。
ストローを噛む。歯形のついたストローは平べったく、尖って角を持った。日和は安物の、同じパターンを繰り返すプリントの木目に飽きたのか、ようやっと顔を上げた。
「興味なさそうだねえ」
「どうでもいい」
「郁弥のことだよぉ」
郁弥に興味ないなんてありえない、みたいな言い方でわざとらしく驚いて、そういう悪戯を俺に仕掛けて、また日和はふふっと楽しげに笑う。
日和は、昔からこんな顔をしていたのだったか。
日和の泣き顔ばっかりを、俺は覚えていた。
幾日も、何度でも、胸の内で、覚えていた。
もうすぐ日付が変わり、一月二十日が来ると日和は十九歳になる。ついでにそんなことまで、俺は当たり前のように記憶している。
「っ、ぐしゅっ、へぷしっ! …………はっ、くひゅんっ」
日和は三度もくしゃみを繰り返した。深夜に日和が俺を訪ねて来て、一緒にこたつに収まって、十分暖かい気がするのに。
「変なくしゃみ」
「別に、普通だよ」
「なんかすっきりしないんだよ前から」
「昔からそんなこと思われてたの?」
ティッシュ箱を渡したら、日和は口先だけで拗ねて見せる。
昔話をしたら途端に、成長した俺たちがこんなふうにふたりでこたつを囲んでいるのが不思議な感覚がした。小学生の頃とは違う、離れている間にも同じくらいまで伸びた背とついた筋肉で、もう寄り合わなくても平気だけれど結局ぎゅうぎゅうに身を寄せ合っている。
昔とは違う、けれど、違わないこともあるのかもしれない。日和も、俺も。
一人暮らしの部屋はなんだか普段より暖かく、でも風邪気味のこいつにはまだ肌寒いんだろうか。フローリングへ置きっぱなしになっていたリモコンを拾い、設定温度を上げる。ピッピッ、とやたら軽快に、電子音が二回鳴った。
「……明日、誕生日パーティーしてくれるんだって……椎名くんのお姉さんのお店を借りて、みんなでね。順番にやってきたから、次は僕の番、って」
ぽつりぽつり話しだし、くすんと鼻をすすったから、昔みたいに泣いているのかと思った。
すぐに鼻をかみ始めたので、俺の郷愁じみた錯覚は一瞬で解かれてしまったのだったが。
「ああもう、ぐずっ、鼻水止まんない」
「冷えたからじゃねえか、ったく」
だんだん鼻にかかって重たくなってきた声で独り言っぽく愚痴り、無意識に近いであろうそれも俺はわざと拾っていちいち相槌を打ってやる。そういうからかい方を、今夜はしてやりたい気分になっていた。
「これじゃあ、うつしちゃうかな」
日和の瞳が、俺を覗いた。だから、俺もまっすぐ、覗き返してやる。
日和の目玉は昔から、淡く複雑な色をしていた。茶色でもなく、黄色でもなく、緑色でもない、寄る辺のない色をした瞳。
「ああ。置いて行けって。明日『パーティー』なんだろ」
「……うんっ」
曖昧な瞳が、まぶたに隠れて細まっていく。口角があがって、唇が笑顔を形作っていく。
やはり日和は花の開いたように、笑うのだった。
「僕やっぱり、楓のこと嫌いじゃないよ」
かと思えば不適なそれに作り替えて生意気なことも言うので、こたつの中で足を小突いてやった。
こんな夜中に、唐突に聞き覚えのない通知音が鳴り出して、少し驚いた。どうやら日和の鞄の中でスマホが鳴動しているらしい。
そういえば、いくらか話している内に、置き時計の長針と短針が真上でぴったり、重なっている。日和が鞄から取り出そうとする合間にも二、三回、鳴り続けている。
「鴫野くんからだ。あと……」
〇時を回り、続々と届きだしたメールの返信に忙しくなり、日和はスマホへ釘付けになってしまった。そして受信メールの一覧を何度かスクロールして、「やっぱり郁弥からは来てないねぇ」、と楽しそうにする。
俺はもう一度ストローを噛み、それからつられて笑った。今年の誕生日を誰よりそばで迎えたというのに、「おめでとう」も言いそびれたまま、俺のよく知る泣き顔ではない日和の表情全部全部を見つめていた。これから幾日も、何度でも、思い出せそうな気がした。
コーヒーの最後の一口を吸い込む。部屋は暖かく、コーヒーは少しぬるくなっていて、苦みと香ばしさの底に、ほのかな甘さが横たわっていた。