君のこと / まや ふわりと揺れるフォームミルク。カップに入ったそれをゆっくりと口に運ぶ。
(カフェラテとか飲むんだ…)
ひと息おいてから二口目。もしかして猫舌なのだろうか。
日和は目の前にいる彼のことをほとんど知らない。泳ぎのタイムならば嫌でも記憶に残っているけれど。
高校の頃から大会で会う機会はよくあったが特に仲が良いわけでもなく、これといってまともに話した記憶もない。だからこそ、自分にしばしばつっかかってくる彼のことを日和は不思議に思っていた。
暖かみのある照明に深い色のテーブル。店内のレコードから流れるジャズが、二人の間に流れる気まずい沈黙に混ざる。堅苦しすぎないゆったりとした雰囲気とあたたかいカフェラテが日和を心地よくさせてくれ、その居心地のよさに普段ならば長居してしまいそうなものだが、今日はどこか落ち着かない。
(なんで金城とお茶してるんだ 僕は)
どちらかといえば気に入らない相手と一緒にカフェにいるなんて。日和自身もなぜそんなことをしたのかわからないが気がついたら彼に声をかけていた。もっとわからないのは大人しく着いてきた彼のほうだけれど。
昨晩、年末の帰省で京都に着いた日和は清水寺で金城とたまたま逢い、ほんの少しだけ言葉を交わした。ただそれだけだったが、その時の彼の表情がずっと残っていて、なぜか日和は翌日も同じ場所へ向かった。清水寺へ向かう坂の途中、見慣れた髪色の男が降りてくるのが見えた。金城だ。
あまりの偶然にお互い驚いてその場で立ち止まってしまった。すると突然雨まで降り出したものだから、日和は思わず金城に声をかけていた。
「傘持ってきてないの? 濡れるよ…」
「急に降ってきたんだから仕方ないだろ。お前はどうなんだよ」
「忘れた」
「同じじゃねーか……」
辛辣な返事でもくるかと身構えたが、雑踏に掻き消されそうなほど覇気のない声が返ってきて日和は調子が狂ってしまった。雨も強くなってきて、どうやってこの場を去ろうかと考えていると、路地からカランカランと鈴の音が聞こえ、つられるように目をやる。
珈琲色の分厚い扉が開くと、中から少し年配の夫婦が出てきた。窓には黄昏色の優しいライトの光が溢れ、だいぶ年季の入った木製の看板には「喫茶」という文字が古びた書体で彫られている。
話しかけてしまった以上なんとなく一人で入るのもどうなのかと思い、一応声をかけてみることにした。
「雨が止むまでここに入ろうと思うけど…一緒に来る?」
来ないだろうけど。と日和は心の中で付け加えた。しかし金城は一瞬驚いた表情をした後、あぁ。とだけ言っておとなしく日和に着いて店に入ったのだった。
それからは会話もなく、カフェラテも飲み終えて手持ち無沙汰のまま静かに時間が流れている。ぼんやりと窓の外を眺める彼の横顔に、昨日の夜の表情が重なった。アルベルトに大きくタイムを引き離されたことにショックを受け、珍しく弱っているその様子を見た時、日和は何故だかひどく落ち着かない気分になったことを思い出す。
今も彼の横顔を見ると胸がざわついて、何かを口に出さずにはいられない。
「もしかして結構ひきずるタイプ?」
「……ハァ?」
怪訝そうな目をした金城が日和を捉える。
思わずゾクリとするような眼光に怯みそうになるが、一度開いた口は止められない。
「随分しおらしいよね。次はこんなものじゃないでしょ」
「日和……」
皮肉めいたことを言ったが、彼に期待しているのは本心だ。同じ日本で水泳をやるものとして、彼が世界で活躍する姿は刺激にならないわけがない。日和にとってこれが今の精一杯の励ましのつもりだった。
もしかして、いつも悪態をつきながら絡んでくる彼も、僕への励ましのつもりだったんだろうか。不器用なものだな、お互い。
苦い笑いを含ませて金城を見ると、戸惑ったような、でも少し嬉しそうな表情をしていた。
「雨止んだみてーだし行くわ。金は置いてく」
「うん」
友達ではないので別れ際にどんな挨拶をすればよいかお互いわからず、また自然と無口になる。じゃあな、と低い声でつぶやくように言った金城が珈琲色の扉を開けて出て行く姿を、日和はぼんやり眺めた。
雨がとっくに止んでいたことは、二人とも気付いていた。