#2 ドブ川の魚たち1990年某月某日
聞き覚えのある妙な調子の声に、つい足をそちらへ向けてしまう。ぶつぶつと呟かれる言葉は、一応は彼の足元に散らばる無惨な姿の男たちに向けられているらしい。
「……色は……赤はええんや、いつ見てもぱあっと目ぇ引いて、気分もようなるっちゅうか、なあ?分かるやろお?……せやけど、癪に障るんはニオイや。勃ってまうくらいにええ匂いに感じるかと思えば、ゲロ吐きそなくっさい臭いに感じるときもある……。部位の差、なんやろか?なァんか、生臭くてのぉ……」
パン!と掌を打ち合わせた真島が、せや!と残骸の顔を覗き込む。どれも目の合わせられるような意識の残っているものはいないが、それは別段気にならないようだ。
「ひょっとして、お魚さんなんとちゃうか?」
ヒヒ、と口元だけ歪んだ薄ら笑いを浮かべて、かと思えばすっと立ち上がりひどくつまらなそうな表情をして足蹴りを土産に踵を返す。振り返ったその隻眼は当然こちらを視界に入れている筈だが、視線がかち合うことはなかった。
「魚なら、いつか海に還れるんかのお……」
ゆらゆらと幽鬼のような足取りで、ひしゃげた血塗れのバットを引き摺って歩いて来る。
「ああ……でも、あれやな。生臭いんはドブ川の魚やからで……したら、海には還られへんなあ……」
真島がこちらの横を素通りするだけで、むわっと鉄錆くさい血の臭いが確かに広がる。それに微かに混じる、薬物中毒者独特の甘ったるい匂いと煙草の残り香。今日に限ったことでなく、この男のいつも纏っている匂いだった。
「……川魚も海魚も、臭みってのはその種類よりも住んでる水域の質に影響されんだ」
三歩ほど通り過ぎた男が、ひたりと足を止める。
「物知り博士かァ〜?」
ぐるんと勢いよく首が回り、前触れもなくドスが顔面を狙って斬り上げてくるのを仰け反って躱す。不機嫌な顰め面がようやくこちらを睨みつけていた。
「その傷バッテンにしたるわ、よっぽど男前になるでぇ」
「生憎、間に合ってんだよ」
ニタァ、と凶悪な笑みを浮かべて真島が襲いかかってくる。執拗に顔面を狙われるので普段の真島の攻撃よりは幾らか避けやすい。しかし途中でそれも飽きたようで、気付けばステゴロのやり合いになっていた。ネクタイと襟元のボタンがそこいらに飛んで行った。何度か拳を叩き入れたとはいえ、真島の底無しの持久力に付き合っていられるはずもない。こちらの息が上がるのも時間の問題だろう。
「……アンタは、海に還れる人間なんか?」
「ッ!」
グッと間合いを詰めた真島がこちらの懐に入り込む。しまった、と思った時には既に遅い。真島が両肩に掴みかかる。身体が触れ重なるほどの至近距離に、こちらを射抜く針の眼差しに、状況も忘れて一殺那、動揺した。
「──ッぐ、ゥ……ッ!」
ぶちん、とまず聞き慣れない不快な音、一瞬遅れて形容しがたい激痛、鼻を突く血の臭い。
首筋を噛まれた。いや、喰われた。狂犬は牙を立てるに収まらず、文字通り一口大に皮膚ごと抉り喰らって、口からひとの鮮血を滴らせながらゲラゲラと酷く愉快そうに笑っていた。その身体を突き飛ばして首の出血を押さえる。痛みを通り越して焼けるように熱い。拍動に合わせてごぷごぷと指の間から血が溢れてくる。
「てめえ……ッ!」
「なァんや、アンタもおんなじドブ魚やないか!」
いっそ無垢なまでの満面の笑みで、鼻先まで俺の血で汚れた真島が嗤う。グチャグチャと、下品な音を立てて咀嚼されるのは先程までの自分の肌の一部だ。心拍が速まるのは痛みと憤り、生理的反応であって決して精神的な昂りなどではない筈だった。だが睨みつけているようでその実、真島の口元から目が離せない。
あの唇が触れたのだ。
「はあ……ごっそさん。つまらん堅物の仏頂面やと思っとったが、なんや案外ええ男やないか。……また遊ぼや……なあ?ヒヒッ……」
満悦の様子で人喰い鬼が去っていく。横を向いたその輪郭の喉元まで生臭い血が伝っている。あまりに倒錯的で痛みよりも酷い喉の乾きを感じた。後ろからあの身体を組み敷いて仕返しとばかりに噛み付いて、舐めて、吸って、啜って──彼を蹂躙し、その肢体を喰らってやれたら。
喉仏が上下して、ごくん、と血腥い身体を嚥下した。