行生逝。「綺麗な景色ですね」
前を向いてそう呟きながらも、その瞳には何が見えているのか、暗く、感情が読み取れない。
「わぁ、結構高いなぁ……」
独り言みたいに喋りながら、柵のない崖を覗き込む彼の肩を咄嗟に掴んだ。
「え? 大丈夫です、落ちないようにしてますよ。この高さでは、受け身をとっても骨折くらいはしそうですもんね。そうしたら皆さんに迷惑をかけてしまいますから」
あははと乾いた笑いで頬をかく彼の襟元を掴む。とても腹が立ったからだ。そして、悲しかったから。
「離して下さい」
怯えも狼狽えもしない声からは、こちらがどうして怒っているかも理解しているようだった。それだから余計に虚しい。
襟を解放し、代わりに肩を揺さぶる。
『骨折で済まなかったらどうする』
「この高さならそれくらいで済ませられるでしょう」
『ならやってみるか? 一度痛い目を見れば分かるだろ。自分の考えが愚かだと』
「ですから、それだと迷惑にしかならないです。やりませんよ」
『取り返しがつかなかったら迷惑じゃないのか!』
思わず怒鳴りつけてしまった。それでも彼の瞳は一つも揺るがない。それどころか、口角を僅かに上げてへらりと笑った。
「私だけが消えれたら、それでいいんですけど。そうですよね、私の身体に何かあれば、貴方が困りますよね」
そうじゃない。
そうじゃないだろ。
そんなことを言ってほしいわけじゃない。
肩を掴む手に力がこもり震える。痛いです、と握り返された彼の手からは温度を感じなかった。
彼はふとした時、ふらりと意識がよからぬ方へと向く。景観が良いところや、美味しいものを食べた時、楽しいと思った次の瞬間。辛い時よりも綺麗な景色を見た時なんかの方が存外多い。
本人はそれが悪いとは思っていないし、無自覚のそれも多い。彼の生い立ちや経験を考えれば、仕方がないとも言えるが。周りには悟られたとこはないが、俺には解る。そして、その度にどうしようもない焦燥感に苛まれた。
俺がいるのに? 俺がいるから? 誰も彼を認めないから?
誰よりも知っていて、近い存在のはずなのに、俺は頼ってももらえない。
全てがもどかしかった。いっそ、一緒にいこうと言ってくれたら救われたのに。彼は俺を置いていこうとする。
『俺は……お前といきたいだけだ 』
邪魔するやつは俺が壊すから、守るから、どうか俺だけは置いていかないでくれ。
そう願いを込めて強く彼の手を握りしめた。
「……頑張ります」
今日初めて感情を含んだ声と眼差しは、とても寂しい温度だった。
『ゆう、』
「犬飼!」
坂の下からの呼び声に振り向く。オレンジの髪が夕陽と共に眩しく反射した。
「そ、そろそろ帰るぞ。下で紫音とシバケンがバテてキレそうだ」
「わ! それは大変です。申し訳ないです……私ばかり楽しんでつい見入ってしまって」
犬飼は早足でチームメイトにかけ寄る。土佐は一瞬眉を潜め、戸惑いがちに問いかけてきた。
「犬飼、誰かいたのか」
「え? 私しか居ませんでしたよ。ここは穴場スポットですからね、他の登山客も今日は来ませんでした。どうしてですか」
こちらの返答に土佐は頭をかいて、何でもないと頭を振った。
「話し声が聴こえた気がしただけた。違ったなら別に」
「ええ〜……怖いこと言わないでくださいよぉ」
『憂人、』
呼ばれた気がして、さっきまで立っていた崖を振り返る。
逆光が眩しく柱のように見えた。
ああ、綺麗だなぁ。
目を細めて微笑みを浮かべる。いつかあの柱をくぐりたい。でも今日はもう帰らないと。
「犬飼ちゃんおそーい。帰ったら労ってもらわないとなんだけど」
「おいクソ雑魚看守! いつまで待たせる気だこら。待ては飼犬の役目だろーが俺等にさせんな」
痺れを切らせたメンバーが口々に文句を言う。苦笑して謝りながら、夕飯は皆の好きなものを頼みましょうと侘びの条件を出すと、彼らの話題はそちらへと移った。
私はもう振り返らずに、足元の影へ目を落とす。
「いきましょう」
足を踏み出すと、影は付いてこいとばかりに先へ先へと急いで伸びていく。
前をゆく三人の影と合わさると、なんとなく擽ったくて脚を止めた。影も止まって、僅かにこちらへ短くなって戻ってきたように思える。
それが嬉しいような、あのまま影だけ付いていってしまったら私はどうなるのか気になるような、なんともいえない気分になった。
まだ二本の足と影は、この地を踏んでいる。了
了