「おじたん!」
「……いって」
鏡を抜けて足が見えたとたんにチェカは駆け出した。ゆっくりとブルネットの髪が鏡の前で揺れる。見慣れた鮮やかな制服に向かって、チェカは地面を蹴った。ドサッと鈍い音を上げてお日様みたいなその色目掛けてチェカは飛びつくと、頭上からは低い声が降ってくる。
ぎゅうと抱きつくと懐かしい香りがふわりと立ち込める。優しい眠たくなる匂い。チェカは嬉しくてさらに力を込めて、胸いっぱい甘い香りを吸い込んだ。
「ジャマだ」
「わー!やだやだ!」
ぎゅうと抱きついていたはずのチェカの体がふわりと浮かび上がる。あったかいもいいにおいも、チェカからどんどん離れていってしまう。やだやだと手をぱたぱたと伸ばしても、あの鮮やかな色はもう触れない。
首根っこをレオナに掴まれ持ち上げられて、強制的に離されたチェカは視線が近くなったことで動きを止めた。自分とは違う色。透き通った綺麗な叔父の瞳は、毎回見るたびに目を奪われる。
「痛いって言ってんだろ。毎回毎回」
「だってー!ぎゅってしてないとおじたんどこか行っちゃうでしょ?」
「お前がひっついてくるからだろ」
「ほら、だからぎゅってしてなきゃ」
チェカはにっこりと笑ってもう一度レオナへ手を伸ばした。はあと溜息を零すレオナはチェカを掴んだままくるりと前へ向け、少し離れたところで待機している執事の腕の中にチェカを落とすと、執事は慣れた様子でチェカを抱きかかえた。
「ちゃんと見てろ」
「かしこまりました」
「えーやだやだ!おじたんともっと離したいのに!」
「叔父さんは忙しいんだ。それにとっても疲れてる。そんな可哀想な叔父さんを労わってはくれないのか?」
演技じみた言葉だったが眉を下げ顔を覗き込まれながらそう言われると、チェカは言葉を詰まらせる。久しぶりに会えた大好きな叔父ともっと一緒にいたい、お話しして遊んでもらいたい。けれど疲れているならワガママを言って、自分のせいで困らせたくない。チェカは悩んでしまう。
レオナはにやりと笑うと部屋から出て行く。あ、と甲高い大きな声が背後で上がっても振り返ることはなく、手を一度ひらと振って出て行ってしまった。
「おじたん、お父様のとこに挨拶に行くのかな?お父様ばっかりおじたんとお話ししてる」
「チェカ様、決まりですから」
「わかってるもん」
「レオナ様も戻られたばかり。諸々すみましたらお茶でも一緒にできますよ」
「うん!あ、僕がお菓子準備する!おじたんが美味しいって言うの選ぶんだ」
「それはようございますね」
執事の腕からぴょんと飛び降りると、チェカは厨房へと執事と共に歩いていく。すれ違う使用人たちが頭を下げる中、チェカはにこにことご機嫌で歩いていく。足取りも軽くそわそわと少し早足になっているのでスピードを落とすが、また気付くと早くなってしまっている。レオナのことを考えているといつもそうだ。楽しくて嬉しくて、時間が早く過ぎてしまう。
「おじたん何が食べたいかな。クッキー?チョコ?マフィンがいいかな?」
「少しにしないと、夜お食事が入らなくなりますよ?」
「そっか。じゃあ今日は1個にして、また明日だね」
「ホリデーはまだ続きますからね」
「うん!」
その後部屋でゆっくりとしていたレオナの元へ、侍女と共に小さなお皿に乗ったクッキーを笑顔で運ぶ姿が目撃されたのは、ほんのすぐのこと。甘い甘いクッキーのせいでお茶の量が増え、腹が膨れてしまったせいで食事が進まないレオナとチェカを、ファレナは怪訝な顔で見つめた。今日は小さなクッキーだけと聞いていたが、体調でも悪いのかと聞かれて、なんと答えてよいのかわからずレオナもチェカも平気だとだけ言って口を噤む。
「おじたん!あれ?」
部屋に響く声に返ってくる言葉はない。隙間から覗き込んでいた扉のぐっと開けると、中はがらんとして物も人影もない。あれ、と首を傾げ目を凝らしても何も部屋は変わらず、主のいない部屋は色も温度も薄くなって、どこか眠りについたよう。チェカはゆっくりと扉を閉めた。
あちこち駆け回った。花の匂いも風の音も必死に辿って、一部屋一部屋確かめていくが、求めた姿は見つからない。ぱたぱたと足音が王宮のいたるところに残っていく。
「ん、こっち?」
誰もいない通路を抜けて奥へと進めば人気の少ない植物園。そこからふわっとかすかに薫る大好きな香り。チェカはふんふん鼻を鳴らし一歩ずつ進んでいく。
色々な花を横切り、さまざまな木々の陰を踏みしめて奥へと進むと、大きなフランキンセンスの根元に見慣れたブルネットがざらついた土を潤わせるように波打って無造作に散らばっていた。
きっと気付いている。歩くたびにチェカの小さな足の下では葉や枝が割れて、乾いた音をあげていた。息を潜めていても寝ているレオナの耳に届いていないはずはない。けれどあの長い睫毛が持ち上がることはなくて、レオナの寝息は穏やかなまま。
「おじたん、まだ寝てるの?」
そっと胸の間に潜り込んで寝転べば、レオナの香りに包まれてうとうととしてしまう。あたたかくって葉の隙間から差し込む日差しが柔らかくって。どこよりも心地よくって。
うとうととまどろんでいると、チェカの頭の中にどろっとした言葉が染み出てきた。纏わり付くような重さを持って、夢に絡み付いてくる。
何を考えているのか。チェカ様と会わせるのはどうなのか。いつ反旗を翻されるかわかったものじゃない。無能であればまだ可愛げもあったというのに。
小さなチェカの体がふるっと震えた。大好きな叔父がいない時、ふと周りを見渡す時間が増える。にこにこと優しい笑顔で自分に接してくれる大人たち。何をしても素晴らしいと褒めてくれて、ご機嫌になってしまった。そしてそれは父や母、そして当然叔父の話も耳に入る。チェカがいないと思っていたのか漏れ聞こえた内容は、久々に叔父の話ができると思っていたチェカの想像するものとは違っていた。
なんでなんで、と布団の中で一人泣いた。叔父は意地悪なことは言っても本当に意地悪なことをしたことがない。自分の思ったことに真っ直ぐな答えをくれる。自分のしたこと言ったことも覚えていてくれて、そして疑問も濁さず答えてくれる。それは王子だからではなく、ただの子供、甥として当たり前だという顔をして。
父にも母にも甘えられず、王子として多くの期待を生まれた時よりかけられてふと立ち止まりそうな時、叔父の笑い声とそんな小さな自分を笑い飛ばすあの澄んだ瞳がどれだけ嬉しかったか。けれどそれ以上に、そんな言葉を聞いた時に言い返せなかった自分が悔しくて、涙が浮かんだ日を思い出し思わず目の前のレオナの服を掴む。
「え?」
ぽんと背中に大きな手が触れた。あたたかい重みにふと目を開けようとした時、ぐいと引き寄せられレオナの胸にぴとっとくっついてまた目を閉じてしまう。
「寝とけ」
「おじたん?」
「余計なこと考えてる暇があるなら寝ちまえ」
それだけ言うとすうとまた穏やかな寝息が聞こえる。チェカはくっついた目の前の胸に耳を澄ますと、とくんとくんと優しい音がした。何もかも忘れてただ一つ息を吐いてその音に身を任せる。強くて優しい音を聞いているうちにチェカはまた眠りに落ちていく。
この強く優しい音が好き。ただの子供になれる場所を与えてくれるこの音が。チェカは柔らかい夢の中、そっと微笑んだ。