【膝髭】α×α 高級マンションの最上階が彼等の住まいだった。生まれてこの方、金に困ったことはない。気の許せる友人達は口を揃えて住みずらい所だと言うが、慣れてしまえばどうと言うことは無かった。
膝丸にとって重要なのは、誰の邪魔も入らず、兄の髭切とふたりで過ごせる環境に身を移すことだった。実家は打算的な両親や使用人達がいて、常に監視されているようで落ち着かない。本当は絶縁してしまいたいくらいなのだが、実行に移すと監視の目が厳しくなり、より面倒な事が起きるのだ。
ここが膝丸の妥協点なのだ。ここならば、世間一般の常識を覆すようなことが起きたとしても騒がれはしない。兄も同意の上でここにいるので特に気負わずに済んでいる。
「ただいま、兄者」
「………おかえり」
広い玄関から扉を開けて入ってきた膝丸へ、やや間を置いて気だるげな返事。髭切は、成人男性が三人腰掛けても余裕がある革張りのソファにぐったりと横たわっていた。額から目元にかけて濡れたタオルが掛けられ、頬や耳や白色のネックシャツから僅かに覗く首は発熱した時のように赤かった。
「兄者!どうしたのだ…何故ラットに、」
「いやぁ…やらかしてしまってねぇ…」
膝丸は慌てて駆け寄り髭切の手を握った。兄の体は予想通り火傷がしそうな程に熱い。微かだが甘い匂いがする。膝丸は目眩がしそうになるのをぐっと堪えた。
「今日は見合いだったはずだろう?」
「そうなんだけど…相手のお嬢さんがね、Ωだったみたいで…ヒート前だったんだ…油断した」
「フェロモンに当てられたか…災難だったな」
言葉で労いつつ、発情期特有の倦怠感でろくに動けない兄の世話を焼こうと、まずは濡れたタオルの取り替えにかかる。
タオルを外すと、涙と水で濡れた髭切の赤い目元が顕になった。そこに情事の時の顔を重ねてしまうのはΩの残り香のせいだろうか。
「……なに?」
「あ、いや、すまない。直ぐに取替える」
「いいよ。どうせ気休めだから…」
「そうは言うがな」
「それより、ねぇ、いい方法、あるじゃない」
クイクイ、と膝丸のコートの袖を引く。今もとろりと涙を零す蜜色の目が、荒くなりつつある吐息が、「お前を待っていたんだよ」と告げる。
「これも気休めにしかならんぞ」
「タオルよりはマシだよ」
「明日が辛くなるのにか?」
「いいよ…ずっと苦しいよりは良い」
そうして噛み付く勢いで口を吸われれば、膝丸は髭切の口を舌で割開き、熱い口内を掻き回す。兄は身体を震わせ、快感に耐えるように弟の腕に爪を立てた。
キスだけで快感が拾える体になった髭切がソファの上で腰を揺らす。発情期であっても、本来ならαはここまで乱れない。長い時間を掛けて、膝丸がこうなるように仕向けたのだ。
全く心が痛まないと言えば嘘になる。膝丸の胸中は常に罪悪感でいっぱいだ。兄は己と同じαなのに、運命の相手とやらもこの世の何処かに存在しているかもしれないのに、弟の己ばかりが独占し、兄を作り替えてしまった。
身も震えるような甘美な現実に恐れすら覚える。
「すまない。貴方はαなのに、俺がおかしいせいで…」
しおらしく免罪符欲しさに呻けば、兄は「またその話?」とうんざり気味に吐き捨てた。
「お前がおかしいのなら僕もだよ。お前と同じαなのに、お前に腹の奥を掻き回されるのが気持ちいいんだ。痛くて苦しいのに、お前が僕を夢中になって求めてるんだって思うだけで、腰が浮きそうになる」
物分りの悪い子供を諭すような声で、目を合わせてしっかりと言い切った後、髭切は膝丸の瞼や鼻を優しく啄むように口付けていく。
発情期の茹だるような熱の苦しみより、腹の中で感じる痛みの方が心地良いのだと、恥ずかしげも無く言う。この潔さも髭切に夢中になる要因なのだろう。お陰で膝丸は兄からの愛を疑わず、真直ぐに信じられるのだ。
───そうだ、俺は恐れている場合ではない。兄者に許されているのだから…。
「どう?」
「すまない、兄者。俺が野暮だった」
「うんうん。ねぇ、許してあげるから頂戴?あついよ」
色付いた唇に誘われるまま、膝丸は再度髭切の口を吸った。赤い舌を絡ませて、兄から零れる甘い吐息すら丸呑みにするように。