ボチと遊んでいて倒れたアオイちゃんとジニア先生本のページを捲る音が聞こえてきて、ネモやボタンの誰か私の部屋にやってきたのかと思って、目を開けた。
視界が、見慣れた寮の自室――の風景ではなく、真っ白なベッドのシーツで埋め尽くされていた。慌てて身体を起こす。
「起きましたかあ、アオイさん」
横から間伸びした声が聞こえてくる。
ぱたん、と音を立てて、ジニア先生が読んでいたであろう本を閉じた。
「ジニアせんせい」
「具合はどうですかあ?」
大きな手がわたしのおでこに触れた。胸の奥が熱くなって、心臓が飛び跳ねた。こうやってジニア先生に触れられたのは初めてだったから。
わたしはどうして医務室にいるんだろう。そもそもベッドで寝ていた理由がわからない。倒れたのかもしれないけれど、記憶にない。確かに身体は重だるい。少しめまいもする。ジニア先生の手が温かい。ほんのり甘いなにかの匂いがする。
ぐるぐると思考を巡らせているわたしを見て、ジニア先生はいつもののほほんとした微笑みを浮かべていた。
「なにが起きたのかわからない、って顔ですねえ」
先ほどまで座っていた椅子に座り直したジニア先生が「いちから説明しますねえ」と話し始めた。
「アオイさんはグラウンドで倒れていました。通りかかったキハダ先生によって、医務室に運ばれたんです」
「グラウンドで…………あ」
「思い出しましたか?」
「……はい……」
「それはよかった」
ジニア先生の指が眼鏡のつるに触れた。
それはあまり機嫌の良くないときにする仕草だって、最近知った。
「ボチに生気を吸われすぎると最悪死んでしまうこともあるって、チャンピオンランクのアオイさんなら当然知っていますよね」
何も言わずに頷く。
「生物学の期末テスト、満点でしたもんねえ」と話すジニア先生の声はいつもより低い。こんなにわかりやすく怒っているところを見るのは、初めてだった。
わたしが黒い結晶のテラスタルポケモンにひとりで挑んだことを事後報告したときでも、いつもの口調で小言を言われただけだ。
「倒れているところを偶然見つけられたのも、そのあと迅速な処置を施せたのも、アカデミー内だったからです。もしこれがテーブルシティの外だったなら、自分がどうなっていたか、わかりますよね?」
今日のジニア先生はちがう。本気で怒っている。
「……ごめんなさい……」
「…………」
「っごめ、んなさ、い……」
先生の言っていることは至極真っ当で、謝ることしかできなかった。泣くのは間違っているってわかっていても、涙が溢れた。
「――……いえ、ぼくも言い過ぎました」
ジニア先生の手が背中をゆっくりと撫でた。
その優しさや温かさで、余計に涙が溢れ出す。
「つらい経験をしてしまったきみを、もっと気遣うべきでした」
チャンピオンランクになってすぐのことだ。
わたしは、とあるポケモンを亡くした。
人懐っこくて、かわいいこいぬポケモンだった。ただ、他の子たちよりすこし身体が弱かった。
ある日、身体の弱いその子は風邪をこじらせてしまった。
必死に看病したけれど、もうできることはない、とミモザ先生にもポケモンセンターのひとにも言われて、最期はコサジタウンの自宅で看取った。家の庭に埋めて、お墓も建てた。
わたしは、それはもうたくさん泣いた。お母さんももらい泣きしていた。駆けつけてくれたネモも泣いていた。
最近は、「あの子が心配するから泣いてばかりいたらダメだ」なんて立ち直った気でいたのだけれど、あの子が私の周りを元気に走り回っていた姿と、たまたまグラウンドにいたボチが重なってしまった。
もしかしたら、あの子が帰ってきてくれたのかもしれない、なんて思って。そんなことあるはずないのに。
「ダメだって、わかってたけど、わたしっ……」
「――よしよし。大丈夫ですよお、落ち着いて」
ゆっくりと抱き寄せられて、背中をあやすように撫でられる。ジニア先生の腕の中は、手のひらと同じくらい温かくて、甘い匂いがした。
「ぼくはアオイさんの担任の先生だから、さっきはたくさん怒ってしまったけれど、きみのことが大切だからってことは、わかってくれますね?」
「はい……」
「はあい。それならオッケーです。でも、ボチをはじめとしたゴーストポケモンと遊ぶのは、ほどほどにしてくださいねえ」
「う……はい……気をつけます」
「かわいいから遊んであげたくなる気持ちも、すごくわかりますよお。昔、ぼくも何度倒れたことか」
先生はからからと笑った。まだ背中は撫で続けてくれている。
「でもね、アオイさんが今日みたいに倒れたら、ぼくはすごーく悲しいってこと、覚えておいてくださいね」
そう言う先生は、見たことがないくらい真剣な表情をしていた。
けれどすぐにいつもの柔和な笑顔に戻って、わたしの頭をぽんぽんと撫でてから離れていった。
「……ジニア先生」
「はあい?」
「わたし、もう、先生を悲しませるようなことはぜったいにしません」
六角形の奇抜なメガネの向こう側にある瞳をジッと見つめる。灰色の瞳がゆらりと揺れた。
「はあい。約束ですよ」
ジニア先生が目を細めて微笑んだ。
こういうとき、大人だなぁって。ずるいなっておもう。
でも、ジニア先生のそういうところが、わたしは。
(いいなぁ、とても)
これが、純粋な憧れなのかもっと別の好意なのか。どういった類の気持なのかは、まだわからないけれど。芽生えたばかりの気持ちを、胸に秘めて。
ややあって医務室に戻ってきたミモザ先生にも、わたしはこっ酷く叱られた。
もうこの話はクラベル先生の耳にまで入っており、お説教に来るのは時間の問題だと言う。甲高い靴音が廊下から聞こえてくる気がした。
お説教の波状攻撃に震えるわたしを見て、ジニア先生はずっと困ったように笑っていた。