ロマンスなんて似合わない「カドック! ご飯食べよ」
ノックの返事も待たずに部屋に飛び込んでくる悪癖は、何度注意しても直らないからとうに諦めた。
レポートに集中して気付かなかったが、いつの間にか夕飯時になっていた。こうして彼が声をかけなければカドックは夕飯時を逃していただろう。逃したとしても後でインスタントでも食べれば事足りるのだが、そう言うと目に見えて肩を落とされたので仕方なく付き合っている。
「ああ、今行く」
返事をして端末をスリープした。
カルデアの廊下を並んで歩く。藤丸は食堂までの道すがらも黙っていない。一度は殺し合った仲だなんて忘れているかのように、今日あった話や疑問に思ったことをあれこれと話しかけてくる。十代後半の青年に使う比喩として適切かは分からないが、よく懐いた仔犬のようだ。
人理修復を成し遂げた英雄は、魔術師としての素養など何もない男だった。そんな大それたことを成し遂げるのはキリシュタリアのような魔術師だろうと想像していたが、彼はこの一見何の取り柄もないように見える一般人に負けたのだ。
「カドック、それだけ?」
「満腹になったら眠くなるだろ。まだ終わってないんだ」
唐揚げ定食、ライスとキャベツは大盛りで。藤丸は元気良くタマモキャットに声をかける。その後に並んだカドックが頼んだのはコーヒーとサンドイッチで、夕食というにはそぐわない量だ。
彼女は特段何も言わずにそれらを準備してくれた。
「いただきまーす!」
山のように盛られたライスに箸をつける藤丸の向かいに座りながらカドックもサンドイッチをもそもそと食べて、コーヒーで口の中を湿らせる。
藤丸にはああ言ったが、流石にこれだけでは少なかったかもしれない。夜中にこっそり夜食を食べる羽目になりそうだと思っていると、ふいに目の前に唐揚げが差し出されーー
「あげる」
「むぐ」
口に突っ込まれた。くれるならくれるで皿の端にでも置いてくれれば良いのに、と言いたいが唐揚げに口内を占領されているのでもぐもぐと口を動かすことしかできない。
カドックも嫌いではないので一つくらいなら有り難く頂いておく。
「お前、何でまだついて来てるんだよ」
夕飯だけは付き合ってやったが、それ以上を了承した覚えはない。部屋の中まで入ってきて、我が物顔でベッドに腰掛けた藤丸にため息をついた。
「だってカドックともっと話したいんだもん」
「だから、レポートが」
「それ、来週に出せば良いやつじゃん」
不服そうな藤丸の声を無視してタブレットのスイッチを入れた。今は問題ないが、またいつ突発的なトラブルに見舞われるか分からないのだ。早めに進めておけばおくほど良いに決まっている。
藤丸は諦めたのか、勝手にカドックのベッドでゴロゴロしている。無視するが勝ちだとばかりにカドックも彼に背を向けキーボードを取り出した。
座ろうと椅子を引く直前。
「カドック、」
「ひゃっ、あ……お前な!」
突然背後から脇腹に触れられたせいで変な声が出てしまった。照れ隠しに睨みつけようと振り向いたら、思いの外顔が近くて硬直する。
「カドック、好きだよ」
「っ……」
これでも勘は良い方だ。
藤丸が惜しげもなく差し出してくる好意だとか尊敬みたいなキラキラした感情の中にドロドロした欲が混ざっていることなど、とっくに気付いていた。
「ぅわっ」
背後から伸びてきた手に後ろへ引かれた。並んだだけでは分かりにくいが、実はカドックよりも藤丸の方が体格が良かった。引き倒されるようにして抱き込まれたら魔術でも使わない限り逃れるのは難しい。
熱い。見た目以上に筋肉質なせいか藤丸の体温は高かった。バランスを崩したまま、自分の事が好きだという男に抱きすくめられている。身の危険とか、貞操の危機とか、そういうものの気配がのしかかってくるというのに身体がうまく動かない。
すん、と首筋を嗅がれた。まるで獣が獲物を見定めるように。
前に回った手が胸元に触れ、服越しにゆっくりと降りていく。必然的に拘束は緩み、逃げようと思えば簡単にそうできるようになったはずなのにカドックの脚は萎えたように言うことを聞かず、藤丸に寄りかったままその指先を甘受してしまう。彼が触れた軌跡全て皮膚が粟立って、臍の辺りで留まった手を引き剥がそうとする手が止まる。
耳の中が煩い。自分の心音なのか相手の鼓動なのか判らないさざめきで脳内が満たされて訳が分からなくなる。ひく、と声にならない声が喉の奥から絞り出されるだけ。
「ぶたないんだ」
「っ、あ……」
密やかに耳元をくすぐる声と吐息。頭が揺れるようだ。
捕虜の自分が唯一無二の人類最後のマスターに危害を加えることなどできるはずがない。調子に乗るな。その程度の憎まれ口は普段のカドックなら間違いなく言っていた。それ以前に、藤丸に指摘されるまでそんな考えが浮かばなかった自分に愕然とする。
不埒な腕から解放されて、自分のベッドに座らされた。藤丸が屈めば青空のような瞳が近付いてくる。
ーーキスされてしまう。
反射的に固く目を閉じて身構えた。しかし予想していた感触はいつまで経っても降ってこない。恐る恐る目を開けると、藤丸はカドックが目を瞑った時のままの体勢で、ただ微笑んでいた。
「……ごめん。驚かせて」
嫌な顔だ。本当の感情を覆い隠すための空っぽな作り笑顔。
忘れて。と言い残して藤丸はカドックの部屋から出て行った。
「クソッ、何なんだ……」
それからたっぷり十分経って、ようやく頭を抱えて悪態をつけるまで回復した。まだ心臓は煩いくらいに鳴っている。カドックはまだベッドに座り込んだまま先ほどの熱を、耳をくすぐった吐息を、空っぽな笑顔を反芻していた。
告白を断られた女性職員は寂しげに笑ってから背を向けた。他人の好意を拒絶するということはそれなりにストレスで、毎回精神が擦り減るようだ。部屋に戻ってコーヒーでも飲もうと踵を返すと、いつの間にかベリルが壁にもたれながらニヤニヤ笑っていた。
「モテる男は辛いねぇ」
「やめろ」
冷やかされて思いっきりしかめ面を返す。
錚々たるAチームの中では凡人に毛が生えたようなものだが、それがかえってスタッフ達からは話しやすいととられたのだろう。男女問わず粉をかけられることが多かった。魔術師にとって恋愛も結婚も次世代に魔術回路を引き継ぐためのものだが、そうでない彼らは関係なく好意を寄せてくる。
ーー今の僕には恋愛にうつつを抜かす暇はない。だから、あいつに好きだと言われても同じように返事すれば良かった。
そもそも、奴がこちらに向ける感情は分かりやすかった。うまく躱すことくらい、できていたはずだろう。自問自答すればするほど、その奥にある答えが直視に耐えないもので、カドックはまた呻いた。
「いや、そんなわけ……」
頭を振って物思いから浮かび上がれば昼食の提供が終わる間際だった。いつもならとっくに藤丸が迎えに来ている時間だ。今日に限って声がかからなかった意味など一つしか考えられない。
「くそっ…」
舌打ちしながら部屋から出る。食堂に着けば食べている者はもうまばらになっていた。メニューもほとんど売り切れで、辛うじて残っていた定食を持ってテーブルにつく。同じメニューを持ったシオンが親しげに声をかけてきた。彼女も出遅れたらしい。
「おや、珍しいですね。喧嘩でもしましたか?」
「……別に」
誰と、など聞かなくても分かる。周りから見ても藤丸の懐きようは明らかだった。一緒に居ないことで逆に目立っている。居心地が悪い。シオンはそれ以上この件に関して深掘りせず、当たり障りのない世間話をして去っていった。
定食には普段選ばない苦手なものが入っていた。それもこれも、藤丸がいつものように声をかけてこないからだ。
八つ当たりじみた気持ちを抱えながら、つい藤丸の部屋に足が向かっていた。ノックして相手の返事も聞かずに突入する。鍵をかけていない方が悪い。
藤丸は服を着たままベッドに寝転んでいたらしい。上半身だけを起こして、闖入者を丸い目で見つめている。
「カドック……?」
「っ……チッ、お前な、急に態度変えるなよ」
どうして来たのかと言わんばかりの視線が神経を逆撫でする。今まで煩いほどにまとわりついて来たくせに。わざわざ藤丸の部屋まで足を運んだ理由を自分でも明確に言語化できないのにもまた苛立ってとりあえず文句を口にした。
「ごめん。でもオレに話しかけられるの、嫌でしょ」
藤丸は困ったように苦笑した。何もかも諦めた空っぽの笑顔で。常識的に考えれば当然の遠慮なのかもしれない。でも、その遠慮が無性に腹立たしい。
「嫌だなんて、いつ言った」
「カドック、帰って」
珍しく人の言葉を遮った藤丸の言葉に逆らって一歩彼に近付く。「帰ってってば」仕方なく藤丸は立ち上がってカドックを物理的に追い出しにかかった。しかし簡単には動いてやらない。
「まだ何も言っていないだろ」
「やだ、聞きたくない!」
ドア方向へ引っ張る藤丸と踏ん張って部屋に留まろうとするカドック。まるで子供の喧嘩のようなやり取りがしばらく続き、しばし睨み合うような間が落ちた。
「いつもは勝手に僕の部屋へ入ってくるくせに、何でお前の言うことなんて聞いてやらなきゃならないんだ」
「オレ、カドックのこと好きなんだよ? ……こういう意味で」
藤丸が急に肩を押してきたので、カドックは軽くよろけた。壁に背中がぶつかる。ほぼ同じ位置にある青の瞳には獰猛な苛立ちが浮かんでいた。
青空のようなそれが近付いてくる。今度は目を閉じない。目を逸らしたら負けだと言わんばかりにカドックは藤丸を睨みつけていた。
「んっ……」
ついに唇同士が触れ合う。少しかさついていて、熱いそれに嫌悪感は抱かなかった。
唇を合わせたまま、藤丸の視線は困惑を湛えている。肩を押さえていた手が緩んだかと思えば腰に回され、もう一度唇を重ねられた。角度を変えて、まるで何かを確かめるかのように啄むキスを繰り返す。
「どうして……」
明らかな戸惑いに揺れる瞳を見返す。どうしてこんなことを藤丸に許しているのか。自分でもその問いの答えを持ち合わせていなくて黙り込む。腰から腹回りを撫でる指がくすぐったくて戦慄いた瞬間、緩んだ唇に舌が侵入してきた。
「ふぁっ、ん……」
唇だけならともかく、他人と粘膜接触なんて気持ち悪い。世の恋人達がしている営みに対してカドックは冷めた見方をしていた。だが、実際はどうだろう。ぴちゃぴちゃ、くちゅくちゅと音を立てて口粘膜を擽られると肩が跳ねてしまう。藤丸にキスを、それも深く全てを探られるような真似をされているというのに、嫌悪感なんてどこかに飛んでいってしまっている。
歯列を舐められる感触が居た堪れなくてたい目を閉じた。カドックの口内を全て舐め上げようとするかの如く頬の内側や舌下など、普段は自分でも意識しない場所まで探られる。
頭蓋の中でお互いの唾液が混ざる水音が響いて、頭がおかしくなりそうになって慌てて薄目を開けた。
「んっ、ん、はぁ……っ、ん……」
平時は穏やかな青空のような瞳が狂暴な欲で満ちている。このままでは喰われてしまうと本能が警鐘を鳴らす。早く藤丸を突き飛ばして逃げないと取り返しがつかなくなるというのは分かっているのに、どうしてこんなに従順に口を開いているのか、自分で自分が理解できない。
耳の中がざぁざぁと音を立てている。バイタル異常を疑うほどの速さで頭の中を血が巡っている音だ。己の鼓動が煩いくらいなのに、男がカドックの唾液を嚥下するこくりという小さな音は何故かよく響いた。
「ぁ……はぁ、はぁ……」
一度、息継ぎでもするように藤丸の舌が引いた。互いの舌同士が粘度の高い唾液で繋がっているのを見せつけられて居た堪れない気持ちになってそっと目を逸らした。
口元を拭った藤丸がカドックの荒れた唇を舐める。赤い舌はてらりと濡れ光り、無害極まりない子犬とばかり思っていた男が、本当は狼であることを如実に示していた。
何か悪質な魔術にでもかかったみたいに動けないまま、またカドックは藤丸の舌を受け入れる。
「ん……!?」
口蓋の凹凸に沿って撫でられた瞬間、ひくんと大きく身体が揺れた。だめだ、そこは、おかしくなる。カドックの弱い場所を見つけたのが嬉しいのか、男の広角が上がる気配がする。やめさせようと腕を突っ張るが、もう一度舐められて一気に力が抜けた。
馬鹿の一つ覚えのように執拗にそこを舐められて、だがそれはカドックにとっては効果覿面だった。
肩が跳ねるどころではなく、全身が震えて膝が笑う。崩れ落ちそうなのを堪えるために藤丸の服の裾を握ってみるがほとんど力が入らなくて、それに気が付いた藤丸に手を取られて指を絡められた。繋いだ両手を壁に縫い付けられれば、本当に喰らわれている気分になる。
こんな触れ合い、興味などなかった。ましてや藤丸とだなんて想像もしたくなかった。
「ふ、は……ぁっ、……」
だというのに、いつしかカドックは自ら藤丸に舌を差し出していた。蜂蜜のように蕩けるカドックの目を覗き込む藤丸の青も興奮で微かに潤んでいる。
藤丸はカドックにのし掛かるような形で壁へ押さえつけていた。だから彼の細かな筋肉の動きも体温も鼓動も、兆し始めている雄の象徴も全て感じてしまう。
舌を絡められて旨そうに吸われたり甘噛みされるのも、時折繋いだ手を強く握られるのも、全てが気持ちいい。まるで感覚器官が壊されてしまったかのように。
「ん、ふ、……は、ぁっ」
口の端から溢れた唾液が顎を伝っていく不快感はとっくに藤丸から与えられる快楽で置き換わっている。
「っ、んぁっ……」
とうとう脚の感覚も覚束なくなって、崩れ落ちてしまった。冷たいリノリウムの床がほてった身体を冷やしていく。カドックを追って藤丸も床に膝をついた。
執拗なキスで食べ頃にされた真っ赤な頬と唇はあまりにも無防備で、こくりと藤丸の喉が鳴る。胸板を辿る指先は明らかに色めいていてこの後の行為を予告しているようだった。
「ぁ……」
このまま自分は犯されるのだろうか。
見知った藤丸が、能天気な善性の男が全く別人のような気さえして、彼を初めて怖いと感じた。なのにカドックの全てがおかしくなっているのか、力なく首を横に振るだけの抵抗しかできない。指先が離れていく。そのままお互いしばらく見合っていた。何も言えない、動けない。
その膠着状態を破るように藤丸がくすりと笑った。かと思えばまるで子供でもあやすようなキスが額に降ってきた。
「……ねえ、口説いていい?」
「っ、バカ!」
藤丸が締まりのない顔で締まりのない言葉を発したことでようやく我に帰り、目の前の身体を押し退けた。意外にもあっさり彼は引いたので、カドックは這々の体で逃げ帰った。
「はぁ、はぁ……」
たかだか百メートル程度の距離を移動しただけなのに視界が回るほど疲労していた。どうにか自分の部屋に辿り着いてベッドに向かおうとするが、安心したせいかそのままへたり込んでしまった。まだ酸欠状態なのか、頭がぼうっとする。
「凄かった……」
あんなの、初めてだった。あの藤丸があんな風に人にキスするなんて知らなかったし、それを受け入れてしまう自分も知らなかった。
「あ……」
自分の指で唇を撫でると、熱を持って腫れぼったくなっていた。過敏になっているそこは、自分の指で触れただけでぴりぴりとした快楽を得てしまう。
先程までのキスを回想していたカドックは、己が発情しきった雌の顔をしていることをまだ自覚していなかった。