ローくんの夢日記ポーラータング号は深夜の海を潜航していた。
船長室の墨色の窓から、小さな常夜灯以外の照明を落とした暗い艦内に、窓より黒い、大きな影が入って来る。
影は部屋に設えられたベッドのそばに近寄り、眠る者を覗き込む。
影には名前があった。ドンキホーテ・ロシナンテ、またはコラソン。
コラソンはここ、船長室に眠る男・ローを大切に思う故人のひとりであった。
コラソンはいわゆる亡霊であるが、盆暮れ正月、クリスマスにローの誕生日、あとなんでもない夜にふらっとローのもとに現れて、寝顔を眺め、ちょっとした幸運や失せ物なんかを置いて行く。と言ってもローはあまり物を失くさないので、翌日好物にありつけるとか、停泊する島でかわいい犬を山ほど見られるだとかの小さなラッキーを置いて、夜が明ける前に去るのが常であった。
この夜もローの寝顔をひとしきり眺め、さて幸運を授けて帰るぞという段になって、ベッドの脇の小さなデスクに目が止まった。デスクの上には開いた状態の手帳と、ペンが置かれている。
手帳には日付と、航海日誌にしては短い文章が書かれていた。
◯月10日
艦内に巨大なサメがいた。腹を捌いたらシャチが出てきた。シャチのくせにサメに負けてるんじゃねえよと言ったら「違うんすよキャプテン!」と言い訳が始まった。サメは夕飯のスープに入れた。意外に美味かった。コラさんも気に入っていたようだった。
ごく自然に自分が登場したので、コラソンは訝った。
次に、心配した。ローが疲れすぎて普段から自分の幻覚でも見ているのではないかと思った。しかしその心配は次の日付の内容を読めば杞憂に変わった。
◯月11日
きのこ狩りに出かけた。なぜかクロコダイルも同行していた。こんな奴友達でもなんでもないのに。俺も麦わら屋に毒されてきたのかもしれない。
コラさんが青と緑の縞々模様のきのこを焼いていたので取り上げた。夢とはいえ、コラさんに変な物を食べさせるのは気が進まない。
どうやらこれは夢日記らしい。幻覚でも見ているのではないかという心配は杞憂に変わったが、別の心配が湧いてくる。
こういうのって書くの良くないんじゃなかったっけ。いつか読んだオカルト雑誌か何かに載っていた、あまり詳しく覚えてもいない内容を思い出す。
コラソンは今すぐローを揺り起こして、しっかりしろと言ってやりたい衝動に駆られたが、隈の黒黒とした目を閉じてぐっすり眠るローの顔を見ると起こすのは忍びないように思えて踏みとどまった。
しかし内容が気になる。ページをめくり、日付を遡った。亡霊の身だが、ページをめくるくらいはできる。
◯月3日
劇場のような場所に座っていると、コラさんが舞台袖からマイクの前に出てきた。一発ギャグを連続で披露していた。詳細は思い出せないが、本当に本当につまらなかった。客席を埋めていた観客も、声ひとつ立てなかった。
◯月5日
俺は、子供の頃の姿で、相撲部屋のような場所にいた。自分を見ると、痩せて白い体に少々不釣り合いなまわしを締めていた。相撲部屋の親方はコラさんで、おれはコラさんに相撲の極意を教わり、子供相撲大会で優勝した。
◯月8日
コラさんがきゅうりを持って踊っていた。
かなりの頻度でコラソンがローの夢に登場している。
勝手に出して勝手にスベらせやがって……っていうか相撲?俺が教えるの?相撲を?
身に覚えのない自分がいっぱいの日記をめくっていくうちに、初めに開かれていたページに戻ってきた。
1番新しい日付は昨日のものだ。ローはよく夢を見るらしい。しっかり眠れているのかと心配になった。
◯月15日
コラさんが俺のベッドに裸で横たわっていた。自分の腰や胸を撫でまわし、誘うように見つめてくるから、生唾を飲み込んで、やけに重い足で近づいた。その時、後ろの、部屋の入り口からコラさんの声がした。
「ロー!行くな!騙されちゃダメだ!」と言っていた。
後ろを振り向くと、目が覚めてしまった。直前に、ちゃんと着衣したコラさんが立っているのを見た気がする。
目が覚めてから、胸騒ぎがしたので、自分の体をスキャンするとごくごく初期の胃がんが見つかった。転移もなかったので病変部を切除して事なきを得た。
裸のコラさんの誘惑に負けていたら俺は知らず病の進行を許していたかもしれない。きっとコラさんの魂が助けに来てくれたのだろう。
なんだ裸のコラさんの誘惑って。というか全然身に覚えがない。ただのちょっとエッチな夢だぞロー。俺のエッチな夢?なんで俺のエッチな夢見てんの?
コラソンは困惑した。
そして、こんなものをつけているから変な夢を見るのだと思い至った。うん、忘れた方がいいだろう、こんな夢たちは。
コラソンはローの夢日記を処分することにした。日記を持って顔を上げると、暗闇に光る2つの目と、目が合った。
ローは起きていた。コラソンがページをめくり出したあたりから、コラソンを見つめていた。
ローは日記を持ち去らんとするコラソンの腕を掴んだ。
掴まれた事にびっくりし、後ろに飛びのこうとして、転倒しかけたコラソンを、ローの腕がしっかり支えた。
「なんで掴めるんだ?おれ幽霊なのに」
「夢だからだろ」ローは夢の中だと思っているようだ。
「あっ、お前覇気使ってるな!幽霊って自然と同じ扱い?」
ローの腕は黒く武装色の覇気を纏っている。
新発見。おばけは覇気で掴めるらしい。
ローの返事はなく、コラソンの腕を掴んだまま、懐を探り、小さなスノードームを取り出した。中で小さなシロクマが立ち上がって吼えている。
「どうしたスノードームなんか出して」
「その日記をつけ始めてから持ち歩いてる」
と、コラソンの持つ日記を顎で指す。
ローの手でスノードームが振られて、中の雪が舞い、吹雪のようにシロクマを包んだ。
「夢ならずっと雪が落ちない」
スノードームを使って夢と現実を判別しているのだとローは言った。
スノードームの中の猛吹雪は次第に落ち着いて、とうとう全部の雪が下に落ちた。
ローはスノードームをデスクに置くと、コラソンの腕を放し、立ち上がる。
部屋の収納を漁り、小さな皿4枚と袋に入った白い粉を取り出した。
小皿に少量ずつ盛っていく。
ローは粉を盛った小皿を「これが夢でも覚めない夢にする」と呟きながら部屋の四隅に置いて行った。
コラソンには何がなんだかさっぱりわからない。
「ロー、お前何してるんだ」
「『盛り塩』って言って……ワノ国の連中に教わったんだが、霊を入れないようにしたり、閉じ込めたりできる結界のようなものだ」
白い粉は塩だった。
「俺閉じ込められたの」
「ああ、閉じ込めた」
満足気に微笑んだローがベッドに戻る。
コラソンから日記を取り上げて、毛布を持ち上げる。
「一緒に寝てくれ。あんたがいないとまともに寝られない」
確かに、まともに寝られていない……とコラソンは取り上げられた日記の中身を思った。
安眠に長けた静寂の悪魔は、コラソンが死んだ時にとっくに去っている。
「閉じ込められたんじゃしょうがねえな」
コラソンはローのベッドに入り、コートを脱いで自分とローにかけた。