尾形百之助は余程のことがないと動揺しない。常に冷静を意識するのは、一流狙撃手だった前世に起因しているのかもしれない。感情を表に出さず、考えを読ませず、場の空気を瞬時に理解する。このスキルは令和になった今世において、飲み会でも遺憾なく発揮されてきた。きょうもそのはずだった。五月上旬、ゴールデンウィーク明け。取引先の××商事は毎年この時期、担当課の新入社員を紹介する目的の会食をセッティングする。
「新しく配属されました、鯉登音之進です。よろしくお願い致します」
尾形はぱちりと一度だけ瞬きをした。褐色の肌に切れ長の瞳、整った鼻梁が生意気で、藍掛かって少し跳ねた毛先があどけない。見間違いでも聞き間違いでもない。差し出された名刺には、しっかりその名が記されている。
「こい、と……」
呼吸すら忘れていたから、反芻した声は小さく引き攣れてしまった。尾形は百年以上前の記憶を持っている。所々欠けてはいるが、夢や妄想で片付けるにはあまりにもリアルで生々しく、その時の感情すら思い起こせるほどだった。鶴見中尉や不死身の杉元、清廉潔白な勇作とアシㇼパ。誰にも会わないまま二十七年生きてきた。これはそんな中での、突然のエンカウントだった。
「あの、何か……?」
少し高い位置から降ってきた声で、尾形はようやく我に返った。わずかに緊張を帯びた顔は、記憶よりも幼いような気がした。
「……・尾形です」
無愛想に返すと、鯉登は当惑したように眉を下げた。その仕草を見て、尾形は少しだけ安堵する。明治時代の鯉登音之進はとにかく尾形を嫌っていた。ひたすらに生意気なクソガキだった。目の前の彼はどうだろう。初々しさの塊だ。少なくともその双眸には、驚愕も嫌悪も浮かんでいない。尾形は「すみません」と頭を下げた。
「鯉登さんが知人に瓜二つだったもので、つい驚いてしまい」
そのままゆっくりと口角をつり上げて、人の良い笑みを作る。鯉登も安心したように「ああ、そうでしたか」と表情を緩めた。
「何か粗相をしてしまったわけではなくて良かったです」
「鯉登くんはきのうから本配属されたばかりで、まだ名刺もろくに渡したことがないんですよ」
そうだよね、と鯉登の上司が促した。鯉登は照れた様子で、「はい」と頷く。
「社外の方にご挨拶したのは、実は尾形さんが初めてです」
「それは光栄です」
尾形は目尻を下げて微笑んだ。百年前と同じ姿かたちをしているとはいえ、自分のように記憶を持ち合わせているとは限らない。普段通り猫を被ってやり過ごそう。
そう決めた二時間半後。尾形は心の中で舌打ちをしていた。最悪だった。笑みを貼りつけた頬の筋肉が攣りそうだった。
「鯉登くん強いねえ~! さすが九州男児!」
「ほら飲んで飲んで!」
男たちの手拍子に合わせて、鯉登がグラスを大きく傾ける。喉仏が上下するさまに、鯉登と尾形の上司はゲラゲラと大笑いした。鯉登の端正な顔にもさすがに赤味こそ差しているが、涼しい表情に酔いは見受けられない。それが面白いらしくて、彼らは鯉登にもっと酒を飲ませる。彼の一気飲みを肴に酒が進んでしまうおっさん連中は、どんどんベロベロになっていく。とんでもない悪循環だ。
「名家の生まれでイケメン、酒も強いなんて王子様みたいだね!」
「いやー今時こんなに飲んでくれる若者はいませんよ。羨ましい限りです」
なあ尾形、と赤ら顔の上司に振られて、尾形は「ええ本当に」と微笑した。その傍らで、鯉登がまた新たなグラスを持たされていた。この二時間半で鯉登がまともな扱いをされたのは、最初の三十分だけだった。あとの二時間は、ただひたすらに酒を飲んでいる。よくやるぜ。内心で嘲笑する。そのとき、鯉登がゆっくりと立ち上がった。
「すみません、お手洗いに行ってきます」
小さく頭を下げて、店の奥に消えていく。尾形はなんとなくその後ろ姿を眺めていた。背筋をしゃんと伸ばすさまには、気品すら漂っている。あんなに飲まされて大したもんだな、と思ったときだった。
「……」
一瞬、彼の足取りがもつれた。壁に肩がぶつかって、ドンと鈍い音を立てる。崩れた体勢はすぐに立て直された。だがもう、体の軸はぶれていた。さすがに酔いが回っていたようだった。そこまで見届けたところで、尾形の関心は途切れた。はずだった。