珊瑚の死骸 産卵している。珊瑚の海だ。
私はエメラルドグリーンの海の中にいて、陽光が透明な帯のように差し込むのを見ながら産卵している。全身の毛穴の一部が膨張し、収縮し、膿のように白い卵を産む。
それは水の中に放たれていく。
海はひどく静かだ。波の音はきっと海の中では聞こえない。あれは海の外にいるものが聞くのだろう。海の中にいるものには聞こえない。
毛穴が開いているというのに私には痛みはない。不思議と気味の悪い感覚もなかった。ただ私は珊瑚とともに産卵しているのだ。それだけのこと。
白く、ところどころにいびつな丸が漂っている。私はその中で身を横たえている。
ああ、このまま私は海の一部になるのか。
そんなことを考えていると私の腕を誰かが引いた。
「なあに」
誰だろう。藻だろうか。でもこの指のある形は人間のものだ。
「主、帰ろう」
音のなかった海の中であの人の声が聞こえる。いや、正確には人ではない。彼らは刀だ。
「……ささ、ぬき」
「そうだよ。さあ、こっちに来て」
どうして今まで呼吸ができていたのだろうか。どうして今まで卵を産むことを不思議に思わなかったのだろうか。急激に自分が今置かれている状況がおかしなものに思われる。
「あ、がぼ」
笹貫は私の口に何かを嵌める。そこから息ができるようになった。
「こっちだよ、こっち」
私は笹貫の手に引かれて海の中を泳ぐ。笹貫は海の中を歩いている。水面が近づいている。どうしてだろう、私の住むところはあそこにあるのに、水面から出るのが少し怖い。
「大丈夫。安心して、元居た場所に戻るだけだから」
私の元居た場所。それはどこだろう。笹貫が手を引いているから、きっとここではないのだろうけれど。
「笹貫」
「安心して、主。オレは主の刀。たとえ海にいても主の道を照らすよ」
彼がそう言うと笹貫の体がほんのわずかに燐光した。それは淡い黄色の光で、海に差す白い陽光とは異なってひどく暖かく思えた。
(ああ、私は冷えていたのか。ずっと、ひどく)
体の力が抜けていく。笹貫は相変わらず私の腕を引き、歩いていく。水面はどんどん近づいていき、そのうち体が砂についた。
「笹貫、怖いよ」
「大丈夫だよ。オレを信じて?」
この海の中から出てしまったら私はどこに行くのだろう。笹貫は私をどこに連れていくのだろう。未知の世界に踏み出す勇気は私にはなく、そっと泳ぐのをやめる。
「それじゃあ主、少し抱えるよ」
「笹貫、だめ」
「だめっていってもだーめ。いつまでもここにいるべきじゃないからね」
「笹貫、怖いよ」
「大丈夫。ほら、目をつぶって」
笹貫の言うとおりに目をつぶった。途端に私の体は引き上げられる。
「良い子。ほら、地上だ」
ざばりと音がする。
そこで私の目は覚めた。
私室の天井だと気付くのにしばらく時間がかかった。そばを見ると笹貫が私の手を握ってこちらを見ている。
「おはよう、主。気分はど?」
しばらくそれにこたえられなかった。今自分がどんな気分なのかわからなかった。
ただ、海に揺蕩う夢を見ていて、私は珊瑚だった。
珊瑚とともに産卵していた。
「まあ、すぐに答えられなくても仕方ないか。主、簡潔に言うと主は夢に取り込まれそうになっていたんだよ」
「夢……」
「おそらく原因は南の海に行ったこと。それは覚えてる?」
ああ、そうだ。南の海へと旅行をした。久しぶりの休暇だったから、どこか遠くへ行きたくて、たまたまネットの広告で見た南の海に行くことにしたのだ。
「覚えて、る」
「そこで何があったかは?」
それははっきり思い出せる。私は珊瑚の死骸を踏んだのだ。
「砂浜に、いくつもの白い欠片が転がっていて、これは何ですかって地元の人に聞いたの」
それは珊瑚の死骸だよと返ってきた。
「私、自分が今まで踏んでいたものが何かの死骸だなんて思わなくて。海にダイビングした時はあんなにも色鮮やかに咲いていた珊瑚が死骸になると白く硬くなってしまうのが信じられなくて」
遺骨のようだと思った。火にくべられた人の指の骨のような。違うのはすかすかに穴が開いていたこと。
「怖くなって、でもそのままにもしておけなくて、一つだけ持って帰ったの」
「なるほどね。それはどこにある?」
「文机の右の一番上の引き出しに」
「見てもいい?」
「うん」
笹貫は私の手を離して立ち上がると文机の近くに行く。途端に胸がざわざわした。
「笹貫、それをどうするの」
「埋葬するんだ。海に返そう」
「だめよ、南の海でなければだめ」
「でも行っている時間がある?」
「なくてもだめ、お願い、笹貫」
帰ろうとしている。皆の死骸が転がるあの砂浜へ。そうして自然の循環の一部となって、命が尽きてなお自分の役割を果たそうとしている。
「それじゃあオレもつれていってよ」
「でも……」
「一人じゃ行かせられない」
「どうして?」
「主がまた連れていかれてしまうから」
「それは……」
「主」
笹貫が言葉を区切り、私のそばに寄る。そうして私の頭をゆっくりと彼の口元に寄せると、「オレは執念深いよ」と囁く。
それはまるで睦言のようで、場もわきまえず私は赤面した。
「だから、俺も行く」