花見で一服陽が沈む前は鮮やかだった空が少しずつ色を失っていく。
その過程を見るともなしに空を見上げていると、今が盛りの桜が目に入る。
視界いっぱいを埋め尽くすそれらはまるで星のようで、時折ひらひらと去り行く様が空からこぼれる流れ星みたいだなあと思う。ひとひら、またひとひらとぼんやり見送りながら、煙をひとくさり吐き出した。
桜は本丸の中にあちこちあるけど、私はこの場所が好きだ。
本丸の外れ、居住棟から離れた本丸の端っこに、前任者の趣味なのか、簡素な茶室を備えた小さな小屋が建っている。
通称「西の屋」のあるこの一帯は、野点でもするつもりで切り拓いたのかちょっとした公園くらいの広場になっていて、そこを覆うかのように樹齢半世紀は過ぎていそうな高くて太い桜の老木が枝を広げているのだ。
桜のトンネルはそこだけでなくさらに先へ続いていて、行き止まりは竹垣、その向こうは川になっている。ここの見晴らしがすこぶる良い。対岸にもこちらと同じように桜が咲いていて、しかもそちらは川沿いに並木となって続いている。
でも、それは立体映像みたいなもんで、実際にあっち側には行けない。そこにあるように見えはするけど、垣根の外はそもそも次元が違うので行くことはできない。文字通り、彼岸なわけである。
それでもひんやりとした川風やさらさらと鳴る水音、時折聞こえる水鳥の声なんかは偽物とは思えないので、きっとどこかの次元と繋がってるんじゃないかと思う。行き来ができないだけで、この世界のどこかと繋がっている。その方が、なんとなく夢があるなあと。
「やはりここか」
不意に声がかかり、背後を振り返れば、川風にストールをはためかせた山姥切長義が立っていた。
「あら、見つかっちゃったか」
「煙草は喫煙所で吸えと言っているだろう」
「ここの方がお花見できて綺麗なんだもん。魔除けにもなるしさ」
本丸の外れは綻びが出やすいので、刀たちにも内番のついでに見回りを頼んではいる。けど、やはり結界の強化は審神者自ら出向いた方が効率が良い。といっても、私は術式方面はからきし、大したことはできないので、雑霊が寄り付かない香入りタバコの煙で補強してる程度だけど。
結界の重要性は、かつて政府にいた彼の方が理解しているだろう。でも、彼は私が自ら本丸の端っこに向かうことにあまり肯定的ではない。
「黄昏時に境界に近づくものではないよ。おかしなものを呼び寄せたらどうする」
「呼び寄せないようにここ来てんだけどね。でもまあ、その時は長義くんが変なのをバッサリしてくれるっしょ?」
「信頼が厚いのは嬉しいが、来たのが俺でなかったらどうするつもりだったのかな?」
「ここ来るメンツは限られてるからなあ。就業時間中ならまだしも、わざわざフリーの時間にまで呼びに来てくれるのは長義くんくらいだよ」
長義くんはちょっと気まずそうな顔をした。物言いたげな感じだったけど結局何も言わず、代わりに羽織っていたストール放って寄越す。
「着ろ。風邪を引く」
「寒くない」
「陽が沈むと一気に気温が下がる。水辺は特にね」
そう言う彼の方が生腕を曝しているのだけど、一応こちらを思い遣ってくれての言葉なので、素直に受け取ることにした。涼しげなノートの香水が染みたストールは、軽そうな見た目に反してしっとりと重い。それに包まれて「温かい」と安堵する辺り、実はけっこう冷えていたのかもしれない。
「桜、綺麗だね」
「ああ」
「いくら見てても飽きないんだけど、上ばっか見てて首が痛くなっちゃった」
「それなら、良い見方がある」
そう言うと、彼は桜の根元に腰掛け、ばたりと仰向けに地面に転がった。
驚いた。好んで地面に座りたがるタイプには見えない。「装束が汚れる」って嫌がりそうなのに、まして寝転がるなんて。
「猫殺しくんがこうやって花見をしていてね。引っ張り倒されたからつきあってやったら、思いの外楽しめたから」
「へえ」
仲良いんだよな、うちの山猫。銀猫と金猫はギャイギャイ騒ぎながらも大体一緒にいる。
でも確かに、上を見るのに仰向けになるのは効率が良いかも。倣ってやってみるかと腰かけようとしたところで「待て」が入った。
なんと、自分の上着を脱いで地面に広げている。えっ、まさか……と思ったそのまさか、「どうぞ」と促された先は、その上着の上だったのだ。
「いやいやいやそんなわけには」
「俺がついていながら主の頭に毛虫や枯葉なんか絡ませて戻らせたら、初期刀殿がやかましいだろう」
……それは確かに。近侍の面目を潰すのは得策じゃない。んだけど、刀剣男士の装束ってどえらい高級品なんですよ。同じものをテイラーで誂えようとすると何十万とかかるんですよ。その上に「どうぞ」と惜しげなく座らせるなんて正気の沙汰ではないのよ。
とはいえ、勧められてそれを避けるのはもうひとつ失礼だ。あまりに高級すぎる敷物に恐縮しつつ、なるべく体重をかけないように腰を下ろす。と、「頭はこっちだ」って肩を引かれ、視界が揺れる。倒れた着地先は……なんと、彼の膝。
ポカンと見上げた先、さっき見えたお月様より綺麗な顔がこちらを見てうっすら微笑んでいた。
「これなら枯葉はつかないし背中も冷えないだろう?」
やっさし。咄嗟に口笛が出ちゃった。茶化されたと感じたのか、涼しげな眉がきゅっと顰められる。
「女人は冷えに気をつけろといつも言われているだろう。一服するだけとはいえ、上着も持たずに川辺に出てくるなんて」
「へえへえ」
昼間は汗ばむ陽気だから全然気にしなかったけど、日が落ちると確かに急に冷え込んでくる。遮るものの無い川辺は冷たい風がそのまま吹いてくるし、まあ確かにちょっと肌寒いかなーと思ったところで、この待遇。神かな? ……神様だったわ。
「豪華な枕だなあ」
「持てるものこそ、だよ」
上着持たざる者への施し、ありがたく頂戴しておくことにします。
風が吹く。ブルーモーメントの吸い込まれそうな空に、満点の白い花々が揺れ踊る。遅れてはらはらとこぼれる花びらが雪のようで、これが本当に雪ならこのまま埋まってしまうなあなんて呑気に見惚れていたら、長義くんがボソリと呟いた。
「桜も終わりか」
「あっという間だよね。ついさっき咲いたくらいなのに」
「もう五日は咲いてるよ。咲き始めに雨が降ったからゆっくり眺める時間は少なかったかもしれないが」
「今年もお花見しそびれたなー」
「していただろう? 毎日」
「執務室の窓から見えるだけってのは、わざわざ花見って言わないと思うよ」
それもそうか、とまた花を見上げる頬が透き通るよう。白磁の肌に、青みを増した空から降る光が照り返り、生身の体とは思えない透明感。靡く銀の髪がそれを薄衣のように包み隠して、風に遊ばれては顕にする様に、つい見惚れた。
「どうしたかな」
「いや、絶景だなあと。青い空に桜ってだけでも綺麗なのに、さらに美人まで視界に入るってなんて贅沢なのかなって。あまりに相性サイコー。ありがとう眼福の極み」
「……お褒めに与り光栄だよ。酒の入った正三位みたいな褒め口はどうかと思うが」
我ながらオヤジ臭い褒め方しちゃったと思ったら、正に思い浮かべた相手(ごめん)の名が出て笑ってしまう。具体的な名前が出るところから察するに、日本号さんにそんな口説かれ方をしたことがあるんだろうか。あるんだな。
ざあ、と音がして空の花々が一斉に揺れた。花びらが一斉に降り落ちてくる。
「風が出てきたな」
まだ明るい西の空へ顔を向け、そう呟いた彼の喉で、尖った喉仏が上下するのが見えた。吸い寄せられるように視線が滑らかな顎から首筋のラインに向かう。綺麗なのに、明らかに男のひとの形をしている。なんだか眩しくて、一瞬、目を閉じた。
「攫われそう」
その輪郭がふっと溶けて、夜の空気と混ざって消えてしまうような。いま目を開けたらもういなくなってるかもしれない。あり得ない。あり得ないけど、桜に魅入られたら或いは、なんて畏れが溢れて、つい口にしてしまった言葉だった。
なのに。
「へえ? 攫われたいのかな、貴方は」
ニヤリ、と。いっそ俗っぽく、男臭く笑った。だから、「君が攫われそう」とは言いそびれた。
たぶん、攫われても自力で帰ってくるな、この刀は。そういう、地に足のついた生き汚なさみたいなものがちゃんとある。
それは何年もかけてその体で生きてきたからこそ持ち得るものだと思う。出会った頃なら、ふらりといなくなってしまいそうな儚さもあったのに、今や泥まみれになろうがしぶとく戻ってきそうなふてぶてしさを身につけて、何なら自分を攫った怪異の首くらい引っ提げてきそうな物騒さも持ち合わせてる。
そういう刀だ、彼は。だから、ふらふら不安定な場所に置かれたこの本丸でも、安心して身を任せていられるんだけど。
風に煽られ、また花びらが舞う。そのうちのひとひらが、さらりと揺れる眩い銀髪に絡んだ。飛んでいきそうで行かない、ひらりひらりと揺れる淡い紅色に誘われて手を伸ばせば、絹糸のような髪が指先に触れる。
同時に、唇にも淡い熱が触れる。桜が見えなくなって、張り詰めた吐息が唇をなぞる。やわらかくて、温い。
ぼやけた焦点が、やがて合う。銀の睫毛がゆっくりと震え、その下から現れる青。それに釘付けになっていた私は、辺りが暗くなっていることにも気づかなかった。
了