その子のことを初めて見たのは、いつだっただろうか。たしかもうすぐ日が短くなるような季節、だっただろうか。入社当初はあったはずの情熱を忘れ去って随分経ってしまった仕事の帰りに、たまたま偶然通った道。どこからか聞こえて来る音に導かれて行ったそこで、僕は彼女に出会った。
その場所は、決してステージと呼べる場所ではなかった。それはただの道で、行われているのは所謂路上ライブというやつだった。スポットライトなんて上等な物はなく、あるのはチカチカと時おり喧しく明滅する街灯で、流れる音は専用の機材からではなく、ただの携帯機器。だというのに。
少女の透き通るような白磁の肌と、どこか闇を抱えたような影を感じさせる表情。きっと柔らかいのだろう桜色の唇から紡ぎ出される旋律は怖いほどに正確で、けれどひどく僕の心を揺さぶってくる。
もうすぐ夜の帳も下りようかという時間に、人の通りもそこまで多くはない路上で歌う少女。しかし僕は、何かを叩き付けるように、投げ捨てるように歌う彼女こそ地上に舞い降りた天使なのだと、そう確信した。
それから僕の生活は一変した。ただの偶然だったあの出会いをもう一度するために、毎日少女が歌っていた道を通り、彼女が歌うのを止めるまで聴いていく。少女は特に何かを言い残すでもなく、自身を売り込むでもなく、気が済むまで歌っては集まったギャラリーにペコリとお辞儀をしていつもどこかに歩き去っていった。
帰りがけに歌を聴く。言ってしまえばたったそれだけだが、それが僕の生きる糧となるのに時間は必要なく、同じことを繰り返すだけの日常で死んでいくだけだった僕の心は、彼女の歌を聴いた時だけ息ができる。そんな感じがした。
だから、今にしてみれば仕方なかったのだと思う。
僕は少女の歌で生きる希望を得た。僕は彼女に生かされている。なら、もっと彼女のことが知りたいと思うのは当然だろう。そう、当たり前のことなんだ。だから、僕がいつものように歌い終わって立ち去る彼女の後ろを一定の距離を開けて着いて行ってしまったのは、どうしようもなく当然のことだったのだ。
少女は指通りの良さそうな長い髪を、少し冷たく感じるようになった風に遊ばせながら本格的に暗くなってきた道を歩く。まだ学生であろう彼女が1人で歌っているのだから、もしかしたら誰か迎えに来ているのかもしれないと考えていたのだが、そんな様子はなく、スタスタと迷いなく歩を進めてたどり着いたのは僕とは縁遠い高級住宅街。そうして整然と建ち並ぶ邸宅と呼んでも差し支えないような住居の中のひとつに、少女は消えて行った。
あぁ、彼女と自分の間にはとてつもなく大きな溝がある。
埋めようのない差があるんだ。
そう思いはしたが、しかしそんな中でさえその音は確実に僕の耳に届き、再び乾き死にそうになった心を潤した。
「おかえりなさい、冬弥さん」
とうや。
それが、少女の名前だろうか。
出迎えられてそう呼ばれたのだから、そうなんだろう。
完全に声が聞こえなくなったのを確認し、その家の表札を確認する。
「あお、やぎ」
青柳とうや。トウヤ。
下の名前はどんな字を書くのだろうか。あぁでも、きっと綺麗な字なのだろう。名は体を表すのだから。
トウヤ。僕の天使の名前。やっと君をちゃんと呼べる。
*
トウヤと出会ってからそれなりに時が過ぎた。僕の日常には彼女がいて当たり前になり、気付けば路上で歌を聴くだけでは満足できずにこっそり撮った写真を携帯に保存するまでになっている。まぁ、それ自体は些事として。この数日間は僕にとってまさに地獄であった。というのも、仕事が俗に言う繁忙期を迎えてしまい、トウヤのいるあの場所に行けなかったのだ。
そのため僕は「早く会いに行きたい」と思いながら、携帯の中のトウヤを見つめて過ごす。それが限界だった。だが、だがしかし。それも昨日までの出来事。繁忙期は死にものぐるいで脱することができた。これもすべては彼女に会うため。今日からまた心置きなく聴きに行ける。そう僕は思って、足早に通い慣れたその道を歩いた。そこに、天使の姿を求めて。
でも。
「………えっ…」
そこに彼女の姿はなく、あるのはチカチカと瞬く古びた街灯のみ。まるで、立っている地面がガラガラと音を立てて瓦解していくような、頼りきっていた支柱を失ったような。そんな感覚を覚え、僕はフラフラとたたらを踏むようによろめいて、歩いている人にぶつかってしまった。生きる意味を見失ったばかりの今の僕にその衝撃に耐えられるほどの力はなく、そのまま地面に倒れ込む。痛みは感じなかった。
「……すみません! あの、大丈夫ですか?」
「ここで……」
「え?」
「ここで、歌っていた女の子……知りませんか」
転んでしまったことなど僕にはどうでもよくて、ただただ知りたいことを見ず知らずのその人に尋ねる。するとこの道をよく通るのだろうその人は、あぁ、と声を上げて答えた。
「冬弥ちゃんなら、最近は路上じゃなくてイベントに出てるよ。彰人くんと一緒に」
*
それは信じられない光景だった。いや、信じたくない、見たくない、と言った方が正しいだろうか。教えてもらった場所に行き、そうして見たものは光の下で1人美しく歌う天使ではなく、知らぬ男の隣で頬を赤らめ楽しげに歌う少女だった。
それを目の当たりにした瞬間。
何か、気持ちの悪い物が僕の胸の中で生まれる音がした。
誰だ。誰だ。誰だ誰だ誰だ。
その男は。一体誰なんだ。なんなんだ。彼女の。僕の天使のなんだっていうんだ。
どうしてそんな顔をしているんだ。あの光の中にいた君はどこに行ったんだ。美しかった君は。僕の天使は一体どこに行ってしまったんだ。
ダメだ。こんなの。認めていいはずがない。認められるはずがない。こんなの、僕が愛したトウヤじゃない。もっと、君はもっと美しかった。
「伝え……ないと」
本当の自分の姿というものを教えてあげないと。そして、取り戻さなければ。
そう強く感じた僕は、来た時とは違う力強い足取りでその場を後にした。
頭の中では、彼女にどうやって気持ちを、どういう姿が君の正しい姿なのかを伝えようかを考えながら。
「やっぱり、手紙かな」
なら、どんな便箋がいいだろうか。
そうだ、どんな姿がいいかを教えてあげるのだから、写真を付けてあげよう。その方がわかりやすい。可愛く綺麗に撮った物がたくさんあるから、中でも撮っておきの物を選ばなくては。
明日からまた忙しくなるな。
繁忙期を抜け出したばかりで疲れているはずなのに、不思議と僕は笑っていた。
*
私には悩みがあった。いや、悩みというほど深刻ではないのだが、ひとつだけ気にかかることがあった。
「青柳さん、差し入れ来てましたよ」
そこに置いておきましたから、と言われスタッフに示された場所を見れば、そこにあったのは参加したイベントでのファンからの贈り物。教えてくれたスタッフに礼を言い、贈られてきたそれらに目を向ける。活動を応援してくれる人たちには感謝しかなく、差し入れもどんな物であれ、基本的には嬉しい。しかし、いくつかあるその中にとある物を見つけて、私は息を飲み、それからそっとそれを手に取った。もうこれがイベントの度に送られてくるようになって、どれくらい経つだろう。
それは、一通の手紙。何の変哲もない、どこにでも売っていそうな便箋に書かれたもので、初めてそれを受け取った時は、ただのファンレターだと思って読んだのだが、どうも内容が理解し難いものだった。
『今の君は本当の君じゃない』
『以前の君はもっと美しかった』
『あの男は相応しくないよ』
手紙には、そんな気味の悪さを感じさせる意味不明なことが綴られていた。それだけなら私は少し表現が過激なファンだと思うだけだったかもしれない。でも、手紙を読んだ後、封筒の中に入っている物を見て背筋を凍らせたのだ。
『これを見て思い出してね』
そんな一言が添えられた、私の写真。
彰人と出会う前の、1人で歌っている頃の私がそこにはいた。たしかにあの頃は何をどうしたいというものもなく、周囲を気にせず好きに歌っていたから、撮ろうと思えば簡単に撮れたとは思うが、手紙の内容が内容だっただけに、妙に怖いものに見えたのをはっきりと覚えている。
それからだ。その一通から、毎回イベントの度に言葉を変えただけのような同じ内容の手紙が差し入れ達の中に混ざって送られて来るようになった。
そっと封筒を開き、今回贈られてきた手紙の中を見てみる。そこにはいつ撮られたのかもわからない、クレーンゲームで遊んでいる私の写真が入っていた。
(どんどん、プライベートな写真になっている気がする)
初めのうちは路上で歌っているところの写真ばかりだったのだが、回数を重ねていくうちに本屋であったり、CDショップであったりと他の場所にいる時の写真が増えてきた。それがまるで、段々と生活が暴かれて、侵食されているようで不気味に感じる。
(彰人に相談した方がいいんだろうか)
差し入れと一緒に来ているのなら、イベントにもこの手紙の主は来ているのだろう。だとすれば、彰人も無関係というわけではない。私たちは2人で活動しているのだ。それならば…。
「冬弥!」
「……彰人」
不意にかけられた声に、手に持っていたそれを咄嗟にポケットへしまう。イベント直後特有の高揚感が冷めないのだろう彼は私のところに駆け寄ってくると、今回の反省点や、他参加者たちについて嬉嬉として話し始めた。その充実した顔に、心がほんのりと温かくなるのを感じる。
彰人はとてもまっすぐだ。自分の目標や目的がはっきりとしていて、それに向かって一直線に進んでいく。妥協もなく、覚悟を持って。そんな彼だから私は一緒に歌いたいと思い、隣にいたいと、支えたいと思った。
(ダメだ)
強くそう感じて、ポケットにしまい込んだそれをぐしゃりと握る。夢のために走る彼には、やはり前だけを見ていてほしい。
(こんなことで、彰人を煩わせてはダメだ)
今日の帰り道にも、そして次の日も、その次の日も。もしかしたらどこかで見られているのかもしれないという不安を胸の奥へと押しやり、私は彰人の話に相槌を打った。
*
どうして。どうしてわかってくれない?
こんなに何度も何度も教えてあげているのに。
どうしてそんな男をまだ隣に置いているんだ。
そんなやつなんかより、僕の方がずっと君を見ている。
そんなやつなんかより、僕の方がずっと君をわかっている。
そんなやつなんかより、僕の方がずっとずっと長く君のことを考えているのに。
その僕が、そいつは君に相応しくないと言っているのに。
どうして僕の言うことが聞けないんだ。
彼女を奪われてから、どれだけの月日が流れただろうか。あの日の喪失感も、衝撃も、悔しさも、忘れた時は一度だってなく、あれから今日まで、僕は出会った頃の、在りし日の彼女を取り戻すために戦ってきた。
彼女が出るイベントに通い、目を覚ましてくれるように想いを綴り、願いを手紙に託して渡し続けてきたのだ。だけど、まだ足りない。冬弥はまだあいつと共にいる。
どうしたらいい。
言葉を尽くしても、彼女には届かないのだろうか。
天使だったあの頃の姿を教えてあげてもダメで、最近では写真はただずっと見守っていると伝えるだけに終わっている。
どうしたらいい。どうしたら、彼女は僕の愛した天使に戻ってくれるんだ。
次のイベントに向けて考えを巡らせながら、冬弥が気に入って読んでいるシリーズの新巻を買いに来るはずの書店へと歩を進める。そこで、僕の脳内に画期的な案が閃いた。
そうだ、冬弥を僕だけの天使にすればいい。完成された芸術品のように。ガラスケースに収めるように。僕の手元に置いて、僕だけの物にすればいいんだ。こんな名案が突然浮かぶだなんて、これはきっと神様からのお告げに違いない。正しいことをしろと、お前のそれは正しいんだと、そういうことなのだ。
そうだ、きっとそうに違いない。
そう確信した僕は、すぐ冬弥をお迎えする準備をしなければと、踵を返して足早に帰路についた。
次のイベントの手紙で迎えに行くことを伝えようか。いや、これから準備するのだから、すぐに迎えに行ってはあげられない。まずは冬弥がこれから住むことになる僕の家がどんなところかを教えてあげるべきだろうか。
いや、そもそも今住んでいる家でいいのだろうか。もっと自然が豊かなところの方がいいのではないか。幸い今まで趣味らしい趣味がなかったお陰でお金はあるのだ、古くとも新しい家を買ってあげた方がいいだろうか。
あぁ、冬弥と暮らせるのだと思うと、考えるだけで楽しい。
待っててね、冬弥。