私は自身の声というのを知らない。いや、そもそも、音と呼ばれるものがどんなものなのかさえ、私は知らない。私の世界はいつだって静かで、いつだって人よりひとつ欠けたものだった。
それでも構わないと思っていた。生まれた時から知らなかったから。気にならないのかと言われれば嘘になるけれど、ないものは仕方がないと諦めはついていた。そのはずだった。
思わずソファに寝転がってお昼寝をしたくなるようなポカポカ陽気の昼下がり。私は現在お付き合いしている、つい最近一緒に暮らし始めた彼が愛用している大きな鏡の前に座っていた。
そこにあるのは、いつも見る変わらない私の顔。私は私とたっぷり数分ほど見つめ合ってから、ゆっくり口を少しだけ開けてみる。すると、姿見に映る私も口を開く。口を使って喋らない私は、食事の時など限られた時しかそこを開かないので、見慣れた私の見慣れない顔に違和感しか感じない。けれどそれを無視し、私はスゥー……と息を吸って、そして、勇気を振り絞り声を出した。
この音はこの形。この音はこれ。
ひとつひとつ確認しながら、口を動かしてみる。声に出したのはたった3つの音。それはずっと言ってみたいと、彼のファン達がそうしていたように、私もそれを口にして彼に振り向いてほしいと思っていた音だった。
他の女の子が普通にやっているそれが、私にはできない。それはできなくても構わないと思ってきたのに、できないことが今はとてつもなく悔しいと思った。彼の世界には色んな音が溢れている。歌、音楽、動物の鳴き声、人の声。それらすべてが彼の世界を形作っている。
彼に出会って、恋をして、愛されて。そうして私は思ったのだ。
私もその中のひとつになりたい。
彼の世界に私の音を響かせたい。
父に与えられたピアノではなく、私自身の音を。でも。
2、3度その音を口ずさんでみたが、私の世界は変わらず無音のままで、きちんと音が出ているのかすらわからない。これでは練習にもならないな、と私はため息をついて立ち上がり、鏡の片隅にオレンジ色を見つけて石のように硬直した。
*
彼女と同棲を始めて、少しの時が経った。
耳の聞こえない彼女との生活は大変と言えば大変だが、それ以上に愛する人と共に暮らせる幸せの方が圧倒的に勝っている。
急遽頼まれて入ったシフトを終えて帰宅したオレは、リビングに繋がるドアを僅かに開けたところで、聞き慣れない声に手を止めた。鈴を転がしたように透き通った、落ち着きのある女性の声。最初は冬弥の知り合いでも来てるのかと考えたが、その声が紡ぐ音に気がついたオレは息を飲む。
一音一音、噛み締めるように、それはオレの耳に届いた。
「……あ、ぃ……と……」
(……まさか……)
まさか、これは。この声は。
バクバクと高鳴る胸の音に紛れて、再度、その声がリビングから聞こえてくる。
「……あ……ぃ、ぉ?」
次はちょっとだけ疑問形。彼女に音は聞こえていないから、上手く発音できているのかが不安なのだろう。実際、彼女が言おうとしているそれがオレの予想通りならば、発音は正しくはない。
(……まぁ、正しいかどうかはどうでもいいけどな)
もしも冬弥がそれを口にしようとしているのなら、それだけで嬉しい。そっとドアの隙間に体を滑り込ませ、室内に入る。冬弥は鏡に映る自分に向き合いながら、声を出していた。
「……ぁ、き、と……?」
「…………とーや」
呼びかけに胸を締め付けられながら返してみるが、彼女の世界にオレの音は届かず、冬弥は首を傾げていた。人知れず頑張っていたらしい可愛い恋人を抱き締めるため、オレは彼女の背後へと近づく。そして、鏡に映りこんだオレに気がついた冬弥は新雪よりも白い頬を桃色に染めて、あたふたと筆談用のメモ帳を探すのであった。
もちろん、そんな彼女をオレは予定通り抱き締めて、散々喜ばせてくれた音を紡ぐ唇にキスを送ったが、その時の様子はオレだけが知っていればいい。