東雲彰人は周囲からは人当たりの良い人物と認識され、その髪色や服装からどちらかと言えば軽薄なイメージを持たれたりもするが、その実、ただ1人愛すると決めた相手を一途に思うような硬派な男であった。対して、そんな彰人の初恋の相手となった青柳冬弥は家という檻に閉じ込められ続けたことも要因ではあるが、とにかく好奇心旺盛であり、知識欲が強く、さらに好きな相手にはとことん尽くす男である。
この2人が交際するにあたり、彰人はまず手順を守り、段階を踏んでゆっくり関係を進めようとした。手を握るところから始めて、少しずつデートを重ねて愛を深めようとしたのだ。そんな彰人の愛を受け取りながら、冬弥は知識を付けようとした。何をするにも、情報がなければ話にならない。いくら頼りになるからと言って、彰人に頼りすぎるわけにはいかないし、まずは恋愛、ひいては恋人になる、ということを知らなければ、と。そう考えた。そして、冬弥は訪れた書店でそれを手に取った。普段はあまり読まない、一般的に恋愛小説と呼称されるそれを。
*
夕暮れに染まる公園。2人並んでベンチに座る。関係が相棒だけだった頃よりも座る2人の距離はほんの少しだけ近い。その数センチの距離が、自分達が恋人になったのだということを示していて、彰人は気恥ずかしくなりつつも、それ以上に嬉しくなる。
好きだと思い切って伝えてよかった。
沈みゆく太陽を眺めている冬弥の穏やかな横顔を盗み見て、彰人は心からそう思う。人を好きになったのも、愛したいとも、愛されたいとも、初めて思った、本気の初恋。その先にこんなにも幸せな未来があるなんて、告白したあの時は思いもしなかった。ステージでは意気込むことはあれど、そこまで緊張することはないというのに、ただ恋人の横にいるだけでドクドクと早まる心臓に、手に持った甘いコーヒーをグイッと煽る。
頬が熱い。付き合う前は、身を寄せ合って有線のイヤホンを共有して曲を聴くこともあれば、ライブ後にはハグだってしたことがあるのに、隣にいるだけでこんなになってしまうなんて。
(き、キス……とか、できんのか……?)
付き合ったからにはしたいが、そんなビジョンはまったくもって見えない。デートはもう何度かして、そのたびに今日こそキスくらいまでは進みたいという気持ちで挑んではいるのだが、来たことのない場所、見たことのない物を前に「彰人、彰人」と彰人の名を呼び、楽しそうに笑う冬弥はとても可愛らしく、しかしそんな無邪気な冬弥の姿に彰人はなかなか手を出せずにいた。
握り締めた缶コーヒーがベコっと凹む。
(いつかは、してみてぇな……)
だからといって、急ぐ必要はないとも思っている。急いで冬弥の意思を無視し、傷付けるなんてことがあっては元も子もない。自分達の音を作り上げたように、2人の関係も同じように2人のペースで作っていけばいい。そんな風に長期的な目で彰人は冬弥との未来を見据えていた。
「……彰人」
「ん?どうした?」
不意に冬弥が彰人に目を向けて、その名を口にし、2人の視線が絡み合った瞬間に、それは起きた。
「彰人、キスがしたい」
「……ん?」
「彰人とキスがしてみたい」
「いや、聞こえてるから何度も言うな」
まっすぐに彰人の目を見て、冬弥は同じ単語を繰り返す。
恋愛について、冬弥はどちらかと言えば受動的で、思っていることをあまり口には出さず、頭の中であれこれ深く考える性格である。それを煩わしいと思ってはいないが、冬弥は時おり突拍子もないことをする。本人の中では1本の筋道ができているのだろうが、如何せんそれを話さないので、やられる側にとっては突然に感じるのだ。だから多分、これもそうなのだろう。
「……嫌か?」
「い、嫌じゃねぇけど……」
「そうか、ではいいのか?」
むしろしたいと願い続けてきたのだが、まさかその機会が降って湧くとは思っていなかった。さらに熱くなる頬を照れくさく思いながら、こてん、と首を傾けて彰人より数センチ背の高い彼が返答を待っているのを見て、自身の夕陽色の髪を掻き乱す。
(……あー……くそ、可愛いな……)
本当なら格好よく、もっと冬弥をときめかせるようなシュチュエーションで初めてはしたかったが、仕方がない。強請られて断るのも、それはそれで嫌だった。
「……わかった」
「いいのか?」
「そう言ってんだろ。……やるぞ、キス」
あぁ!、と嬉しそうに頷く冬弥に「そんなにしたかったのか」と躊躇っていたことを少しだけ申し訳なく思う。そして、互いに身を寄せ合い、ふにっ……と柔らかい何かが、彰人の唇に押し付けられた。いや、考えるまでもない。宣言通り触れ合わせたそれは紛れもない、冬弥の唇だ。その証拠に薄らと瞼を開ければ、近すぎてピントが合わない彰人の瞳には、意味がわからないほどに整いすぎた冬弥の顔が広がっている。
「……んっ、んん……んぅ……」
鼻にかかった、あまり聞いたことのない冬弥の声が静かな公園に不釣り合いに響く。ただ合わせるだけのそれはやがて息が続かなくなったのか、冬弥が唇を離し、ぷはっ……と色気もなく大きく息を吸い込むまで続いた。
「……どうだよ、初めてのキスは」
バクバクと破裂しそうな心臓に耳を塞ぎたくなりながら、彰人は冬弥と触れ合っていた自身の唇に手を伸ばす。冬弥のそれが、自分のそれが合わさっていたのだと思うだけで、体温が上昇し、その熱で全身がドロドロに溶けてしまいそうだった。
「……冬弥?」
なかなか返って来ない返答に、彰人は首を傾げて恋人に視線を送る。彼はとても難しい顔をしていた。眉間に皺を寄せ、首を傾げて何かしらを考え込んでいる。
(……は?んだよ、その顔……)
紛いなりにも、付き合って初めてのキス。彰人に至っては人生初……つまりはファーストキスである。なのに、なんだ、その不服そうな顔は。
「おい、冬弥……」
「……じゃ、ない……」
「は?」
ポツリと零された声はあまりにも小さくて、彰人の耳では捕らえきれず空気に解けて消えてしまう。聞き返すと、信じられない、と言いたげな面持ちで再度、それは告げられた。
「レモン味じゃ……ない……?」
「……………は?」
しっかりと聞いたところで、理解できるかは別問題ではあるのだが。