この世界には人を区分する時、男性・女性の他にDOM/Subと呼ばれるダイナミクスが存在している。Subを支配したいDOMと、DOMに支配されたいSub。中にはダイナミクスを持たない人もいるそうだが、世界の人々の大部分はこの2つのどちらかを持って世に生まれ落ちていた。
支配する側と、される側。本能にそんなものを植え付けられて回る世界はとても歪なようで、けれどその実、愛に満ちている。
*
「それではダメだ。もう一度」
「……はい」
父の言葉に返事をして、痛む指に音もなく謝りながら、譜面通り動くよう命じて鍵盤を叩く。物心付くか、付かないかの歳にピアノを教わり始めて、それのみを許された俺は他の娯楽を知らぬまま、先日中学への入学を果たした。しかし、心は踊らない。新しい環境、新しい友人……そんなものに期待と不安を感じる、というのを本の世界で見かけるが、俺にそんなものはない。なぜなら、何も変わらないから。
中学へ行っても、この部屋でこうして決められた音を俺は紡ぎ続ける。痛みと苦しみに耐えながら、父の思い描く音を出せるまで。俺の人生は、時間は、そうやってすり減って、命尽きていくのだと、そう思っていた。
ポロン、と譜面にはない音が父の耳に届いてしまい、眉間に寄っている皺が深まって、ため息が吐かれる。
「どうして言った通りの音が出せない?」
「…………ごめんなさい。指が、痛くて……」
「そんなのは理由にならない」
心の底から失望した声色に胸が締め付けられて、ごめんなさい、と繰り返す。けれど父は俺の不出来を許してはくれず「今日はもういい、休みなさい」と部屋を出て行ってしまった。
どうして、俺は言われたことができないのだろうか。その期待に応えたいとは思うのに。グルグルと視界が回るような気持ちの悪さと、胸の内が凍り付くような寒さを感じて自分の体を抱き締める。
(なんだか、今日は変だ)
ピアノの弾きすぎで指が痛むことは毎日のようにあるが、吐き気と寒気はあまりないことである。風邪とも違うような気がするそれに首を傾げつつも、きっと疲れたのだろうと判断し、その日は早めに布団の中に潜り込んだ。
だが、明くる日も、そのまた次の日も、俺の体調は治るどころかレッスンがあるたび、俺のミスに父がため息をつくたびに悪化の一途を辿った。
「……っ、……おぇっ……」
トイレに蹲り、胃液を吐き出す。今日のレッスンは特に酷かった。体が倒れないようにするだけで精一杯で、まともに鍵盤も五線譜の上にいる音符達も認識することができず、演奏と呼ぶことすら躊躇ってしまうような音しか出せなかった。
俺の体はどうなってしまったのだろうか。
それから、治まらない体調不良を誤魔化しながらもレッスンは続き、俺の体調が優れないことにいつしか父も気がついたのか、あまりにも酷い時のみ午後の休憩を許されるようになった。
(……あたま、いたい……)
グラグラと世界が揺れているような、脳を揺さぶられているような頭痛に足元をフラつかせながら、俺はあまり人通りの多くない街中を歩いていた。自分でもおかしいとは思う。けれど、こんな時でなければ外の世界に触れることなんてできないから。体を横にしても治らないのであれば、せめてこの時間だけでも外の空気に触れていたかった。
そんな状態で歩いていたからだろう。ドンッとすれ違ったスーツの男性と肩がぶつかってしまい、足元が覚束なかった俺は簡単に体勢が崩れて地面へと倒れてしまった。
「ごめんね、大丈夫?」
「……ぁ、いえ、俺こそすみません」
力の入らない体を叱咤して立ち上がろうとすると、そっと手を差し出された。節くれだった、大人の男性の手。その手に謝罪と共に自身の手を重ねて半ば持ち上げられる形で立ち上がると、俺の顔を見た男性が、あれ、と声を上げる。
「君、もしかしてドロップしてる……?」
「……え?」
*
「あ、あの……ここは……?」
ぶつかってしまった男性に「そのドロップ、何とかしてあげようか」と言われ、初めはよくわからなかったが、ドロップというのは今も俺を苛む体調不良の名称らしい。それが治るのであれば、と男性の言葉に頷いたわけだが、連れてこられたのはベッドと椅子、それからガラス張りのバスルームのある部屋。ベッドには枷のような物が付いた鎖が見えたが、見なかったことにする。
「ここはプレイするためのホテルだよ」
「……プレイ?」
プレイとはなんだろうか。
首を傾げると、彼は「何も知らないんだね」と目を細めた。スーツの上着を脱ぎ、椅子の背にかけた彼は口角を上げて俺に問いかける。
「ねぇ、君さ、自分がSubだってことも、知らなかったりする?」
「俺が、ですか……?」
その言葉の意味するところは知識として知っている。DOMに支配されることを良しとし、それを求めるダイナミクス。ダイナミクス同士地位や力関係は対等であるとされているが、その性質から下に見られてしまいがちな存在。それがSubである。
ダイナミクスは通常10代半ばから徐々にその性質を強め、10代後半から成人になる頃にはパートナーを求めるようになる、と学校で教わった記憶がある。しかし当然体の成長には個人差があるわけで、俺の歳でダイナミクスが発現するのもおかしなことではない。
(……俺が、Sub?)
支配されることを本能で望んでいる?俺が?
父の姿が脳裏を過ぎる。
押し付けられる音に、繰り返されるレッスン。そこにあるのは弾くことを強要され、休むことを許されずに痛む指と、俺の心臓を突き刺す「どうしてできない」という言葉だけ。
それを、俺が望んでいると?
信じられない。こんなにも苦しいのに、俺が支配されたいSubだなんて。
「やっぱり、わかっていないんだね」
「あの、どうして俺がSubだと……?」
俺の問いに、ワイシャツの袖を捲りベッドに腰掛けた彼は、見せつけるように足を組んで楽しそうに答えた。
「それは俺がDOMだからだよ」
「……あなたが、DOM……?」
組んだ足に手を置いて、彼は頷く。
「DOMはね、時々自分好みのSubがいると匂いでわかったりするんだ……俺の場合は、君みたいな綺麗な子」
彼の言っていることが本当なのかも、彼が本当にDOMなのかもわからないが、逆に否定する要素もない。彼を否定できるほど、俺は外の世界を知らないのだから。
「えっ、と……それで、この体調不良を治せる、というのは……?」
「あぁ、それね」
そもそもの目的である体調不良の改善について聞くと、彼は丁寧に説明をしてくれた。
曰く、この体調不良……Sub dropとはDOMのGlareに当てられたか、Careを受けていないことからくるSub特有のものであるらしい。俺のケースではDOMである父がレッスンの際、無意識にGlareを発していたか、もしくは……。
「君、お父さんに褒められたことは……?」
「いえ、褒めてもらえるような演奏ができたことがないので」
「じゃあ、それだね」
ということのようだ。
その程度でこんなにも酷い状態になるのかと思うが、Subとはそういうものだと返されてしまった。そして、そのSub dropを解消するにはDOMにSubとしての欲を満たしてもらうより他にない、と。
「だから、ね……俺が君を満たしてあげるよ」
「そんな、いいん……ですか?」
「言ったでしょう?俺の好みは君みたいな綺麗な子だって」
笑みを深くした彼は、そっと、その言葉を舌に乗せる。
「Kneel」
聞き慣れないその音に、俺の体は、本能は歓喜に咽び泣いた。
*
パシン、と細い紐が俺の体に叩きつけられる。その衝撃で体が跳ねると手首に付けられた手錠とベッドを繋ぐ鎖が、ジャラジャラと喧しく鳴いた。肌に走る焼けるような痛みに、あぁ、またか、と俺は痛みと恐怖に唇を噛む。
初めて出会ったDOMとのプレイを経て、父のレッスンに耐えるにはDOMと出会う必要があると考えた俺は、こうやって欲を満たしてくれるDOMを求めるようになった。幸い、プレイ用のホテルが建ち並ぶ通りにいれば時間をかけずともDOMの方から声をかけてくれて、出会えずに困るということはないのだが、どうしてかどのDOMも行為が進むにつれて俺の肌に何らかの痕を残したがり、紐や手で叩いてくる。そういったプレイで満たされるSubもいるらしいが、残念ながら俺にその性質はなく、それをされても痛みと恐怖しか感じられない。
パシン、パシン、と何度も何度もDOMが振るうそれが俺の肌を焼く。
「……うぅ……いたっ、いたい……も、やだぁ……」
イヤイヤと首を振っても、わかってはいたがその行為はDOMが満足するまで終わりはしなかった。
プレイよりも乱暴という言葉が似合いそうなそれが終わり、どのDOMにもいらないと言っているのに「気持ちだよ」と言って渡される、最も高額であることを表す偉人が印刷された紙幣の束が入った封筒を受け取る。
「ありがとう、気持ちよかった。またお願いね」
そう言って頭を撫でられた時、初めてふんわりと体が温かくなり、感じていた吐き気と寒気が和らいだ。
(……よかった)
あれだけの苦しみに耐えて、満たされなかったらさすがにヘコむところだった。憎たらしいほどスッキリした顔のDOMが部屋を出て行くのを見届け、別段欲しくはないけれど、もらった封筒の中身をペラペラとベッドに座って数え、鞄の中にしまうと俺は恐怖でかいた汗を流しに1人シャワールームへと足を向けた。
和らぎはしたが、まだ、吐き気は治まらない。Subに生まれたというだけで、これを死ぬまで続けねばならないのかと思うと、憂鬱な気持ちになる。
(パートナー……か)
その日限りの不特定の相手ではなく、相性のいいDOMとそのような関係になれれば、こんな思いをしなくてもいいのだろうか。温かいシャワーを浴びながらそんなことを考えてみるが、すぐに首を横に振ってそれを追い払う。現状、同年代とは友人にだってなれていないのだから、パートナーなど夢のまた夢というやつだ。
身を清め、入る時よりも軽くなった気がする体でホテルを出て携帯を確認する。興味もなく初期設定のままにしている画面には、思っていた以上に早い時刻が表示された。まだ帰宅には早い時間。
(……そうだ、あそこに行こう)
ここ最近通うようになったそこは、俺にはあまり馴染みがない雰囲気の通りで、路上で歌を歌っている人が多く、俺の知らない音、俺の知らないリズムが無秩序に溢れている。そんな場所だった。
すっかり覚えてしまった道を思い思いに歌う人の声を聴きながら抜けて、俺は誰もいない道の端に立つ。別にその場所に思い入れがあるわけでも、特別理由があるわけでもないが、何となく、歌いたい時はここで歌っていた。
小さな頃は父のピアノが好きだった。クラシックの知識も、音楽の歴史も、知らないことを知るのは楽しかったはずだった。それが辛くなり、苦しくなり、嫌になったのはいつの事だったか。
すぅ……と息を吸って、見様見真似、クラシックで養われた耳とはいえ、聞きかじった程度の歌を俺は歌う。クラシックではない音楽を、俺の意思で。それは幼く、小さな反逆だった。けれど、そうやって歌っている時だけは俺は俺でいられる。
そんな気がして、時間を見つけては俺はここで歌うようになった。
「ーー♪、ー♪」
周りを気にせず、紡ぎたい音を紡ぐ。押し付けられたものではなく、自身の心のままに。
(……気持ちいい)
それが最高に楽しい。感じていた吐き気も、叩かれた肌の痛みも、何もかもを忘れて、俺は歌った。
「……ねぇ」
「…………?」
そうして何曲か歌った頃、1人の少年に声をかけられた。歳の頃はおそらく俺と同じくらいのオレンジ髪の彼は、ここで俺が歌っているのを少し前から見ていたらしく、一緒に歌わないか、と提案してきた。
「……なぜだ?」
「なぜって、歌いたいから?」
「…………意味がわからない」
人と歌ったことなど一度もない。そんな練習も、勉強も、したことはない。そもそも、俺なんかと歌って何になる。
拒絶の意味を込めて首を横に振るが、1回だけでいいから、と少年は人懐っこく見える笑顔で食い下がってきた。柔らかい笑みのようなその表情は、けれど父に会いに来る大人達が顔に貼り付けているそれによく似ていて、ため息が出そうになる。
「……1回、だけなら」
思いの外諦めない彼に、拒むよりも1回歌ってしまった方が早く済みそうだと思えて俺が渋々頷くと、嬉しそうにオレンジ色の少年は笑った。先ほどのハリボテのようなそれとは違う笑顔で。
(……?)
胸の奥にある何かが熱を持ったような気がして、俺は首を傾げる。
結果として、彼と歌うのは最高に楽しかった。声の相性がいいのだろうか。重なり合う音は心地よく、彼の声はまるで俺の手を引いてくれるように勢いがあって、頼もしく感じた。これが誰かと音を奏でる、ということなのかと俺はドキドキと高鳴る胸を押さえる。
「……こいつしかいねぇ……」
「え?」
ポツリと少年が何か声を漏らすが、うるさい自身の鼓動でよく聞こえず聞き返すと、興奮した様子で彼は言った。
「……なぁ、また会えないか?」
それが、後に最高のパートナーとなるDOM、東雲彰人との出会いだった。
*
あのオレンジ色の少年とストリートで声を重ねてから、少しの時が過ぎた。あれから彼とは顔を合わせていない。というのも、彼と歌った後、不思議と他のDOMとプレイをいくらしても続いていたSub dropは改善されて、父によるピアノのレッスンが再開されたからである。元々、Sub dropでの体調不良で休みをもらっていたわけで、それがなくなったのなら元の生活に戻るのは必然。それゆえ、俺は彼に会いに行くことが叶わなかった。
(また、会えないか……か)
俺なんかと、彼は何がしたかったのだろう。また、あの歌を歌いたかったのだろうか。彼も、俺がそう感じたように、あの時間を、音を重ねることを、楽しいと感じてくれたのだろうか。そうだと嬉しいのだが、その答えは会って問うてみなければわからない。そして、気になるあの時感じた胸の温もり。その正体もまた、あの太陽に会わなければ確かめることはできない。
(会いたいな)
俺が俺でいられるあの場所で、彼ともう一度。父に渡された譜面の通りに鍵盤を叩き、曲を紡ぎながらそんなことを考える。ポロン、ポロン、と無感情に音を奏でる指は、以前よりも重く、あの日、たしかに跡形もなく消え去ったSub dropは、またその影を色濃く落としていた。
(また、なのか)
初めてSub dropに耐えきれずに見知らぬDOMとプレイした日から、もうすぐ1年。何とか騙し騙しで生きてきた俺の体は、もう限界だった。いや、違う。オレンジ色の少年との歌を知ってしまったからだ。あの温もりを、何かが満たされる感覚を覚えてしまったから、もう、以前のように孤独の冷たさに、俺は耐えられなくなっているのだ。
背後で扉の開く音がする。諸用で部屋を出ていた父が、俺の練習を見るために戻ってきたらしい。吐き気と頭痛。そこに父の厳しい目線――おそらくはGlare――が加わり、鍵盤の上でまるで鉄の靴を履かされた、かの王妃ように、痛みに喘ぎながら踊り狂っていた指が、さらに悲鳴の歌声を上げる。
(……会いたい)
太陽と俺が俺でいられたあの場所で、歌いたい。俺の中の何かが叫ぶ。冷えきったこの胸を包んでくれたあの温もりに、もう一度、と。その訴えに気がついてしまったからか、心の均衡が保てなくなった俺の紡ぐ音は見る見るうちに崩壊を始め、背後から感じる父の圧力が加速度的に増していく。そうして、呆れたような吐息が吐き出された。それが俺の鼓膜を揺らした瞬間、これ以上は無理だと、頭の片隅で幼い俺が首を横に振る。
「………………父さん、俺は、もう……」
何も知らないままでいられたのなら、まだ耐えられたかもしれない。けれど、もう知ってしまったから。不協和音となった歪な音を止め、拷問のような責め苦から自身の指を解放してやる。逃げられない。このまま家に縛られ続けるのだとばかり思っていたのに、口に出してみれば、その終わりは案外あっさりとしたものだった。
その後、無事外に出ることを許されはしたが、吐き気は治まらず、むしろ眉間に深い皺を刻み、部屋を出て行く父の後ろ姿にそれはより酷いものとなっていた。こんな状態では、彼を探すより先に、長らくしていなかったが、フリーのDOMとホテルに行った方がいいかもしれない。さて、どうしようか。迷いながらも、フラフラと進む足は、しかしまっすぐと己の欲望のままひとつの場所を目指し、突き進む。
学校もない休日の昼。道道には様々な装いの若者がいる。その中に時おり俺へ視線を投げかける人もおり、何となく俺でもDOMなのだろうと察することができる人もいた。普段ならばその人と目線を交し、ホテルへ行くのだが、行こうかどうか考えているはずなのに、そうしようという気は不思議と起きない。いいや、ここまでくれば、俺とてわかる。俺は、何よりも、誰よりも。俺の体を満たしてくれるDOMよりも。彼に会いたいのだ。名前も知らない、あのオレンジ色に。
耳に、無秩序な歌声が届く。生まれも、格式も、何もかも自由に、己を表現する声。懐かしくも感じるそこに、俺は再び足を踏み入れた。
(前に歌っていた場所は、たしか……)
かつて自身が歌っていた場所を目指し一歩一歩、重たい足を前に出し、けれどすぐにグラグラと足場が不安定になったような感覚に、壁に手をつき体を支える。そのままその場で蹲ってしまいたくなるが、そうしたところでこれが改善されないことは、とうの昔に理解していた。今は少しでも前へ。どうしてここまで彼に会いたいのか、会わなければと思うのか。それはわかりかねるが、それでも、これに従いたいと思う自分がいるのも事実である。
(今日、ここに来ていればいいが)
彼が今日この通りに来ているのか。彼の「また会えないか」という言葉に、俺はあの日、何も返せていないし、あれからそれなりに時が過ぎてしまった。だから、その点に関しては祈るより他にない。
体を引き摺り辿り着いた、いつも声を吐き出していたそこで、俺はあの日のように、すぅ……と息を吸い込み、今まで胸の奥に鍵をかけて隠してきたモノを、声に乗せた。
どうか、彼に届きますように。
気づいてもらえますように。
見つけてもらえますように。
そんな祈りを込めて。
俺のいるこの場所は元々人通りの多い道ではないらしく、俺の前を過ぎ去る人はいない。どこか遠くから聞こえてくる別の歌だけが、この世界は俺1人ではないのだと教えてくれる。そんな状況が暫く続いた。
今日は学校のない日。つまりは学生が1日自由に過ごせる日だ。俺と歳の差がなさそうな彼も、例に漏れず休日の可能性が高い。
(……仕方がない、か)
事前に約束もしていないのだから、都合よく会えるわけがない。そう思い、この曲で最後にしようと決めかけていた時、奇跡は起きた。
タッタッタッ、と軽やかな足音。それは真っ直ぐにこちらへと近づいてきて、そうして。
「……っ、やっと、見つけた……!」
陽の光を受け、明るい太陽の色をさらにキラキラと輝かせた彼がそこにいた。驚きのあまり、息を飲みそうになるのをグッと押さえて、俺は乱れた音を立て直す。止めずに歌いながら、チラリと目の前に立つ彼の様子を伺うが、彼は真剣に俺をまるで品定めをするような目で見つめていた。
(そういえば、あの時何か言っていたな)
初めて出会ったあの日、歌い終わった後に彼は何かを言っていた。あの時は胸が妙にドキドキとしてしまって、上手く聞き取れなかったが、俺の歌に、何かあるのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、最後の一音までしっかりと歌い切り、ふぅ、と息をついた俺はそこでやっと彼に向けて口を開いた。
「なかなか会いに来れず、すまなかった」
父に外に出してもらえなかった、とは何となく言いずらく、曖昧に謝ると、「そのことなら気にすんな」と何でもないように言った彼は、それよりも、と口角をニヤリと吊り上げる。その笑みはあのハリボテのような笑顔とはまったく違い、何だか悪い顔のように見えたが、不思議とそちらの方が自然に見えた。
「お前さえよければ、もう1回一緒に歌ってみないか?」
「……え?」
願ってもない申し出だった。あの感覚をまた味わえるのなら、いくらだって歌いたいくらいだ。けれど。
「俺で、いいのか……?」
歌の勉強などしたことがない、俺なんかで。
彼の望む音が、俺に出せるだろうか。それができなかった時の失望、溜息、それらが脳裏に過って、心がひやりと凍てつく。だが、それを吹き飛ばすように、彼はカラリと笑った。
「お前がいい……っつうか、まぁ、まだ確かめたいことは細々とあるが、前に歌ってみて、相当いい感じだったからな」
嬉しそうな彼の笑顔を見て、俺は、ひゅっ、と喉が締まった。次いで、心臓からマグマが噴き出したのではないかと疑いたくなるほど全身が熱くなり、そして気がつけば、俺は彼を見上げていた。
「………………は?」
彼が目を丸くして、俺を見ている。俺も訳がわからず、彼と、それから青く澄渡る空を、ただただ仰ぎ見る。何が起きたのか、まったくもって理解できなかった。ドクン、ドクン、と大量の血液が体内を走り抜け、脳内に花畑ができたような、ふわふわとした未知の感覚。
(……なんだ、これは……)
震えが、止まらない。しかし、怖いのではない。苦しいのではない。これの正体はわからない。何もわかりはしないのに、これだけははっきりとわかった。
俺は喜んでいる。
全身が歓喜に震えているのだ。
そこまで思考して、俺は初めて自身が彼の足元にペタリと座り込んでしまっていることを知った。
驚愕の色を浮かべている彼の口が動き、何かを言っている。それに答えなければ、と強くそう感じるのだが、すべてが柔らかい膜に包まれたようにあらゆる物が判然とせず、それは叶わない。俺が首を傾げると、彼は俺の状態を察してくれたのだろう。しゃがみ込んで俺と視線を合わせる。そして、とても簡潔な質問を彼は俺に投げかけた。
「お前、Subなのか?」
「……俺、は…………Subだ」
そうつまりながらも答えると、そうか、と短く返し、彼は俺の頭に手を乗せる。よくできました、というように。
「……っ!」
ずっと、父とのレッスンを受けるたびに。ずっと、その日限りのDOMとのプレイに耐えるたびに。体の奥に蓄積し、沈殿し、大きな塊になっていた何かが、ゆっくりと、じんわりと。厳しい冬を乗り越え、春の訪れと共に雪が溶けいくように、溶けて、なくなっていく。
「ここでその体勢は足痛てぇだろうし……仕方ねぇ、ホテル行くか」
Subと本格的なプレイとか、したことねぇんだけど……。
そう言った彼は、少々気まずそう……いや、照れくさそうに後頭部の髪をぐしゃぐしゃと乱し、腰が抜けてしまった俺を抱き上げると、そのまま、プレイ用ホテル街へ歩き出した。