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    おたぬ

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    おたぬ

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    海に身投げする🍁❄
    リリック時の情報で書いたもの

    わだつみに溶ける伝説を超える。その想いを持ち集った4人で季節を巡り、高校卒業が少しずつ近付いてきた頃、ついに俺たちは夢を叶えた。だから、きっと浮かれていたのだと思う。その実感は湧かないが、ずっと目指してきたものだから。達成感と高揚感でどうにかなっていたのだ。それはおそらく彰人も同じ。故に、仕方のないこと。俺と彰人、2人の落ち度だ。

    「待ちなさい、冬弥」
    「……」

    いつも鉢合わないように、会ったとしてもできうる限り最小限に。そう気を付けていても一緒に住んでいれば顔を合わせてしまうことがある。自宅の廊下。たまたま帰宅した父とすれ違ってしまったのだ。頼むから話しかけてくれるな、という淡い願いは無惨に砕け散り、最も聞きたくない声で呼び止められる。また説教か、嫌味か。できるなら彰人を悪く言う言葉は聞きたくない。そんな風に考えるが、父の口から出てきたのは俺が想定していないものだった。否、出てこないはずのものだった。

    「なんだ、これは」
    「……え?」

    父が示したのは俺の首元。服の襟元を引っ張られてそこを見られる。いきなり話しかけてきてなんなのか。疑問に思ったのは、ほんの一瞬。すぐに父の言った言葉の意味を俺は正しく理解してしまった。
    父の言った場所。見ている場所には、とあるモノがある。普段ならば首元にはないそれ。彼が愛してくれる時、好んで付けてくれるもの。鬱血痕。所謂キスマーク。

    「答えなさい、冬弥」
    「……ぁ…、これ、は……」

    いつもならば見つかると冬弥が嫌な目に遭うからと、気を使って見えない場所にしてくれるのだが、数日前の行為はとても盛り上がって、お互い歯止めが効かずに2人とも身体中があられもないことになったのだ。だから気を付けようと、特に俺は家庭環境が他より少し複雑だから見つからないようにしなければと、そういう風に話していたのに。

    (………しまった……)

    浮かれていたのだ。ひとつの夢を叶えて、卒業が目の前で。歳を重ねるごとに自立というものが近付いてきて、学生という枷がなくなるかもしれないと。浮かれていたのだ。仲間たちと、彰人と共に生きていける日が近いのかもしれないと。浮ついて、してはならないミスをした。

    「やはり、お前は私が管理すべきだったな」

    目の前の父が心底から呆れたようにため息を吐く。

    「悪い友人……とは思っていたが、そこまでとは。高校はもうすぐ卒業だ。ちょうど海外に行く予定がある。お前も着いてきなさい」

    「……………は?」

    そんな友人の傍にいるよりずっと有益だろう。そう続けながら、父は既に決定事項とでも言うように勝手に話を進めて行く。しかし、それらはすべて俺の脳へと辿り着かず、ただひとつの事実だけが頭を駆け巡った。

    この男は何を言っている?
    卒業したら海外へ連れて行く?
    誰を?俺を?
    それは、つまり…。

    (彰人と、離れる?)

    目の前が闇に覆われ、足元がガラガラと崩れて行くような感覚がした。



    あれから父になんと言われたのかも、どういった形で自室に戻ったのかもわからないが、気が付けば俺は自室のベッドに腰掛け項垂れていた。
    どうして。なぜ。どうすれば。どうしよう。
    そんな言葉たちがグルグルと脳内に浮かんでは消える。父は本気だ。本気で俺を海外に連れ出して、クラシックの道に引き戻すつもりだ。そして、もう二度と俺に自由を与えたりはしないだろう。

    (そうなれば、もう、彰人にも)

    誰にも会えない。孤独なあの日々に逆戻り。否、俺に自由を与えて失敗したのだから、幼い頃より厳重に管理されるかもしれない。

    (…………いやだ)

    そんな生活に、おそらく俺は耐えられない。もう知ってしまったから。自身の思うままに、やりたい音楽を信頼する仲間と共に奏でる楽しさを。高みを目指す者同士で切磋琢磨することの喜びを。そして何より、愛する相棒と声を重ねることの幸せを、俺は知ってしまっている。だから、もうかつての生活に俺は戻れない。戻りたくない。

    (だが、どうすれば……)

    胸の内で反抗心を抱いたとして、父の前で言葉にできるかと言われれば、それは否だ。幼少の頃に植え付けられた恐怖心は俺が思うよりもずっと根深いところで、俺を支配している。かつては司先輩に背中を押してもらい強行突破で何とか逃げ出したが、その結果がこれなのだから同じ手は通用しない。俺1人では無理だ。

    (……どう、すれば……)

    誰かを家族の問題に巻き込みたくはない。しかし言われるがままに仲間たちと、彰人と離別はしたくない。それだけは絶対に嫌だ。

    何とかしなくては。でもどうやって?
    そうやって思考を堂々巡りさせ、やはりどうにもならないことを再認識する。
    家を出ても、遠くに行く資金も行く宛もなく、子供のやることの範疇を脱せはしない。不本意であろうとも、親の庇護のもとで生きるしかないのだ。どんなに足掻いても結局は父の掌の上。俺は父の思い描いた通りの作品として生きるより他に道はないのかもしれない。

    それに、たった4、5年の間だが、青柳冬弥として歌えた。自分の声を外の世界に響かせることができた。それ以上を俺が望んではいけない。そういうことなのだろうか。好きな店ができて、ゲームセンターで遊ぶことも覚えて、今まで参加できなかった学校行事も楽しめた。信頼してくれる仲間にも恵まれて、何よりも俺を俺として愛してくれる人にも出会えた。恋も愛も、知ることができた。すべて、この家に縛られたままでは得られなかったもの。だからもう満足しろ、と。十二分に人生は謳歌しただろう、と。そういうことなのだろうか。

    (たしかに、俺には勿体ないほどの幸せだった)

    そう思える日々だった。まさかこんな俺に恋人ができるなんて。今でも俺自身でさえ驚きだ。けれど――

    (………彰人)

    俺の声に気付いてくれた人。
    俺を隣に置いて、相棒と呼んでくれた人。
    俺の愛しい人。

    やはり、彼と離れたくはない。
    ずっと傍にいたい。

    心からそう思う。
    だというのに、彼に「頭がいい」と評されたことのある俺のそれは何度思考を巡らせようと、この事態の解決策を見出してはくれない。どこに逃げたって、きっと父は俺を探し出す。探し出せてしまう。俺と父は実の親子なのだから。血縁関係のある父がいなくなった息子の捜索願を出すことに世間は違和感など抱かないだろうし、何よりあの父のことだ。探偵を雇う可能性だってある。

    (……逃げ場なんて、もうどこにもない……)

    その事実が俺の胸に重くのしかかる。
    本当に俺は彰人と別れるしかないのか。彰人と2人で1から作り上げた音。4人で積み上げてきた音。そのすべてを否定されたというのに、また傀儡になるしかないのか。そんな未来を受け入れるのか。受け入れられるのか。

    (……受け入れられるわけが、ない)

    そんな事実を認めるくらいなら、それこそ――

    「………あ…」

    そうだ、それがあるじゃないか。
    唐突に。閃くように現れたそれは、まさに光明のように俺の内に溜まっていたドロドロとした思考を浄化した。
    この世界のどこにも逃げ場がないのなら、その外側に行けばいい。
    どうして、こんな簡単なことに気が付かなかったのだろうか。古来より、日本ではそのようなことがしばしば行われてきたというのに。

    (だが、彰人はどう思うだろうか)

    解決策は見つかったが、気になるのは愛しい彼のこと。彼は歌にとても真摯だ。すでにひとつの夢を叶えたが、きっとすぐに次の目標を見つけて、また前を見て走って行くだろう。その邪魔はできればしたくない。

    (本当なら、ずっと傍にいたいが……)

    父ではなく、彰人本人の願いならばそれは仕方がないだろう。音楽への姿勢もまた、彼の魅力のひとつだ。
    彰人の夢の続きを見られないのは俺としてはとても残念だが、今はこれ以外に俺を救ってくれるものはない。もしも彰人が拒んだとしたら、寂しいがこれからの彼の活躍と幸せを祈って1人で行くとしよう。

    そう決めて、俺は携帯と財布だけを手に夜の街へ駆け出した。



    フラフラと行くあてもなく歩き、たまたま目に入ったベンチに腰掛ける。これからのことで頭がいっぱいだったからだろうか。腰を落ち着けた途端にそれまで感じていなかった肌寒さがやって来て、ぶるりと震えた。上着を1枚羽織っては来たが、もっと厚手の物にすればよかったか。

    (いや、今はそんなことよりも……)

    彰人へ連絡を入れなければ。そう思い、携帯を取り出す。なんて言えばいいだろうか。事が事だけに、どう伝えればいいか、迷ってしまう。散々迷って、どうせ最期なのだからと、開き直ったようにたった一言だけ。今の気持ちを送ることにした。

    それなりに夜も深まってきた時間だ。もう寝てしまっているかもしれない。俺の声は届かないかもしれない。そんなことを考えながら、メッセージを打ち込んで送信ボタンを押す。するとまさかずっと携帯を見ていたのかと疑いたくなるような速度で彰人から返信がきた。

    『今どこにいる』
    『適当に歩いている』
    『じゃあ、いつもの公園でいいか?』

    2人の時も、4人になってからも練習場所として利用させてもらっていた場所だ。今いる場所からならばそう遠くはなく、彰人の自宅からもそんなに離れてはいない。そこならばとすぐに了解の旨を送り、ひと仕事を終えたように溜息をひとつ。メッセージを送るのに緊張していたのか、今の状況がそうさせているのだろう。俺は無意識に強く握り締めていた携帯をポケットに放り込んで、彰人に言われた公園へと足を向けた。

    ビビットストリート。
    昼間と違い、夜になるとここはなかなか近寄り難い雰囲気になる、らしい。ずっと拠点として活動してきた俺と彰人にとってはとても馴染み深く居心地の良い場所だが、小豆沢なんかは初めて来た時は怖かった、と言っていた。

    (……懐かしいな)

    もうあれから随分経つ。これまで衝突することもあれば、譲り、助け合うこともあった。小豆沢に厳しい言葉を投げていた彰人も、今では彼女を信頼している。そう言えば、彰人と初めて喧嘩したのも小豆沢がこの通りに来るようになってすぐの頃だったか。

    (本当に、懐かしい)

    この通りにはたくさんの思い出がある。彰人と出会い、ストリートミュージックを知り、仲間とひとつの夢を見た。俺のすべてと言っても差し支えのない場所。そこを抜けると、彰人との待ち合わせの公園が見えてくる。公園内には夜の闇でも霞まないオレンジ色がすでにあった。

    「……彰人」
    「冬弥、何があった」

    間髪入れず、とはこういうのを言うんだろう。俺の姿を見るやいなや、彰人はそう問うてきた。メッセージで送ったのはたった一言。特に説明をしたわけでもないのに、彼は何かを察してくれたらしい。真っ直ぐにこちらを見詰める瞳は真剣そのものだが、どこか気遣うような優しさも感じた。

    「また親父になんか言われたのか」

    あまり顔に出ない、わからない、と言われる俺の変化に気づいた彰人が今までもよくかけてくれた言葉。それに対して俺はよく、何でもない、と返すことが多いが、今回ばかりはそうもいかない。俺が呼び付けたようなものだし、何より、事態が事態だ。たとえそれが認めたくはない、口にしたくはないことでも、言わなければならない。息を整え、ギュッと手を握る。この後彰人がなんと言おうと、受け入れなければ。それを覚悟して、俺は口を開く。

    「……俺を、海外に……連れて行く、と」
    「……………は?」

    彰人が、理解できない、というように目を見開く。それが俺とまったく同じ反応で、場違いかもしれないがおかしく思えてしまい、笑みが零れる。それで緊張がほぐれたのか、体の強ばりがほんの少しだが解けた気がした。

    「何笑ってんだよ。笑い事じゃねぇだろ、それ」
    「あぁ、そうだな……すまない」
    「そうだなって、お前な……」

    彰人は苦笑しながら髪を掻き回す。

    「で?なんて答えたんだ?」

    行くつもりなんてないんだろう?
    言葉には出さないが、青朽葉の瞳はそう言っていた。
    もちろん、行くつもりはない。父と海外になど行きたくはないし、行けば戻れない。だからこそ、こうして彰人に連絡をした。だが、その意志を父には伝えていない。

    「……おい、冬弥?」

    何も返さない俺に痺れを切らしたのか、最悪を想像したのか。眉間に皺を寄せ、険しい顔でこちらに返答を促してくる。

    「………何も……言っていない」
    「………何も?」

    彰人のオウム返しに、あぁ、と答える。
    俺はあの時何も答えていない。否、答えられなかったが正しいか。メンバーや彰人と引き離される未来に頭が真っ白になってしまって、話を勝手に押し進める父に待ったをかけることも、ましてや自身の気持ちを口に出すこともできなかった。とはいえ、あの場で頭が正常に働いたとて反抗できたかは怪しいが。これまでの活動を通して自らの考えや感情を表に出すことは以前よりできるようになったが、それでも父の前ではまだ恐怖が勝ってしまう。

    そう彰人に言いながら、そんな自分が情けなくて俯くと、ぽん、と優しく頭に手の平が乗せられた。大きくて温かい、彰人の手だ。

    「そのまま『はい』って言わなかっただけでも、大分進歩してんだろ」
    「……………っ、あき、と……」

    子供をあやすように、乗せられた手に頭を撫でられる。

    小さな頃から、感情を押し殺して生きてきた。辛くても、嫌でも、父の言うことは絶対で。家の中ではそれが当たり前だった。父の考えや方針に従えない俺の方がむしろ異端で、家という狭い領域で生きてきた俺は世界とはそういうものなのだと思っていた。だが、そうではないのだと、この手が教えてくれた。胸の奥の奥にしまい込み、凍りついていた俺の心を溶かしてくれた。

    そして、それは今も。

    「………っ、……ぅ」
    「冬弥?……なんだよお前、泣いてんのか?」

    いつまで経っても言い返せもしない俺を笑うでもなく、叱責するでもなく。優しく受け止めてくれる彼の存在が有り難く、また愛おしい。抱え込んでいた感情が、雪解けのように溢れ出る。それを彰人は、仕方ねぇな、と親指で拭ってくれるが、やがて追い付かなくなったのかパーカーの袖に切り替えていた。

    「あきと、袖が汚れてしまう」
    「構わねぇよ、別に……いや、どうせ泣くならこっちにしろ、冬弥」
    「……ぇ、あっ……」

    ふわりと、まるで壊れ物を扱うように彰人は俺を抱き締めた。そうして、彰人は肩口に顔を埋めて泣く俺が落ち着くまで何も聞かずに、ただ頭を撫でてくれた。

    「それで、だ」

    短いようでそうでもなかった人生の中で溜め込んだものを出し切り、一頻り泣いた俺の涙がすべて彰人の肩に吸い込まれていった頃、彰人は公園に設置されている水道でハンカチを濡らしながら口を開いた。

    「どうするつもりなんだ?」

    話題はもちろん、これからのこと。俺も1人で考え、ひとつの答えに辿り着いた問題だ。

    (彰人にも、伝えないと……)

    そして、彰人がそれをどう受け取り、返してきたとしても彼の気持ちをきちんと受け止めなければ。自分の意志を表に出すのは未だに慣れないが、彼には言える。しっかりと、耳を傾けてくれるとわかっているから。安心して自分を出せる。大丈夫、と自身に言い聞かせた。

    「きっと、ここから逃げたとしても連れ戻される」
    「……だろうな」

    キュッ、と音を立てて蛇口が閉められ、彰人はハンカチを絞りながら俺の言葉に同意を示す。

    「だから諦める……なんて、言わねぇよな?」

    余分な水分を落としたハンカチを手に振り返った彰人は笑っていた。相棒として、恋人として、信じている。そんな目で。その瞳に思わず場違いにもドキリとしてしまう。

    「……俺は、彰人の傍にいたい……だから……」

    あぁ、と頷き、言い淀む俺を見て彰人はその言葉を口にした。まるで、俺の出した答えを知っているかのように、俺の後を引き継ぐように。

    いいのか?彰人は、それで。

    そう聞こうとした俺の泣き腫らした目元に、よく冷やされたハンカチが押し付けられる。

    「ばーか、聞くなよ。今さらだろ」

    照れたような声色で言われた言葉は優しくて。冷たいはずのハンカチも、どうしてか温かくて。また涙が出そうになった。



    「海、見に行かねぇ?」

    公園を出て、さて、やることは決まったがどうしようか、という時、彰人はそう提案してきた。人生においてあまりその場所と接点のなかった俺は夜のそれを見たことがない。俺は半ば好奇心で頷いた。

    夜も遅いからか疲れ果てたサラリーマンたちに囲まれながら海に近い駅まで電車に揺られる。親に内緒で家を抜け出し、電車に乗って離れた所に行くだなんて、なんだか本の中でたまに見かけた駆け落ちのようだ。まぁ、事実やっていることはほとんどそれなのだが。そんなことをぼんやり考えていると目的の駅に着き、そこから2人で海までの道を歩く。

    間違っても暖かいとは言えない季節。夜更けの海に来る人などおらず、道中に人気はない。彰人と歌うようになってからは日が暮れて月が顔を見せるような時間にも外にいることが増えたが、さすがに普段寝ているような時間まで出歩いたことはなかった。だからか、少しドキドキする。

    「お、見えてきたな」

    彰人の言葉と同時に潮の香りに鼻腔をくすぐられた。海そのものには何度かメンバーと共に訪れたことはあるが、それでも嗅ぎ慣れない匂い。よく夏になるとテレビの中ではそれで涼めているのかと疑問に思うほど人でごった返しているが、今はどこにも人影はなかった。

    思い出の中にあるそれは青い海原と雲の白が織り成すコントラストが爽やかで、海水浴を楽しむ人々の笑い声が絶えなかったというのに。今目の前に広がるそれは底の見えない深い闇のようで、美しくもあり、また、一度手を出せば戻れなくなるような怖さを感じさせ、体の奥が冷えていく。暗いだけでこんなにも簡単に俺は恐怖するのか。自身に呆れてしまう。

    「……っ、彰人?」

    不意に、右手が温かな温もりに包まれる。彰人の手だ。

    「怖いか?」

    足を止めて、俺の右手を掴んだ彰人は体温を分け与えるように両手で摩ってくれた。そこから伝播するようにじんわりと、まるで塗り替えるように冷えがなくなっていく。無意識のうちに息が詰まっていたのか、緊張していたのか、それも解けるように呼吸が楽になった。

    「……いや……今、大丈夫になった」
    「ん、そうか」

    もう一度、手を繋いだまま海に視線を向ける。今の今まで怖かったはずのそれは、月明かりが幻想的な美しいものに見えた。

    「彰人は凄いな」

    いとも容易く俺の心を動かしてしまう。そしてそれがなんとも心地よい。何がだ?と言っている彰人に、何でもない、と笑って返す。納得のいかない顔を見せたが、彼の中で決着が着いたのか、聞き出すのを諦めたのか。付き合ってほしい所があると言う彰人に手を引かれるまま、俺たちはまた歩き出した。

    階段を降りて砂浜を歩く。サラサラとした砂の上は普段歩いている道を行くのとはまったく感覚が違い、歩きにくい。明るい昼間だった以前と違い、今は月だけが頼りのため、なおさらである。そうして苦労して砂浜を歩き、昔は道があったのだろう岩場を越えた先にあったのは、ひとつの古びた教会だった。

    「………彰人、ここは……?」
    「教会。もう使われてねぇけど」

    付き合ってほしい所、というのがまさか教会とは思っていなかったため、困惑している俺を後目に彰人は噛み合わせの悪くなった扉をこじ開け、スタスタと迷うことなく中へと入っていった。使われていないとはいえ、勝手に入ると不法侵入なんじゃないかと気が引けたが、冬弥、との呼び声に彼の後を追って、俺も扉をくぐり抜ける。

    「…思ってたよりボロいな…」
    「そうだな」

    割れたガラスやゴミが散乱する床に、所々蔦が這う壁。一歩進むたびに埃が舞い、人が寄り付かなくなってからかなりの時間が経っているのがひと目でわかる。ただ、祭壇のその先。ステンドグラスに描かれた穢れなき聖母の存在だけが、ここがかつて人々が祈りを捧げていた場所であることを伝えていた。

    廃墟など来たことはないが、ここはあまり喉によくなさそうだ。立ち篭めるカビと埃の混ざった臭いに条件反射的にそんなことを考える自分に笑いそうになる。もう歌うことはないというのに。

    「それで彰人、ここにどんな用があるんだ?」
    「ん?あぁ、そうだな」

    俺にそう聞かれた彼がポケットを探って取り出したのは小さな箱。その形、意匠にひとつの仮説が脳内で組み上げられ、即座に理性がそれを止める。
    それはお前の都合のいい妄想にすぎない、と。
    しかしそんな俺を置き去りにして、彰人は俺の前に跪いた。ドクン、ドクン、と強く早鐘を打つ心臓がうるさい。これでは、彰人の声が聞こえないじゃないか。

    「冬弥」

    歩くと埃が舞い、割れた窓から月明かりが差し込む教会に彼の声が響く。それから1回、2回。目を閉じ、大きく深呼吸をして、再度現れた青朽葉は真っ直ぐに俺だけを映していた。

    彰人の持つ小さな箱がゆっくりと開かれる。きっと、中にあるそれは一般的に高価な物ではないのだろう。だが、たしかに月光を受けて煌めくその銀色は俺の目にはこの世のどんな装飾品よりも尊く、また価値あるものに見えた。

    「冬弥……オレと、結婚してください」

    これまでに聞いたことがないような迷いのない声色で、彰人はそう告げた。

    あぁ、俺はあと何度、この瞳に、声に、彼の存在に。心を奪われるのだろうか。

    俺なんかでいいのか。
    後悔させてしまったらどうしよう。
    様々な思考が入り乱れ、けれどそのすべてが涙に溶けて流れていく。そうして出た言葉は浮かんできたそれらとは比べ物にならないほど単純なものであった。

    「……………はい」



    「怖いか?」

    少し前に聞いた言葉を彰人はまた俺に投げかけてくる。その声は酷く穏やかだ。吹き荒ぶ風は頬を撫でるなんて生易しいものではなく、削ぐように冷たく強いものなのに彰人の声はそれらに押し潰されることなく俺の耳に届く。

    「彰人が、手を握ってくれているからな」

    だから、大丈夫だ。
    そう彰人の問いに返せば、ギュッと手をより一層強く握られる。俺の右手を握っている彼の左手の薬指では教会で俺が付けたシルバーが輝いていた。それが俺の左の薬指にもあるのだと思うと、また色々なものが溢れてきそうになる。

    慎重に前へ前へと歩を進め、あと一歩というところに立つ。

    断崖絶壁。そう評するのが妥当なそこは、高所が苦手な俺にとって恐怖以外の何物でもない。けれど、その先に彰人との未来が待っているのだと思うとそれは和らぐ。岩肌にぶつかる波の音が遠くに聞こえた。今いる崖の上から海までの距離はかなりあるようだ。意識するだけでおそらくは俺の気が遠くなるような、血の気が引いてしまう高さに違いない。

    「冬弥」

    彰人に抱き寄せられ、それからまた手を握られて指を絡められる。彼は笑っていた。恐怖もなく、不安もなく。

    (……よかった)

    俺との未来を直前で悔いていたらどうしようかと思ったが、心配はいらなかったようだ。いつだって自分にも他人にも厳しく真摯な彰人が後悔など、そんなことするはずはないのだが。いつだって迷うのは俺の方だった。

    「彰人」

    月の下、教会で愛を誓った。
    迷いはなく、覚悟も決まった。
    ならば、後は踏み出すのみ。

    「幸せになろう」

    そう言ったのはどちらだったか。
    もしかしたら、2人でだったかもしれない。

    俺と彰人は示し合わせたように、同時に跳んだ。

    それはきっと、現実の時間にして数秒。地面に別れを告げて、やってくる浮遊感に負けないために彰人の手を強く握る。冬弥、と世界で最も信頼し、愛する彼の声と共に体を引き寄せられて、唇を塞がれる。それと時を同じくして、俺たちは冷たい海に呑み込まれた。

    体を引き裂くような、無数の針で刺されるような痛みが襲う。あぁ、これは長くは持たないだろう。本能でそう感じた。彰人の腕が背中に回され、きつく、きつく抱き締められる。俺も同じように返すけれど、悲しいかな、あまり腕にも指にも力は入らない。これまで大事にされてきた癖に、こんな時に役に立たないとは。

    凍てつく暗い海の中。熱が奪われていくのに、彰人と重ねている唇だけが熱く、それがたしかに彼は今も傍にいてくれるのだと教えてくれる。人が生きるのに必要不可欠なものが徐々に不足していき、ただちに浮上せよと脳のどこかが遠くの方で言っていた。

    (……きもち、いいな)

    命が緩やかに停止へ向かい、苦しいのだろうとぼんやり思うのだが、しかしこの場所はあの家の中よりずっと居心地がいい。彰人がいて、彰人を感じられて、彰人の腕の中。家も、家族も関係ない。本当の自由。こんなに素晴らしいことは他にはない。

    彰人も、今そう感じてくれているだろうか。もしそうなら、とても嬉しいのだが。

    意識が段々と紐を解くように薄れていく。いよいよ終わりが近いらしい。

    今思えば、なんてことのない人生だった。音楽に縛られて、音楽に生かされた人生。だが、愛する人に出会えて、信頼できる仲間と夢を追った時間は何物にも代えがたく、俺の中で数少ない誇れるものだった。

    (白石たちには少し申し訳ないことをしたな……)

    突然こんなことをして、彼女たちは怒るだろうか。彰人の家族は俺を恨むだろうか。

    (……ごめんなさい)

    あなたたちの大切な人を奪ってしまって。そうは思うのだけど。心のどこかで仲間より、家族より自分を選んでくれたことを喜んでいる自分がいる。

    (……ごめん、なさい)

    いつから、こんな我儘になってしまったのか。あの家の中が世界だった頃は、自分の手の中が空っぽだったとしても何も思わなかったのに。今はもう、無理だ。

    彰人がどんな答えを出しても受け入れる、と心に決めてはいたけれど、それもきっと自分についた嘘。本当はわかっていた。彼が俺と同じ答えに辿り着いてくれると。

    あぁ、ごめんなさい、彰人。

    (彰人を誰にも譲りたくないんだ……)

    こんなに我儘でごめんなさい。でも、これが最初で最後の我儘だから。もう、何も望んだりしない。何もいらない。だからどうか、許してほしい。

    彰人だけは奪わないで。

    (……あぁ、そうか)

    父は彰人を悪い友人だと言い、彰人もそれを皮肉って『BAD DOGS』、仲のいい友人なんてユニット名を付けた。けれど。

    (……悪い友人だったのは、俺の方か……)

    こんな状況を作り出して、後悔するどころか幸福しか感じていないのだから、そうなんだろう。

    最後の力を振り絞り、俺は愛する人を強く抱き締めた。
    誰にも奪われないように。








    わん。











    意識が急速に浮上する。
    瞼を持ち上げ、周囲を見渡せば、そこはなんてことはない。よくよく見慣れた自室のベッドの上。起きたばかりだと言うのに呼吸は乱れており、肩で息をしながら、オレは前髪が張り付くほど汗の浮かんだ額を拭う。

    涙を流す恋人。
    月明かりが照らす海。
    朽ちた教会。
    そして――

    (……また、か)

    先ほどまで体験していた記憶に、頭を抱える。もう何度目だろうか。何度も何度も彼の終わりを、オレは見てきた。その度に、ここに戻ってくるのだ。

    傍に転がっていた携帯を確認すれば、見ていた記憶よりも少々早い時刻。これから、おそらく冬弥からのメッセージが来るだろう。そうして、おそらく彼はまた、あの答えにたどり着いている。これが始まった当初のオレも行き着いた、あの答えに。

    どうしてこんなことが起きているのかは、わからない。けれど、愛しい人が苦しみ、涙するところなんて、そう何度も見たいものではない。

    (やっぱ飛び降りはダメか)

    彼の体に深刻な傷を残さない、いい方法だと思ったが、そもそも冬弥に高い所なんて論外だった。かなりの回数を繰り返してきたため、その辺の判断が疎かになっているのかもしれない。それなら、とオレは自室を出ると、およそ人が口にするべきではない園芸用に母が購入したそれをペットボトルに移し替えて、カバンに詰め込む。

    (……と、あれも持っていかねぇと)

    ある程度準備を終えた段階でパタパタと自室に戻って卒業したら渡そうと思っていたシルバーのそれを手にすると、丁度冬弥からメッセージが届いた。内容はもう随分と見慣れてしまった文面。何度やり直そうと、やはり冬弥はあの道を選ぶようだ。まぁ、それならそれで、オレも異論はないのだが。

    必要なものを詰めたカバンを肩にかけ、家族に気付かれぬよう、オレはそっと家を出た。


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