時々子供になっちゃう兄様と一緒に暮らすことになった話2 尾形百之助は死ぬことにした。
別に悲壮感はない。一粒の涙を流すこともないし、淡々としたものだ。これまでの人生それなりに泥臭く生き抜いてきたのに、こんなに唐突に人生を終えようとしていることは自分としても予想外だった。だが父の死の知らせを受けて以来、何もかもがどうでも良くなってしまったのだ。
百之助の父は大企業の社長、母はその愛人だ。だが父は本妻との間に子供が産まれるとぱったりと来なくなり、そのうちに母は亡くなった。
自分たちを捨てた父を百之助は恨んでいたが、今になって思えばその気持ちをバネにして励んでいたのだろう。
だから、父の死で全てが台無しになった。なにもかもどうでもよくなって、遺産相続権も気持ちよく投げ出してやった。そうしてこれといった未練もなく、百之助はアパートの屋上から飛び降りた…はずだったのだが。
「兄様、夕飯はどうしましょう」
目の前には気の抜けた質問をする下まつげの長い美青年がいる。彼の名前は花沢勇作。父の本妻の子……つまり百之助の腹違いの兄弟だ。あの時死んだはずの百之助は、なぜかいまその勇作の家に世話になっている。
結論から言うと百之助は飛び降りに失敗し、勇作に保護されたのだ。それも記憶を失い子供に退行した状態で。今は元に戻っているが、死のうとするとまた子供になってしまう。わけもわからず途方に暮れてここに留まっているというわけだ。
「兄様はどんな食べ物が好きですか?」
「別に…」
聞かれて一瞬脳裏にあんこう鍋が浮かんだが勇作に言う気にはならない。亡き母が父の好物なのだと生前よく作っていた思い出のメニューだが、そういえば彼女の死後は一度も食べていない。
「では、普段はどんなものを?」
「そうですね…施設を出てからはスーパーの惣菜とか…」
「…施設で暮らしていらっしゃったのですか?」
「ええ、まぁ。」
勇作はショックを受けてあからさまに神妙な顔をした。百之助が何か喋るたびに勇作はよくこの表情になる。気まずいなら話しかけなければいいのに…というか早く家から追い出せばいいのに。彼がこの顔をするたび胸がスッとするやらイライラするやら、なんとも言えない感情に囚われるのが嫌だった。
「買い物に行きましょう、兄様」
「勝手に行ってください…俺は何も食べたくない」
「散歩すればお腹も空きますよ、ほら」
勇作は渋る百之助の手を少し強引に引っ張って立たせると、ジャージの上から薄手の上着を被せた。
「その格好ではまだ少し冷えますから」
それは皺ひとつない高価そうな服で、百之助には少し心地が悪い。しかも勇作のほうがひとまわり体が大きいので袖も余ってしまっている。
「やめてください、こんなの俺には似合わな…」
「では服も買いに行きましょう!」
「…いえ、やっぱりこれでいいです。」
ため息をつきながら百之助は勇作に連れられて玄関を出た。
外に出るのは勇作に保護された日以来である。一週間も経っていないはずだがもうずいぶんと前に感じる。高級感のあるマンションのエントランスを潜ると、気付かぬうちに桜は見頃を過ぎてすっかり散ってしまっていた。
「俺はこの辺りでウロウロしていたんですか?」
「はい、桜を見上げていらっしゃいました。」
何故こんなところにいたのかは、百之助自身にもわからない。アパートからの飛び降りに失敗した後、子供に退行した状態でここまで歩いてきたのだろうが、結構距離が離れているので歩き疲れて休んでいたのかもしれない。
「あの時兄様を見つけられて本当に良かったです。たまたまうちの前で立ち止まっていなかったら…」
呑気に微笑む勇作を見るとどうしても冷や水をかけてやりたくなる。百之助は意味ありげににやりと笑って言った。
「おめでたいですね。本当にたまたまだと思ってるんですか?」
「え?」
「偶然を装ってあなたに近付き、金を奪おうとしているのかもしれませんよ。子供に退行するのも放って置けないと思わせるための演技だったら?」
勇作はぱちくりと瞬きをしつつ百之助の言葉を聞いていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「それは、兄様が私を頼って来てくださったということでしょうか…?嬉しいです!」
「……」
早く偽善者の皮を剥いでやりたいのに、勇作はなかなか手ごわかった。哀れみなのか、親切のつもりなのか、本当の馬鹿なのか。よくわからないが、散々迷惑をかけているのに嫌な顔ひとつしないのだ。
「……嘘ですよ。」
なんだか馬鹿馬鹿しくなって百之助は肩をすくめた。
「わかっております。」
勇作が悪気なくニコニコと笑いかけてくるのが腹立たしい。
……こんな人間がいていいはずがない。
俺の心の中はどれほど親切にされようと、真っ暗な井戸の底のようにどろどろなのに。
勇作の優しさと高潔さが崩れ去る瞬間を百之助は待ち望んでいた。
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長身で端麗な勇作は人目を引くので、街を歩いているとよく通りすがりの人が振り返る。そしてそういう輩はきまって隣を歩く百之助を見て不思議そうな顔をした。あまり似ていないから兄弟だとは思われないし、かと言って友達のようにも見えないのだろう。
もっとも勇作本人は全く気付かない様子で、いろいろな話題でひたすら百之助に話しかけてくる。百之助はほとんど無言だったが、たまに生返事を返しただけでなにやらすごく嬉しそうにされるので正直困惑していた。
そうこうしている間に2人はスーパーマーケットに辿り着いた。マンションから徒歩5分ほどの場所にある、なんでも相場より高そうな店だ。百之助にはおおよそ縁のなかった場所である。
「兄様、スーパーの惣菜とはこういったものでしょうか?」
勇作が指さした先には無農薬野菜のミモザサラダやらイベリコ豚のアヒージョやらが並んでいて百之助は頭が痛くなった。
「…違いますよ、一個8円のコロッケとかです。」
「コロッケが8円で買えるのですか?!」
純粋な驚きに目を丸くしている勇作を百之助は薄暗い瞳で斜めから見ていた。つくづく住む世界が違うようだ。むしろ同じなのは父だけ。
「…で、何を買うんですか?」
「あ、そうでした!ええと…」
勇作はキョロキョロと店内を見渡し腕組みをして小さく唸った。
「…今日は鍋を作ろうと思います。」
「鍋。」
もう春なのに?と喉まで出かかった言葉を百之助は飲み込んだ。
「えっと、野菜は何が入ってましたっけ…。白菜と椎茸と…」
ぶつぶつ呟きながら勇作は次々にカゴの中に食材を入れていくが、どう見ても2人で食べるにしては量が多すぎる。百之助が黙っているうちにその後もあれこれ勇作はカゴに突っ込み、鍋を作るだけだというのに会計の額は2万円近くになった。
持ちきれないくらいの大量の食材をなんとか1人で抱えようと四苦八苦している勇作に、さすがの百之助もつい我慢できずに苦言を呈した。
「…勇作殿は買い物が下手ですね。」
「えっ、そ、そうですか…?」
「あまりのボンボンぶりに目眩がしました。…持ちますよ。」
百之助は袋の1つを掴むとスタスタとスーパーの出口へ向かって歩いていく。
「あっ兄様、荷物は私が持ちますので…!」
「…勇作殿に全部持たせると時間がかかりそうなので。」
「申し訳ありません…。」
勇作は頬を赤らめて兄を追った。
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家に着くと勇作は早速はりきってキッチンに立った。
「兄様はテレビでも見ながらくつろいでお待ちください!」
ソファに座らせられた百之助だったが、勇作の手際が悪すぎて正直テレビどころではない。面倒なので放っておきたいところだったが、野菜を切る手もおぼつかないので、諦めてうんざりとため息をついた。
「どいてください。俺がやります。」
「えっ!?いえ!私が…」
「いいから」
包丁を奪い取られると勇作は少し緊張して強張った。百之助がこの包丁を自分の首に当てたあの日のことを思い出したのだ。だが彼はそのまま鮮やかな手つきで人参を銀杏切りにし始め、タンタンとリズミカルな音がキッチンに響き渡った。
「わぁっ…すごいです兄様!もしや普段からお料理をなさるのですか?」
「……」
百之助は返事をせず、てきぱきと淡々と作業を進めていく。
勇作は料理をする兄の横顔をちらりと盗み見た。
顔にかかる漆黒の髪が白い肌に良く映えている。目を伏せた時に見えるその睫毛は思いのほか長い。気怠げな黒い瞳が視線に気づいてこちらに向くと、勇作はどきりとして固まった。
「あまり見られると手元が狂いそうです。」
「す、すいません」
「…具材を煮込んだらすぐ出来ますから、勇作殿はテーブルでも拭いててください。」
「はっ、はい!すぐに!」
慌ててテーブルの上を片付けつつ、勇作は混乱していた。
(兄様を見ていると時々何とも言えない気持ちになってしまう…どうしてだろう?)
思えば初めて会った時からそうだった。吸い込まれそうな深い瞳にどうしようもなく惹かれていた。あの時は初めて兄弟に会った感動のせいだと思っていたが何か違う気もする。
呆れた表情の兄も、困惑して黙り込む兄も、ふとした瞬間に少しだけ微笑む兄も、勇作にとってはそこに居るだけで尊いものだった。
(儚げだから、守って差し上げたくなるのだろうか…?)
とにかくこんな気持ちになるのは初めてのことだった。相手の何気ない一言で子供のように一喜一憂してしまう経験も。勇作は誰にでも優しく穏やかに接することができたが、百之助相手だとてんでうまくいかない。
鍋はすぐに出来上がり、向き合って座った2人は黙々と箸をすすめた。百之助は急に口数が減った勇作を不審に思ってぽつりと呟いた。
「…口に合いませんでしたか」
「い、いえ!まさか!すごく美味しいです!」
勇作の言葉に嘘はなく、ただ自分の中に生まれたなんとも言えない感情について考え込んでいただけだった。百之助は勇作の様子に改めて首を傾げつつ尋ねた。
「ところで、勇作殿はなぜ鍋を作ろうと?好物なのですか?」
「…ええと、鍋なら作れるかな、と思ったのです。結局兄様の手を煩わせてしまいましたが…」
「なるほど」
勇作は気持ちの整理がつかないまま、おそるおそる再び兄に視線を向けた。百之助は肉団子を冷まそうとふうふう息を吹きかけている。温度を確かめるためにそろりと出てきた舌は、肉団子を舐めた後すぐに引っ込んだ。まだ熱かったらしい。
真っ赤な舌の色がなぜか目に焼き付いてしまって勇作は瞼を押さえた。
「…なんです?」
視線に気付いた百之助が眉根に皺を寄せて勇作を見る。
「なんでも……あっ!そうだ、兄様はお酒を飲まれますか?一応買っておいたのですが…」
勇作は慌ててばたばたと立ち上がり、冷蔵庫からビールを取り出してきた。
「そんなものまで買っていたんですか。道理で荷物が重いと…」
百之助は呆れた表情を浮かべたが、一方で酔った勇作がどんなふうになるのか興味が湧いた。酔ったら聖人君子の仮面が剥がれるかもしれない。品行方正そうな様子からするとあまり飲み慣れていないだろうし。
さぁ無様をさらせと薄く微笑を浮かべて、百之助は勇作のコップにビールを注いだ。
「あ、あにさま…」
「酔った勇作殿が見てみたい。」
「私はお酒はあまり…。兄様が飲むなら飲みますが」
「ははあ、では飲み比べでもしましょうか。」
百之助は勇作の手を押しのけて自分でコップにビールを注ぐと、そのまま一気に飲み干した。
「さあ次は勇作殿の番ですよ」
「は、はい。では…」
勇作もおそるおそるコップを手に取ると同じように一気に飲み干した。
このような感じで唐突に始まった飲み比べだが、百之助の予想に反して勇作が酔いつぶれる気配は一向になかった。勇作はあまり酒に興味がなくほとんど飲んだことがなかったが、実は本人も知らずかなりの酒豪体質だったのである。
「ふう」
百之助は熱いため息と共にテーブルに肘をついて前傾姿勢になった。酒に弱いわけではないはずなのに何故…?と忌々しげに勇作を見やる。
「勇作殿、なかなかお強いですな」
火照ってほんのり色付いている百之助のうなじから、勇作は思わず目を逸らした。
「そ、そのようですね。あまり酔わない体質なのでしょうか…」
「はぁ…つまらない…」
百之助はずるずるとその場に寝転がった。無防備にはだけた胸元から綺麗に窪んだ鎖骨がのぞいている。
「兄様、大丈夫ですか…?」
「ん…」
「少し水を飲まれた方が…」
「……」
百之助は既にすうすうと寝息を立てている。勇作はどうしようか迷ったが、やさしく肩を抱くようにして兄の上体を起こした。
「ほら、兄様…水を……」
しかし百之助は目を覚さない。このままコップを傾けて口に水を注いでも、溢してしまうか咽せてしまうだろう。
「兄様…」
「……」
勇作は困っている一方で、ぐったりと体を預けている兄の寝顔から目を離せないでいる。全てを見通すようなあの瞳が閉じていると、百の助は意外なほどに童顔だった。可愛らしいなどと思ってしまうのはいけないと思う一方で、少しだけ開いた唇に触れてみたくて堪らなくなる。
逡巡の後、勇作は口に水を含んで兄と唇を重ねた。これは水を飲ませるため、やましいことなどない、と自分に言い訳しながら。
「ん…」
ぴくりと百之助の体が震え、ふに、と柔らかい感触が勇作の唇に伝わってくる。舌でそっと歯列を押し広げ、ゆっくりと水を流し込むと百之助は少し苦しそうに喉を鳴らしながらそれを飲み込んだ。
「ん…んく……」
反った白い喉元に口元から溢れた水が伝っていくのを眺めつつ、勇作はもう一度口に水を含み兄の上に覆いかぶさる。
「んん……う…」
初めは遠慮がちに恐る恐る重ねられていただけの口付けが、次第に我を忘れてどんどん深くなっていく。酒に酔ったことのない勇作だったが、百之助の呼気に当てられたように頭がくらくらと混乱してきた。
(いけない…これは……)
我に返った勇作は流されそうになる自分を押し留め、兄から急いで離れようとした。だがその瞬間触れ合ってしまった舌先を絡め取られる。
「…!?」
驚いて顔を上げると、百之助は薄目を開けてぼんやり笑っていた。目が合った瞬間、勇作の心臓は爆発しそうなほどうるさく鼓動を打った。
「あ、兄様…」
金魚のようにぱくぱくと口を開閉するが何も言葉が出てこない。百之助はぺろりと唇を舐めると興味なさげに目を閉じて一言だけ呟いた。
「……熱い…」
再び腕の中で眠りについてしまった兄の顔を見下ろしながら、勇作ははっきりと知覚していた。
自分が明確に兄に恋してしまったことを。
つづく