2023年6月 帰り道「杉元ー。尾形ちゃん呼んでおいたからちゃんとおウチに帰りなよー」
やけに膜のかかった音声で白石が叫ぶ。ああ、酒のせいか。酒のせいで変な風に聞こえているんだ。「じゃあね」とまた膜のかかった声で言いながら白石は俺を置いて歩いて行ってしまった。歩き去る白石の後ろ姿はふらっふらで、あいつどんだけ飲んだんだと呆れて見ていたが、そんな白石が俺には逆さまに見えていた。白石の方が全然マシだ。俺、ひっくり返ってるじゃん。思えば背中に感じる硬い質感はアスファルトで、日中の暑さをまだ溜め込んでいるのか生ぬるい。酔っぱらいの俺的には少し冷たい方がありがたいのにな。だけど気温は涼しくて、このまま眠ってしまえたらどんなに気持ちがいいかと思った。
そういえば白石は尾形を呼んだと言っていた。ああ、尾形に迷惑かけちゃうなぁ。だったらここで寝ちゃって朝起きて家に帰った方がみんな楽なのに。白石め、余計なことしやがって。そうだ、帰りはタクシーを使えばいいんだ。そうすれば尾形の負担が減るぞ……あれ?財布に小銭しかない。あ、白石だ。ワリカンで、と言いながらアイツ持ち合わせが殆どなかったんだ。あれは絶対嵌められた、ちくしょう。次に会ったら奢らせる。しかし今夜はどうしようか。もうすぐきっと尾形が来る。だけど俺は動けない。救急車呼んじゃう?なんて。
もう何年もお付き合いしているというのに俺はどうしても尾形が好きで、かわいくて、優しくしたいと思っている。元々は反りが合わないからと喧嘩ばかりしていた。今じゃ考えられないが俺、あの尾形を、あの尾形の顔を殴ったりしていた。まあ俺もかなり殴られたけど。それがどうしてここまで一度も別れもせずに一緒にいられているのか。お互い始めの印象が悪かったからだろうか。もうマイナスはないのかもしれない。というか俺が尾形に対してマイナスに思うことがもうできない。俺は執着が強い方だと思う。そんな俺が見付けてしまったんだ、尾形を。俺からはもう離す気もないし離してやれない。俺のかわいい尾形。なのに!
「おいおい……」
俺の視界に逆さまの尾形が小さく映って、それが徐々に大きくなってくる。まだ少し遠くにいるのに、耳にもまだ膜がかかっているのに、尾形が呆れてため息をついたのが聞こえた気がした。俺が思っているより少し早く尾形が来てしまった。しかも俺の醜態を完全に目撃してしまった。嫌われちゃうよう!
「聞こえてるぞ。これくらいで嫌うか、ばか」
尾形はあっという間に俺のところまで来て、頭の所で立ったまま俺を見ていた。
「その割には眼光が鋭い」
「道路で寝てる奴に対してお似合いのリアクションをしてるだけだ」
それは確かにそうかもしれない。逆の立場なら俺だってそうする、かなぁ?それでも俺は尾形をそんな風に睨めないかもしれない。どんだけ好きだ、自分でも引くわ。
「タクシーを捕まえようと思ったんだけどお金がなくて……」
「白石と飲みに行くのに金が手元に残ると思ったお前が悪い」
「なるほど」
「タクシーなんて家までの距離的に要らねぇだろうが。お前、立てるか?」
尾形が俺に右手を差し出した。俺はひっくり返ったまま腕を伸ばしその手を握る。尾形の手は俺の手よりも少しひんやりしていて、それだけでもすごく気持ちよかった。
「よいしょ……、あれ?」
右手をぐっと引いて身体を起こそうとしたができなかった。俺は尾形と繋いでいる手を軸にして仰向けからうつ伏せになっただけだった。
「なぁ杉元よ。どんだけ飲んだらそこまでガクガクになれるんだよ」
尾形の言葉が後頭部に降ってくる。下を向いててよかった。今尾形の顔を見たら俺はきっと立ち直れない。尾形はそんな顔をしているはずだ。しかしこんなになっちゃった俺、どうしたらいいんだろ。
「仕方ねぇな。ほれ、ここまで這いずって来い」
え、どこまで?なけなしの力で顔を上げるとそこには尾形の尻が見えた。でかくて安定感のある尻だよな。時々無性に叩きたくなる尻。ふふ。俺は右手を伸ばしてその尻を撫でた。
「ちげぇ。おんぶだ、おんぶ」
尾形が俺の手を振り払って両手で自分の尻をぺちぺちと叩いた。ここだ、と伝えているんだと分かっていながらも尾形のその姿がかわいくて思わずへへ、と笑った。
「……置いて帰るぞ」
「ああっ、ごめん!頑張るから待って!」
俺は焦って謝りながらどうにかこうにか這いずって尾形の背中に縋り付いた。その間も尾形は両手で俺のシャツやらパンツの生地やらを掴んで引っ張り上げてくれた。
「んふぅ、お待たせ」
「酒くせぇ」
「えへへ、ごめんねぇ」
「ふん」
悪態をつきながらも何となく楽しそうな尾形の反応に気付いて俺はホッとした。
「しっかり捕まってろよ」
「あ……え?ええっ!」
尾形は俺を背中に乗せたままふらつきもせず立ち上がった。そして軽くジャンプして俺を支えやすい体勢におぶり直し、ゆっくりと歩き出した。
「ええぇ」
「何だよ、うるせぇな」
「いやいや、お前、俺だよ?」
「お前だな」
「ええ、重くないの?」
「軽くはないな」
「お前そんな力あんの?」
「お前なぁ……」
尾形は俺の問いにわざとらしいほど大きなため息をついてみせた。
「前から思ってたんだが」
大通りを抜けて閑静な住宅街の道にさしかかった。
「お前は俺を何だと思ってるんだ?まさかお姫様とでも思ってんのか?」
俺がぼんやりしていると、尾形はちゃんと見ろと言わんばかりに街灯の下で立ち止まった。
「力仕事はお前の専売特許かもしれんが、俺も一応男、なんだぜ」
「う、うん……」
そうだった。すごく当たり前の事実だった。なのに「当たり前じゃん」と即答できなかった。尾形は決してお姫様じゃない。だけど俺は本当に尾形が好きで、大事にしなくちゃと思い過ぎていて。きっとそういうことが霞んでしまっていたのかもしれない。
「こんな髭の生えた姫がいるかよ」
「いないです……」
「お前をおぶって歩き回る姫がいるかよ」
「いないです……」
「お前と同じパンツ穿いた姫がいるかよ」
「いないです。ちんちんあります」
「だろ?そういうことだ。だからもっと俺を頼れよ」
「……」
「俺からしたらお前の方がよっぽどお姫様だぜ。かわいくて堪らねぇ」
「あ、ありがと……」
ふふんと笑って尾形は再び歩き出した。そうか俺、かわいいのか。いや、そうじゃなくて。俺は改めて尾形のことを考える。暗い夜道でもうっすら見える白い肌の太い首。俺が両腕を掛けている程よく弾力のある厚い肩。俺を支える広い背中。そんな身体によく似合うがっしりした足。その全てが完全に男だし、そこら辺の奴よりずっと逞しい身体だと思った。多分比べる対象が自分だから見落としがちになるのかな。そうだとしても俺は余りにも迂闊だった。俺の尾形はかわいいだけじゃなかった。一体何年付き合ってきてるんだ。今まで何を見ていたんだ。めちゃくちゃカッコいいじゃん。
「なあお姫様。今度俺がお前を抱いてやろうか?お前は身体に分からせてやらんとすぐ忘れそうだからな、ハハァ」
尾形が冗談とも本気とも取れない口調で言って俺を軽く揺すった。
「ぜひお願いします」
俺はかなり本気でそれに答えた。