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    NoaNino

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    @NoaNino

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    NoaNino

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    悪夢に苛まれて死にたい夏(記憶なし)が、崖の近くで暮らす五(記憶あり)に再会する話

    ◼️

    最初にその夢を見たのは幼稚園の頃だった。

    誰一人いない真っ暗な街、不気味な空。迷子になったのだと思い、親を探して走り、肉の塊を踏んづけて転んだ。ふたつ並んだ塊は、手だったであろうものを私に伸ばし、私の名を呼んだ。

    瞬間、目が覚めて、心配そうに自分を覗き込む両親に抱きつきわんわんと泣いた。塊は両親の顔をしていた。

    次に夢を見たのは半年後、次は数ヶ月、小学校に上がる頃には月に1度くらいになった。悪夢を見て親に泣きつくこともなくなった。一人で布団を濡らした。
    中学になる頃には週に1度、2度、3度。最初は異世界のようだった夢はどんどん解像度が高くなり、現実の延長線上にあるものかもしれないと疑い出した。夢の中なのに五感に響く。
    両親も、少ない友達も、街の人々も、何か分からないものに殺された。化け物が湧き出て、空を舞い、動物とも人とも言えない声を上げ、生き物を肉の塊にする。私は何も出来ない。

    病院は何軒も行った。いろんな薬を処方されたが改善は一度もしなかった。眠るのが嫌になって徹夜をしたが、三徹したところで限界が来て、いつもより酷い悪夢を見た。自分が世界を壊している夢だった。

    終わりがない悪夢が毎日続くようになり、絶望した。この先何年も続くなんて耐えられない。
    希死念慮に囚われ、自殺未遂を繰り返した。なぜか死ねなかった。

    もうだめだ。

    全部嫌になって金だけを握りしめて家を飛び出したのが3日前。在来線に揺られ、夜は無人になった駅やバス停のベンチで過ごした。3日かけて辿り着いた自殺の名所は海を一望できる絶景で、自然の力が作り上げた岸壁は観光地としても人気があるらしい。
    崖は少し迫り出していて、見下ろせば波に削られた岩が点在し、吸い込まれるほどに深い。

    晴れてはいるが、まだ肌寒い春の平日。他に人影はなく毎年何十人も飲み込んでいるであろう荒れた波が崖下の鋭い岩にぶつかり白く弾けた。

    ああここなら絶対に死ねると安堵した。
    首に括ったロープは切れた、ナイフは思ったより深く刺さらなかった、駅のホームでは駅員に止められ、ビルの屋上では警備員に止められた。薬は苦しくて吐いた。ここでようやく終われる。

    「ねえ、」

    柵を掴み身を乗り出すようにして、波に飲み込まれる自分の妄想をどれくらい眺めていたのだろうか。

    「そこの。黒髪の。おニーサン?だよね」

    人の声に慌てて振り向けば、5メートルほど離れた場所に美しい男が立っていた。

    黒いTシャツに厚手の灰色パーカーを羽織っただけのラフな姿なのに、モデルかと思うくらい華があった。髪は銀色、白い睫毛に縁取られた青い瞳は宝石のようで、この世のものとは思えない。

    「暇なら屋根の修理手伝ってくんない?こないだの強風でトタン禿げちゃってさ、雨漏りしてんの。明日はもっと風強くなりそうだし、今日何とかしたくて」

    「え、いや、でも私…」

    「…死ににきた?……ここらに住んでると明らか観光じゃないなって人たくさん来るし、警察とももう顔見知り。そこから飛ぶ気で来たのは雰囲気で分かってるんだけど、うちの雨漏り本当にやばくてさ、時間あるなら手伝ってくれたら有難いんだけど。」

    自殺を止められるかと思ったのに、男は私の事情なんて気にもしないとでも言うように、自分の事情を語り出した。

    「…今日飛んでも明日飛んでも変わらないでしょ。あ、急ぎ?」

    急ぎの自殺ってなんだ。

    「いや…別に、急ぎじゃ、ないけど」

    酷く奇妙な出会いだった。無視して飛んだって彼は責めないだろうに、足は地面の続く方に向かって一歩踏み出ていた。
    いつだって飛べる、最後に人の役に立ったっていい。明日死のうがいつ死のうがいいんだから。

    そうしてその日は死に損なった。



    今日飛んでも明日飛んでも来週飛んでも変わらないでしょ、いつでも死ねるんだから。暇なら色々手伝ってよ。
    初日は屋根の修理、翌日は買い出し、翌々日は近所の老人の家の掃除を手伝わされた。手伝いをした後は野菜をたくさん貰った。

    悟は同い年で、数年前大学を中退してここにやってきたという。近所の人に親切にされて、景色を気に入り、持ち主不在のまま空き家になっていたこの家に泊めてもらい、そのまま居ついたらしい。

    別にここじゃなくても良かったんだけど、なんか景色気にいっちゃって、前はずっと忙しすぎたから、今回はゆっくりしながら人待とうと思って…ーー、悟はたまに奇妙な発言をしたけれど、そこから深く問おうとは思わなかった。

    私に死にたい理由があるように、悟がそれを聞かないように、彼にだって言いたくないことの一つや二つあるだろう。

    夢見は相変わらずで、時々急激に死にたくなる。夢から目覚めて、真っ暗闇の中外に飛び出す。
    崖まで行って、波の音しかしない暗闇を見る。

    なかなか1歩は踏み出せなくなっていた。



    自我の目覚めとほぼ同時期に前世の記憶が全部蘇った。
    幼稚園では硝子に、小学校では七海に会った。中学の学年主任は夜蛾先生で、高校のバイト先で灰原にも会った。硝子は過去の記憶が完璧で、灰原は時々前世の話を今世のことのように話す不思議クン、七海は半端に残る前世の記憶をオカルトだと信じない。夜蛾先生は全く記憶がないようだった。まあまあ皆と楽しくやれた。

    傑ともどこかのタイミングで会えるという楽観的な自信があり、探したりはしなかった。
    結果、随分待った。

    あの日、いつも通り外仕事をしている時に、崖に向かう人影を見た。観光にはまだ寒い平日。自殺志願者だろう、力ない歩き方をしていた。
    見かけてしまった手前、見て見ぬふりはできず、距離を開けて後を追った。
    崖に乗り出そうとする後ろ姿を見て、顔も見えないのに傑だと分かった。慌てるより先に再会の安堵があったし、興奮もした。
    呼び止めた傑に記憶がないと気づいても、落胆はしなかった。魂の形は傑に変わり無かったから。



    死のうとしていた傑と再会し、共に暮らしを始めた。家事、近所の手伝い、畑仕事。やることはそれなりにあるけれど、どれもそこまで急ぎじゃないし、手伝いでバイト代や食べ物の現物支給をされる穏やかな生活は、前世とは違うけれど気に入っている。人付き合いで食いつないでいるなんて、過去の自分が信じるだろうか。

    傑は自分の身の上話はほとんどしないが、普通に会話はできるし、文句も言わず手伝いもしてくれる。弱々しいながら笑顔も見せる。目の下の隈のせいか、申告した年齢よりも老けて見えた。

    昼間は普通に過ごしている傑が毎晩魘されていることに気づいたのは、一緒に生活し始めて3日ほど経った頃。僕の寝室まで聞こえるほどの呻き声を聞いて、飛び起きた。

    ベッドから降りた足が大きな音を立てた、傑の寝室、廊下、玄関のドア、全てが乱暴で大きな音を立てて、玄関から飛び出していった傑を訳も分からず追いかけた。今度こそ傑が飛ぶなら追うことに迷いなんてなかった。前世と違って痛みに対する恐怖がある体は未だ慣れないけど、傑と一緒なら良いと思った。

    傑は崖先の柵にすがりついて座り込んだまま、30分、…いや、1時間ほどそうしていただろうか。
    気が済んだのか、興奮が落ち着いたのか、諦めたのか。肩を落としてとぼとぼ歩いて帰ってきた傑の手を道の途中で掴み、家まで無言のまま帰った。手は冷えきっていた。

    傑が毎日のように魘され飛び起き、ろくに眠れていないこと、傑は多くは語ろうとしなかったが、恐らく長年悪夢に苛まれていることは何となく察した。それらの悪夢が前世に由来しているであろうことも、こっそり聞き耳を立てて何となく分かった。
    あんなに穏やかな顔で前世の死後の世界で再会し、輪廻転生を果たしたと言うのに、傑は輪廻の中に半端に、最悪な形で、良い頃の記憶を落としてきたらしい。罪の形だけ持ち越すのは傑らしい。

    無理に思い出させる必要もない。傑が望むことは何でもするが、夢の内容を僕に明かそうとはしない傑が望まないことには手を出さない方がいいだろう。
    傑が言いたくなったら何でも聞く、何でも一緒に背負う、今の自分にできることはまだ多くはない。

    居間から廊下を挟んだ向かいの部屋で物音がする。悪夢のせいで何度も目覚めるのか、それとも夢が見たくなくてなかなか寝付けないのか。前世では寝坊している僕を毎日のように起こしに来ていたのに、今は毎日朝寝坊だ。

    「おはよ、少しは眠れた?コーヒー?紅茶?緑茶?」



    「…ぉ…、はよ。コーヒー…」

    悟に挨拶したその足で居間の古いソファに一度座り込んでしまったら駄目だった。顔を洗って目を覚まそうと思ったのに、体が上手く動かない。ソファの端に寄せられていた毛布を手繰りよせ、体を包み込む。
    眠気と戦いながら、キッチンの物音に耳を澄ませる。豆を挽く音、薬缶が沸騰を告げる音、悟の鼻歌。やがて香ってくるコーヒーの香りを嗅いでも、瞼はまだ重い。

    「ほら、入ったよコーヒー。冷めないうちに飲もう」

    ソファの隅に悟が座る。薄ら開いた瞳、目の前のローテーブルにはカップが二つ。時間をかけて起き上がり、カップに手を伸ばす。私の遅い動作を眺めながら、悟は微笑む。
    「……ん、美味しい」
    少し冷めてしまったコーヒーは、私好みの深煎りで、濃さもちょうど良い。紅茶も、緑茶も、悟が入れてくれる飲み物は私の好みにどれも合っていて心地よい。出会ってまだ十数日しか経っていないとは思えないくらい、生活は体に馴染んでいた。
    「悟、コーヒー淹れるの上手だよね。ほかのお茶もだけど…、勉強とかしたの?」
    カップに口を付けながら、光る碧が落ちてしまうのではないかと心配するほどに悟は目を丸くする。
    しばらくカップの淵越しに私を見ていたかと思えば、愉快そうに笑って、カップを口から離した。悟のカップからはコーヒーの香りを打ち消すくらいミルクと砂糖の香りがする。

    「実家じゃ入れたこと無かったからやり方分からなかったし、下手だったんだけどね。学生時代に会った親友がすごく煩くて。……コーヒー豆の挽き方にお湯の注ぎ方から始まって、茶葉の量は正確にとか、紅茶と緑茶は適温が違うとか、湯呑は温めろとか…。インスタントでもまあまあ旨いし、小言うるせーなって思ってたけど、実際ちゃんと守ると上手くできちゃうんだよね。…傑の口に合うなら良かった」

    コーヒーを淹れるのが上手になった経緯を楽しそうに語った後、ほんの一瞬、細めた目が寂し気な色をした。もしかしたら本人も無自覚なのかもしれない。
    すぐにぱっと表情を変え、顔を上げたかと思えば、朝ごはん作るね、そう言って悟はキッチンに戻っていく。

    都会のど真ん中でも、どんな職業についても上手くいきそうな男が、こんな辺鄙なところで一人暮らし、細々とした生活に満足している。コーヒーの淹れ方だけじゃない。料理、家事、近所に住む人々とのコミュニケーション、もっとそのスキルの高さを生かせそうな場所はいくらでもあろうに、悟は今以上を求めているようには見えない。

    「上手いね」「親友に習って」「上手だね」「親友がうるさくて」
    素直に凄いと思って褒めたことは全部「親友」に与えられたと悟は言う。

    「傑?目覚めたなら顔洗ってきなよ。卵、スクランブルエッグで良い?」

    悟の何でもないくせに。ただ置いてもらっているだけのくせに。悪夢から離れられない自分に絶望して、死にたかったくせに。昨日も、今日も、明日も、ずっと死にたいくせに。
    悟の中にいる顔も知らない男に覚えた感情の名を受け入れられない。そんな感情おこがましい。

    私の死は急ぎじゃないし、今に始まったものじゃないし、植え付け時期には近所中が一斉に畑に出るから人手がいるって言っていたし…——。
    死にたいという思いとは真っ反対の、生きる理由を頭の中で並べる自分。人生の大半は死にたくて、その先に期待もしていなかったはずなのに、“嫉妬”なんて無縁の人生だったはずなのに、今の生活は少し心地よい。



    「あーあ、酷いことなってんね」

    今年最大級の勢力になると言われた台風は、本州に上陸した後も勢力を増し続け、僕らの住む辺鄙な場所を強い風と雨で襲った。家は強い風で朝から揺れ続け、数時間停電もした。
    外に出ることもできずに一日家に籠って過ごし、冷蔵庫にあったありもので夕ご飯を作り、二人で食べていた夜七時、爆弾でも落ちたかと思うくらい大きな衝撃。具体的には木が割れて砕ける音と窓が粉々に割れる音だ。
    家のどこかが壊れたなと冷静に食事を中断し、二人暮らしには広すぎる家のドアを端から開けて回る。傑の寝室の窓ガラスが飛んできた大きな何かによって粉々に砕け、壁の一部も引っ張られるようにして割れていた。
    古い家だ、台風の風雨で簡単に壊れてしまう。ただ同然で借りているから文句もなく、その都度直して生きているから落胆はしないけれど、びしょぬれになった傑のベッドは今夜眠れそうにない有り様だった。

    ブルーシートで応急処置をし、傑の部屋の戸を閉める。おそらく朝までブルーシートは持たないだろう。
    応急処置をしている間にびしょぬれになった体を順に風呂で温める。それから居間のソファで眠ると言って聞かない傑を僕が寝室にしている和室に引き込んだ。
    「寝るには狭すぎるでしょ、あのソファじゃ。二人で布団は狭いかもしれないけど、毛布多めにあるから敷布団の代わりに敷けば多少はマシだし。足伸ばして眠れる方が良いだろ。明日は壁の修繕もあるし、しっかり働いてもらわなきゃいけないんだから、しっかり寝ようよ」
    「……いや、でも…、私昔から寝つき悪いし、気づいてるかもしれないけど、夜中に夢見が悪くて起きてしまうから…」
    「気にしねえって。僕一度寝たら起きないし。ほら、寝よ寝よ。」
    布団から出て行こうとする傑の肩を掴んで引っ張り、布団に潜り込む。前世から数えて、どれくらいぶりに傑と同じ布団に入るだろう。少し温めの体温を引き寄せて、目を瞑る。
    「……その、寝言煩かったら起こしてくれ、そしたらすぐにソファ行くし」
    「うるせーな、気にしないってば。ほら、寝ろ」
    傑の匂いが鼻腔をつく。変わらない匂いがする。変わらない体温が傍にある。しばらくもぞもぞと動き、寝返りを繰り返していた傑は二時間ほどして漸く寝息を立て始めた。

    「おやすみ、傑」



    物心がついてから数えるほどしかないくらい久しぶりに、悪い夢を見ることなく、朝を迎えた。眠ったと思ったら何もなく朝だった。
    目が覚めると悟は相変わらず私を抱きしめていて、寝ぼけ眼で微笑む。いつもなら冷や汗で冷え切っている体は悟の体温が移って温かい。
    「おはよ、よく眠れた?」
    「ん……、すまないね、狭かっただろう?今日は部屋片づけて眠れるようにするから…」
    「壁はトタンとか板とか買ってきて適当にそれっぽく直せるけど、窓はガラス屋に頼まなきゃいけないし、おっちゃん暇持て余しているけど腰やってたし、今日は直らないかもね。壁もちゃんと直すならいろいろ道具要るし。……まあ完璧に直るまでここで寝たら?別に寝言も煩くなかったし、寝相も普通だし、平気だったよ」
    「いや、でも……」
    悟の体温は温かかった。吐息も、寝息も、私を抱きしめる肌の柔らかさも、全部。これまでの人生になかったもので、安心した。長年暗闇の中藻掻くだけだった夜を渡るのに、安堵できる場所だった。一晩寝ただけで偶然かもしれないのに、体は悟の腕の中の安心感を覚えている。
    「……ん、じゃあ、部屋直るまで、お世話に…なる」
    悟との関係はただの家主と居候、手伝いが欲しい青年と自殺志願者、それ以上でもそれ以下でもないのに、同じ布団に入って眠る。
    眠ることを恐れる必要がない日々、悟と体温を共にするだけで、これまでの人生を蝕んでいたものがあっさり癒える。悪い夢を見ない夜を過ごす日々なんて想像もしていなかった。1時間か2時間しっかり眠れれば上出来だと長年思っていたのに、こんなにも簡単に消え果てる。
    一時的なものかもしれないと分かっていても、夜布団に入る時に睡眠に嫌悪も恐怖も覚えなくて良い日々は物心ついて以来の幸福だった。
    このままここに居て、悟と共に眠るだけで地獄みたいな夜から離れることができるなら…ーー、アテもないくせにこのまま続くとは思えない平穏に思いを馳せながら、私は悟の腕の中で目を瞑った。



    腕の中で小さな寝息を立てる傑の顔を見る。あの頃と変わらぬ寝顔だ。
    傑は長年の睡眠不足を補うように、毎晩深く深く眠る。夢を見る隙なんてないくらい深い眠りに落ちた傑は、僕の視線くらいじゃ目覚めない。

    会えただけで十分だったはずなのに、一緒に住めるなんて夢みたいな時間だったはずなのに、腕の中に傑がいる。想像できなかったほどの幸せが手から溢れ、もっと我儘になる。

    抱きしめたい、キスしたい、愛の言葉を飽きるほど囁きたい、服に隠れた場所に触れたい。粘膜で混ざりあいたい、僕しか知らない声を聞きたい。深く深く抱き合いたい。

    弱った傑のすべて受け入れる。過去の自分にはできなかったことだ。それで十分すぎるはずなのに、欲望は溢れて止まらない。

    「すぐる......」

    情けない声は夜の闇に溶けて消えた。寝室には傑の寝息だけが小さく響いている。



    10数年間、物心ついてからずっと忘れていた睡眠の喜びを貪るように何ヶ月も過ごした。
    一度眠ればなかなか目覚めない。起きようと努力しても難しい。夜8時頃に眠りに落ちて、次目が覚めたら昼の12時すぎということもよくあった。2度寝するまいという決意も毎回あっけなく破れた。
    こんこんと眠る。寝溜めは体に良くないらしいが、体が欲しているのかいくらでも眠れた。冬になるとさらに眠気は強くなった。冬眠のようだと思った。
    さすがに寝てばかりではまずいから起こしてくれと悟に頼むも、急ぎの仕事は今日なかったし良く寝ていたからとかわされる。私が眠っている午前中に悟が家事や近所の手伝いなど、何かしらのひと仕事終えているのは聞かずとも分かった。

    「あ、起きた?おはよー、昼何にする?」

    昼過ぎに目覚め、居間に面した大きな窓辺に行けば、悟が雪掻きをしている背中が見えた。私にすぐ気づき、こちらに向かって手を振る。銀色の雪に溶けてしまうと思うくらい、悟は白く、頬だけが寒さで赤く染まっていた。窓を開ければ冷気が吹き込む。雪はまだ止みそうにない。
    「ん...、おはよ。お昼、私が作るよ。貰い物の蕎麦あったっけ?温かい蕎麦にしようか、お茶も入れるね、」
    「いいね。...玄関の方の雪片付けたら家入るー」
    玄関の方に向かって行く悟の背を見送り、顔を洗ってキッチンに立つ。室温を少し高めに設定し、冷えきった悟が喜ぶような具だくさんの温かい蕎麦と、熱いお茶の準備をする。
    美味しい、そう言って笑う悟を想像して、調理を進める。いろんな顔が見たい、できれば嬉しそうな、楽しそうな、幸せそうな顔を。
    柔らかな表情で自分の名を呼んで欲しい。ここにいない誰かの話よりも、悟のことが知りたい。

    我儘で、これは好意だ。自分には縁のないと思っていた気持ち、フィクションの中でしか知らなかった感情の意味を、死にに来た場所で知るなんて滑稽だ。

    「外寒すぎーっ、雪明日の昼過ぎまで降るって、片付けてもキリないわこれ。」

    すき、だいすき、たぶん。
    そばに居たい。このままずっと、何でもない日常でいい。せっかく築けた友情を壊したくない。

    「おかえり。午後は私も手伝うよ。とりあえずお昼にしよう、手洗っておいで」



    よく眠り、働き、食を楽しむ、なんでもない日々の繰り返し。出会った時の死にそうだった傑と比べると、随分顔色も良くなった気がする。

    久しぶりに雪が止み、買い出しに出かけた。
    今夜は鍋にしよう、明日からまた天気崩れそうだしついでに数日分の食べ物買っておこう、ついでに酒も、お菓子も。思いつくままに放り込んでいき、買い物カゴはすぐに一杯になった。
    最後に牛乳を買い、レジに向かう途中にあったケーキコーナーが目に留まり、立ち止まる。2月3日だ。

    「...ねえ、なんかケーキな気分じゃない?」
    「節分じゃなくて?ほら、豆、山積みだよ、恵方巻きにする?」
    「去年のクリスマス傑ずっと寝てたし、節分は昔さんざんやったしちょうど良くね?ほら、寮の廊下豆だらけにしてヤガセンに怒られ......、あー、いや、ケーキ食べたいし、ホールのやつ、」
    傑との時間が重なっていき、気が緩むことが増えた。それに伴い失言も増えた気がする。慌てて言葉を訂正するも、傑の表情は固まっていた。
    節分でケーキの需要は少ないらしい。端の方にシンプルなホールケーキがひとつだけ。それをカゴの1番上に乗せ、会計に進んだ。

    店を出る頃には傑の調子は戻っていて、とりとめない会話をしながら車で10数分、二人で住む家に戻る。少し休憩してから食事の準備。鍋を腹いっぱい食べてからのケーキ、漸く腹は満たされた。

    酒を久しぶりに飲んだせいか、互いにいつもより酔っていた。
    目の前の傑と記憶の中の傑が重なる。ああ、もう。

    「ケーキ美味しかったね」
    「そうだね、甘いの大丈夫だった?」

    僕の知っている傑は、僕に合わせてはくれていたが、甘いものは好きではなかった気がする。

    「うん、久しぶりにホールケーキ食べた。最後に食べたの小学1年か2年の誕生日とかかな、うちはクリスマスもあんまり祝わなかったし」

    「誕生日いつなの?」
    「……あー…、…えっと、今日」
    「はあ!?え?言ってよ、何も用意してないじゃん、え、え?お祝いに蕎麦茹でる?」

    前世の傑の誕生日を頭の中で勝手に祝うつもりだった。自分が前世とは誕生日が違うから、目の前の男もそうだと信じて疑わなかった。

    「蕎麦好きだけどもう入らないよ。気にしないで。ケーキ美味しかったし十分だよ」

    傑の笑顔が痛い。目の前のお前に向き合ったケーキじゃない。
    過去も、今も、大切にしたいのに、今日の僕は明らかに過去にしがみついていた。傑が見えていなかった。自己満足しかなかった。

    「いや、だめだろ!祝わないと!!…え、え?何か欲しいもんないの?明日とか買いに行くし、貯金はたいてでも何でもプレゼントするし。」

    傑は困ったように笑みを浮かべて、酒を呷る。

    そうだな、うぅん、えっとね、
    傑の視線がふわふわ揺れる。いつも以上に酔っているらしい。しばらく考えるような仕草をして、傑の視線は漸くこちらに向く。

    「...さとる...が、ほしい」
    「え」

    ぴたりと二人とも止まった空間、呼吸さえ聞こえなくて、古いストーブだけがうるさい。

    「わたしじゃ、だめか?」



    酔っていた。灯に照らされた悟の目が宝石みたいに綺麗で、その色に頭がぼんやり溶かされて、気づけば口から本音が零れていた。

    ほしい、生まれて初めて覚えた感情だった。

    「ぁ…」

    悟が目を見開いて私を見る。困惑か、嫌悪か。
    当たり前だ、今日まで普通に居候をしていた同性からそんなことを言われたら。

    「その…」

    言い訳なんて何も浮かばなかった。椅子から跳ねるように立ち上がる。暖かい居間を飛び出し、玄関まで一直線に走る。勢いを極力殺さぬよう、引っ掛けるように靴を履く、踵は潰した。部屋着では2月の海風は酷く冷たい。
    吹き付ける風雪に体温が急激に奪われ、体が痛い。雪がうっすら積もった道、滑り縺れそうな足を必死で動かす。ただあの日飛び損ねた崖に向かって走る。

    何を勘違いしたんだ
    死ぬためにここに来たんだ
    今日死ねる、やっと死ねる、今死ね、しね、しね、はやく。

    悟と眠れば死にたい理由はなくなったはずなのに、もうそれもできない。
    超えるべきでは無い一線を踏み超えたのは自分だ。

    50メートル、10メートル、5メートル、3メートル、あと数歩で地続きの場所が終わる。半歩踏み出して、強く力を入れて、蹴り上げて、勢いをつけて、手を伸ばしても手遅れなくらいに遠く、後悔しても遅い場所まで遠く、

    「傑…!!!!!」



    今度こそ傑が飛ぶなら追うことに迷いなんてなかった。前世と違って痛みに対する恐怖がある体は未だ慣れないけど、傑と一緒なら良いと思っーー

    良くない。

    無理。むり、むり、むり。

    ふざけんな、逝かせるか。

    靴も履かずに裸足で追った。雪と氷の道に面した足の裏は冷たく、痛いはずなのに、そんなの気にならなくなるくらい必死で走った。
    崖の寸前、一瞬、強く吹いた向かい風、押されて僅かに反った傑の背に手を伸ばし、掴んだ服を無我夢中で引っ張った。

    雪の上に体勢を崩した傑に伸し掛る。押し返され、逃げられそうになるのを抑え込む。

    離れろ、 うるさい、
    離せ、どけ いやだ、
    離せ、 やだ、やだ、もう、絶対離さない
    しぬから、いなくなるから、もう、さとる、ゆるしてくれ、しなせて、しなせろ、ごめん、すまない、さとる
    何、謝ってんのおまえ

    半狂乱になった傑を抑える。髪も服も雪に塗れて、雪の上に押し付けた傑の体は指先まで冷えきっている。僕も体が冷え、痛みが自由を奪う。でも離すわけにはいかなかった。
    二人の生活が楽しかった。傑とまた死に引き裂かれるなんて冗談じゃない。転生したってまた探し出す自信はあるけれど、今世いっぱい満足するまで手放せない。

    「…はー、はぁ、はぁ、ねえ、傑、落ち着いて…、死ぬのタイム。それで、ちょっと、聞いて。………僕も好き。傑のこと、愛している。……記憶戻らなくていいよ。僕にとって、前世、のお前、は…大事だし、ごめん、忘れんの無理、なんだけど、…今は、傑と居られるなら、…今世はもう何も要らない。好き、好き、大好き。」

    冷えて声が震える。体が冷たい。睫毛も鼻水も涙も半分凍りかけている。息を吸えば肺が冷たい。

    「だから、やっぱり…もう置いていかないで」

    全部手放せない。過去も、今も、未来も。



    好き。愛している。前世のお前。大事。今はすぐると居られるなら。大好き。
    寒さで思考が急激に低下したのか何を言っているかこれっぽっちも分からなかった。

    呆気にとられている私の左手を強く握り、悟は私を引っ張るように連れ帰った。
    無理やり手を離したら指でも折れそうなくらい強い力だった。死ぬなら指なんて折れたって構わないのに、振りほどけない。

    私の手を握ったまま、鍵をかけ、廊下を歩き、風呂場まで一直線。浴槽に熱い湯を溜め、濡れて冷たくなった服を脱がされる。自分で脱げる、君も風邪ひく前に脱げ、そう言ってやりたいのにそれが正解か分からない。悟は私の服を脱がすと、ほんの一瞬私から手を離して自分の服を脱ぎ捨てた。

    湯を浴び、男二人で入るのは狭すぎる浴槽に足を折ってぎゅうぎゅうに浸かる。悟は何も言わずに私の手を取りマッサージをしてくる。

    「さとる…あの、」

    何を言っていいか分からないくせに、沈黙に耐えられない。
    時間をかけてゆっくりマッサージされても、なかなか指先は温まらない。
    冷えすぎたせいか、体はいつまで経っても芯まで温まらない。奥深い場所がずっと冷たい。

    風呂から上がって、服を着て、悟に髪を乾かされている間もずっと体の奥が冷たかった。冷たさは広がり寒気になり、髪が乾く頃には暖かい室内なのに震えが止まらなくなった。

    世界が揺れる。思考が回らない。頭痛い。
    私の異常に気づいた悟が近づいてくる。額に伸びた手が私の額に届き、悟の手のひらの温度の心地良さに自分の発熱を自覚する。

    「…うわ、すごい熱。あんなに薄着で外で暴れ回ったらそりゃ風邪も引くよ。酷くならないうちに暖かくして寝よ。話はまた明日だってできるし」

    いつもより掛け布団を1枚増やして、悟と一緒に布団に入る。とんだ発言をして、死のうとしたのはたった数時間前なのに、いつも通りの布団の中。
    熱はさらに上がったらしい。体の震えはまだ止まらない。
    悟に風邪を伝染してはいけないと、布団から這い出ようとしては抱き戻される。悟の腕の中で、熱が上がり続け、頭が痛い。苦しい。ただの風邪じゃないかもしれない。
    眠りたいのに痛みが強くてなかなか眠れない。

    「頭痛い?冷えピタとか要る?持ってこようか?僕居ると眠れない?なら、居間で寝るけど」

    「……っ、い…やだ、」

    あんな醜態晒したくせに、離れたくない。悪い夢はもう見たくない。依存だ。悟がいない人生なんて考えられない。悟の服を握る。悟の腕が私の背に回り、優しく背を撫でる。

    「……ちゃんと居るから、安心して寝ていいよ。魘されてたらすぐ起こすし。」

    「ん……、」

    目を閉じ、体の力を抜く。頭の中を空っぽにして、ゆっくり息をする。悟の体温が、匂いが、呼吸が近くて心地良い。




    ああ、また悪い夢だ。悟と眠ってからずっと見なかったのに。

    真っ暗な街、不気味な赤黒い空。心身の成長に伴い、諦めがついた頭では親を探して走ることはないけれど、肉の塊を踏んづける感覚は夢でも慣れない。
    化け物がビルや地面から湧き出て、この世のものとは思えない声を上げる。化け物はやがて自分の手のひらからも体からも湧き出た。私の体から出た化け物は世界を壊す化け物と醜く絡み合う。

    肉片が飛び散る。血か何か分からない体液が自分に降り注ぐ。体からはまた化け物が滲み出る。止め方が分からない。熱を夢まで引きずっているのか体が痛い。血が足りないみたいに、くらくらする。



    「おーい、すぐるぅ」

    不安で、恐ろしくて、どうにかなってしまいそうな地獄で、酷く呑気な呼び声がした。

    空から飛び降りてきたのは悟だった。夢とはいえ、こんな世界に悟を無意識に作りこんでしまうなんて情けない。

    瓦礫を長い足で跨ぎ、軽い足取りで悟が近づいてくる。いつもと違う。黒い学生服のような格好で、顔立ちは少しだけ幼い。少しの違和感と、どうしようもない安心感が混ざる。


    「……俺の方片付いたから手伝い来た。あとあそこ一帯だけ?さっさと終わらせて帰って映画続き見ようよ」


    何、

    「……あぁ、すまないね、新しい呪霊が使えるか試してたら時間がかかってしまった」


    は?何言って
    悟の言葉は分からないのに、応じる言葉がするりと出た。

    「こないだの廃病院のキモイやつ?七海が大声出して気持ち悪がってて面白かったな」


    何が、
    口は止まらない。会話を自然にこなしていく。

    「慣れれば使い勝手は良いと思うんだ、索敵にも使えそうだし……、ちょっとコツが要る」

    私、なんで、

    「それで体力消耗した?なんか顔色悪いよ」



    なんで、わすれてたんだろう

    「え、何?なに?泣いてんの。どうした?腹痛?」

    戻らない青い春も、選んで散った雪の日も、あの世の入口で悟から聞かされた言葉も、いくら転生したって、忘れられるはずがないのに。



    「……な、んでも……ないよ。ちょっとゴミ入っただけ。さっさと片付けよう、悟。……明日は早起きして君に言わなきゃいけないことあるから、映画は明日の夜ね。」

    「はあ?今言えよ、何。」

    「……君だけど君じゃないから秘密」

    「頭打った?」



    夢の終わりから目が覚めるまでどれくらいの時間があっただろう。ふと意識が浮上する。明るい部屋、見慣れた天井、重ねられて重い布団、汗をびっしょりかいたせいか体は随分軽くなっていた。隣にいた男は少し前に布団から抜け出したのか僅かに布団に体温を残したまま。
    居間のほうに悟の気配がある。

    1秒でも早く顔が見たかった。



    寝室のドアが開いた。一歩目で廊下の床が軋んだ。歩く度に音を立てている。居間のドアが開く。冷たい廊下の空気と温めた部屋の空気が混ざり、傑が姿を現す。
    起きた時に額に手を当ててみたけれど随分顔色も良くなった。

    「おはよ、具合どう?コーヒー……、いや、病み上がりに良くないか。お茶でも入れる?ホットレモンとか作ってみる?ホットミルクとかココアとか、」

    傑は僕の質問に答えず、のろのろとキッチンに向かってくる。キッチンに立つ僕の背に凭れてきた体は薄ら汗に濡れていた。

    「水?喉乾いた?喉痛い?まだ気分悪いなら病院とか行く?30分くらい車走らせたら総合病院あるし、傑、保険証あるっけ?」

    「……大丈夫。コーヒー飲みたい。深煎り濃い目の、私が好きな苦いやつ」

    傑の腕が僕の腹のあたりをぎゅっと抱き込む。甘えたなんてらしくない。まだ体が辛いのかもしれない。

    「病み上がりに大丈夫?」

    「大丈夫。昔は任務から帰ってきて生傷だらけのまま徹夜で映画見てコーヒー飲んで硝子に朝一で治してもらって授業出て任務行って…なんて、よくやってたじゃないか。……言ってよ、最初にあの崖で会った日に。」

    心臓が途端に高鳴る。傑の腕に拘束された体を無理に捻る。1秒でも早く顔が見たかった。



    「……随分待たせたね、ごめん」
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