俺は生まれた時から神だった。
父親がそうであったのだから当然だ。
俺は別に選んでそうなったわけではない。勿論選ばれたわけでもない。例え片親が人間であったとしても、神の血を継いだらそう生まれるのはこの世界の摂理なのだから。
だが、俺より数年後に生まれた弟は違った。母親と同じ、なんの力も持たないただの人間だった。
まあ実際はただの人間よりは頑丈だったようだけれど、それでもなんの権能も持たない、見た目ですら全く神の特徴を持たぬ弟に父親はどうやら落胆したようだった。そして早々に弟を見限った彼は俺の教育に心血を注ぎはじめた。
母親はそれを憐れに思ったのだろう(少なくとも慈愛の心だけが動機だとは到底思えなかった)、一生懸命弟を慰めていた。
当然といえば当然だ。神という生き物の存在を知らず、父親や俺がそうであることも知らず、この家の中で自分だけがそれを知らないということさえ知らない母親からすれば、弟は何の問題もないのに突然投げ出された可哀想な子供なのだから。
俺は別に何とも思わなかった。
俺は神に生まれ、弟はたまたまそうではなかった。ただそれだけ。
もし俺が弟の立場だったとしても、きっと何も思わない。
だから特に優しくも厳しくも接しなかった。弟がどう感じていたのかは知らないし、興味も無いけれど。
*
俺には母親と話した記憶はほとんど無い。
物心ついた時には俺が父親に付きっきりで、母親は弟に付きっきりだったからだ。
もちろんそれだからどうだというわけではない。俺にとって弟が人間であるという異常も、母親が俺に一切無関係でいようとすることも、全く関心を持てなかった。ただ、まるで俺は父親の子供で、弟だけが母親の子供みたいだとぼんやり思った。
実際、母親は俺のことを好いていなかったと思う。ほとんど話したことが無いのはもちろん、彼女の俺を見る目が、ある種恨みのような嫌忌を含んでいたからだ。何故そんな目つきで見られるのか全く心当たりは無い。
しかし心当たりが無いからといって、それが勘違いとも思わない。母親が弟に付きっきりでなかったとしても、俺と必要以上の会話をこなすことは無かっただろう。そう思わせるくらいにはそれは顕著だったからだ。
———そう。実際会話は全くと言っていいほど無かったわけだが、母親は別に会話が出来ないというわけではなかった。俺に何か頼みがあったなら、きっと話しかけてきただろう。俺の方から話しかけていたら、二言くらいは返してくれたかもしれない。
母親はただ、俺と会話をすることが苦痛であり、必要以上の会話をこなしたくなかったのだ。
そして俺たちの間には必要な会話が全くと言っていいほど無かった、それだけの話。
*
唯一母親が俺に話しかけてきたのも、結局は弟絡みのことだった。
母親と会話することはない俺でも、父親の教育が済めば弟と話すことはそれなりにあった。父親は勿論、母親もあまりいい顔はしなかったが表立って止められることもない。
別に好き好んで話すわけではなかったが、俺にとって家の中での娯楽はテレビを観ることだけであり、同じ家に住む以上弟もまた同じだった。弟がテレビを見ているところに俺が合流する、もしくはその逆。そうなると自然と互いに口を開いた。
とは言っても弟は俺のことが嫌いだし、俺と話すのなんてごめんだと思っていたに違いないけれど。その証拠に弟の眉間にはいつも皺が寄っている。
まあ俺も別に弟のことは好きじゃない。
けど、嫌いでもない。
嫌いでなければ話すことになんら問題はない。思想の違う彼と話すのは俺にはむしろ丁度いい暇潰しになった。
だから母親はもちろん、父親にすら言ったことのない秘密を彼に打ち明けたのだろう。
「実は未来を知っているんだ」
その時の弟の反応は、面白いったらなかった。
眉間どころかこれでもかと鼻に皺を寄せて、いかにも胡散臭い、誰が信じるかと言いたいような顔。ませている弟らしい反応に思わず口角が上がった。
「ああ、少し語弊があったかな。知っているというより視えると言った方が正しいかもね」
弟は別にそんなのどっちでもいいんだけど、と文句を言った。確かに。弟にとってはどうでもいいことかもしれない。
それから弟は人を馬鹿にする笑みを浮かべて、「じゃあ今日の夕飯何?」なんて聞いた。
どうやら試す程度には機嫌がいいらしい。
それくらい視なくてもわかるけど。と心の中で前置きしてから、「シチュー。良かったね」(弟の好物だ)と答えると、弟はハナから興味無いみたいな声でふうん、と言った。まあ俺の話を信じていなければ、夕飯を知りたいわけでもないだろうから当然の反応だった。
どうせ夕飯まではこの話は終わりだろう。なんならお互い興味が無いあまり忘れてそのままなんて可能性の方が高い。そう思ってテレビに目を向けると、案の定弟は部屋を立ち去った。
この話をしたのに深い理由は無いし、万が一弟が父親にこの話をすると考えると———俺が母親と話さないように、父親も弟とは話さないのだからありえないと言っていいけれど———忘れてもらった方が都合が良いと思わなくもない。
しかし予想に反して弟はずっと早く帰ってきた。最初はただ用を足しただけかと思った。
だから、振り返って思わず言葉を失った。らしくもない。だけど仕方ない。そこにいたのは弟だけではなかったから。
「———」
俺はその人をなんて呼べばいいのか分からなかった。
その人は———いや、母親は何故弟が自分をここに連れてきたのか分からないと言った顔で俺を見つめている。そんな顔で見られても困る。俺が呼んだわけじゃないのだし。
まあ大方予想をつく。弟が母親を連れてきたのは、事の真偽を確かめるためだろう。ただ聞きに行くだけでは、合っていても嘘をついて俺に間違っていたと伝える可能性がある———と、俺が考えると思ったのだろうか? 別に構わないが、俺はそこまで性格が悪いわけではないと思う。少なくとも弟にそんな一面を見せた覚えはない。妙なところで公正な奴だと思った。
弟は母親に、先程俺にしたのと変わらない態度で「今日の夕飯何?」と聞いた。
母親は訳も分からないまま「シチューよ。好きでしょう?」と答えた。俺には向けられない、愛しむような目で弟を見つめている。
正直俺が母親から聞いていた(実際にはそんなことはあり得ないが、弟は俺ほど重大に捉えていない)とか、たまたま準備しているのを見たとか、考えられる不正は幾らでもあるし、そもそも弟の機嫌を取るためによく作るものだから適当に言っても当たると思うのだが、弟は目を丸くして「本当だった」と反芻した。
本当に兄さんは未来が見えるんだ、と弟が言った。
その時母親が、弟が産まれてから初めて俺に話しかけてきた。
どういうことなの? 変なこと吹き込んでいないでしょうね、この際だから言わせてもらうけどこの子には関わらないで———って。
はは、笑える。
母親が不安がっているのが果たして言葉通り弟のことなのか、それともそのせいで俺に話しかけなくてはならない自分自身のことなのか知らないが、なんにせよ俺からすれば面倒なことに変わりはない。
「別に何も」と俺は答えたが、弟は人の気も知らないで呑気に事の顛末を語った。それはもう、初めて見るような無邪気な笑顔で。
そのせいで母親の顔が歪むのを、俺はただ面倒だなと思った。