桜の花が咲く頃に 本丸の庭では今、桜が満開を迎えている。澄み切った青空を見上げれば、「お花見日和だね」なんて声がそこかしこから聞こえてくるような、そんな陽気。だけどお花見は昨日したばかりで、それはとてもとても盛り上がって、笑って、泣いて、最高の宴会だった。私は昨日の桜を、そして皆の笑顔を一生忘れないだろう。……いけない、そろそろ行かなくちゃ。
「主」
背後に控えていた和泉守兼定が私のことを呼ぶ。その声は無感情のような、かと思えば少しの弾みで涙を零してしまいそうな、矛盾した色を抱かせた。
「……はい」
振り返ってはいけない。約束したのだから、最後は笑顔で──と。
「本当に、行っちまうんだな」
「最初から分かっていたことです。きっとこの日が来るって」
「……ああ」
──一週間前。長きに渡る時間遡行軍との戦争が、無事に幕を閉じた。我々の勝利だ。歴史は我々の手で、たしかに守られたのだ。こんなに喜ばしく名誉なことは他にない。
突然の報せだった、だけれど薄々そんな予感は感じていたので驚きはしなかった。激化する戦闘に精一杯立ち向かって、たくさん傷ついて、それでも何度でもまた立ち上がった。次第に敵の勢力が弱まってきたのを察した私は、その頃から密かに身辺整理を始めていたのだ。だから急に「一週間で現世に帰れ」と言われても荷造りには困らなかった。こちらで入手した物品……たとえば写真だとか、重要書類の類いだとか、刀剣男士から贈られた物、万屋で購入した文房具までも……一式すべては現世への持ち帰りを禁止されている。最も、内密に荷物に忍ばせたとしても、こちらとあちらを繋ぐゲートをくぐった時点で消えてしまうそうだ。そうして最後に審神者が時間を超える時──本丸は消滅する。
皆、既にここにはいない。別れの挨拶を交わしていくうちに一振り、また一振りと、政府の命により強制的に刀解されていったのだ。あるものは笑顔で。ぽろぽろと涙を零して。耐えきれずに思いの丈を叫びながら。儚く消えていった。『物』が壊れてしまうのは一瞬だ。皆、たしかにここにいたのに。この広い本丸にいるのは私と彼だけ。和泉守が最後に残ったのは偶然か、近侍に任命していたせいか、はたまた神様の計らいか。まったく喜んで良いのかどうか分からない。
「主……いや、 。顔を、見せてくれねえか」
ざっ、と一歩踏み出した音と共に呼ばれた名が、私の肩を震わせた。
「だめ、ですよ。約束したじゃないですか。今あなたを見たら、……絶対に泣いちゃいます」
「構わねえよ。だから頼むよ、最後に一目…… の姿を、焼き付けさせてくれ」
震える肩を強引に掴んでくるものだから、ああ、この手に何度も励まされてきたんだなあと、瞬間、数えきれない思い出が私の瞳から留めどなく溢れていった。
「……やっぱり泣き虫だな、 は」
「和泉守のせいですよ。約束破らせちゃ、だめじゃないですか」
「悪い。だが……歴史を守る、そして を支えるのが、オレの役目『だった』だろ?」
抱き寄せてくれる体はやっぱり大きくて、あたたかくて、いつもと変わらない優しい眼差しで頭をそっと撫でてくれた。どんなに辛い時でも、こうしていつも慰めてくれた和泉守。いつもと変わらない。そう、いつもと変わらなくて……もしかしたら、このままずっと、ふたりで寄り添い合っていられるのかもしれない。
「……っう。うう」
「……」
「やだよお。かえりたくない……ずっと、ずっとここにいたい……はなれたく、ないよお。やだよお……いずみのかみぃ……」
「 ……」
ほら、あなたのせいだよ。あなたに名前を呼ばれると、あなたに抱きしめられると、私の心が全部溶けてしまうから。だから駄目なんだ。本当の気持ちが飛び出してしまうから。いつもそうだったから。
「 。手、出してくれ」
不意に離れていく腕は、ゆっくりと彼の耳元へと伸びていった。私の大好きな長い艶髪が揺れて、かちゃ、と冷たい金属音が鳴る。差し出した私の掌に、やはりゆっくりとそれを握らせる。その姿は、いつか古い物語の挿絵で見たような美しい光景そのものだった。
「持っててくれ。きっと を守ってくれる」
私の小さな掌の上で、真っ赤なピアスがきらり、輝く。
「でも、消えてしまうって」
「大丈夫だよ。……きっと、な」
あたたかい。体も、心も。唇も。全部があたたかくて、あたたかくて……相変わらずずるいひとだ。人が目を閉じてこのぬくもりを噛み締めている隙に、胸を押し込むんだもの。
「……じゃあな、 。
オレの……主」
「っ和泉守! 和泉守…………ありがと……」
体が、意識が、ゲートに吸い込まれていく。もう逃げられない。
そういえば……初めてここに来た時も、まだ静かな本丸に、綺麗な桜が咲いていたな。
──あれ? いつの間に寝ちゃったんだろう。覚醒した私は瞳を開いて、周囲を見渡し今の状況を確認する。眩しい西日を浴びたことで時刻は夕方だと察した。そしてここは私の部屋だ。もうずいぶん昔に学校を卒業して、その後に実家を出て一人暮らしをしている私の城。リビングのローテーブルを目前に、疲れたのか座ったまま眠っていたらしい。それもずいぶんと長い間、意識を失っていたように感じられる。我ながら器用なものだ。だんだんと落ち着きを取り戻しつつある頭で、夕方ならばお夕飯を考えなきゃ、と気がついた。少々面倒くさいものの、少しだるい体を立ち上げようとする。すると、掌をぎゅっと握っている自分にハッとさせられた。
「……?」
よくよく思えば中に何かを握っているようだ。恐る恐るその手を開いてみる。
「……」
私の小さな掌の上で、真っ赤なピアスがきらり、輝く。その煌めきは美しくて、まぶしくて、目が離せなくて、何故だか無性に懐かしく、切ないような感情に駆り立てられた。
「……あれ? おかしいな。どうして」
もしかしたら、西日に目がくらんだのかもしれない。急に溢れだして止まらない涙はぽろぽろ溢れ落ちていって、この美しいピアスをしとしとと濡らしていった。
なんとか落ち着いた頃には、窓の外も内も既に真っ暗だった。意味も分からず泣き腫らした私は今更食欲が湧くこともなく、暗がりの中、僅かな月光だけを頼りに寝室へと向かう。やっぱり疲れているんだ。一晩ゆっくり眠れば、この気持ちも忘れてしまうことだろう。
***
──その日に見た夢はとても不思議だった。
あたたかくて、ふわふわとしていて文字通り夢心地といったところ。夢ながら、疲労の溜まったこの身が軽くなっていくのを感じた。
──名前を呼ばれた気がした。心まで溶けてしまいそうな優しいその声に振り返ると、誰かが佇んでいる。その人は知らない人のはずなのに、見つめていると、きゅっと胸が苦しくなった。そんな私を静かに、やはり優しく見つめてくれるあなた。あなたは、誰? あなたは──
……目が覚めた。辺りはまだ漆黒に包まれている。なんだ、あまり眠れなかったのか。せっかく気持ちの良い夢だったのにな。誰に向けるでもなく少しだけ拗ねては、寝返りを打つ。目の前に映ったのは例のピアスだ。数時間前に散々泣かせてくれたものの、なんとなく無下にはできなくて、枕元にそっと寝かせてあげていた。ついつい見惚れてしまう見事な燕脂色は、暗闇の中でも鈍く光っているように見えた。不思議と今はそれを見守っていても、涙は溢れなかった。
夜明けまでまだ時間がある。あたたかい気持ちで私はもう一度、瞳を閉じた。