秘鱗症の治し方 鶴見篤四郎は目だけを動かして辺りを見回した。
そこは郊外の古めかしい店だった。右側の壁一面が木の棚になっており、左奥の壁には漆塗りの容器や刀が飾られている。
手に持った紹介状には「薬屋ホロケウ」とだけ書いてある。
「すまない、待たせたな」
奥から出てきたのは、まだ年端のいかない少女であった。アイヌ紋様のヘアバンド、長い黒髪、太眉、そして――意志の強そうな青い目を見たときに、なぜか胸がざわりとした。
「何か? ああ、私は手伝いじゃなくて店主だ」
「すみません、どこかで会った気がして。アシリパさん……でしょうか。私は鶴見と申します」
ふ、と少女は口角を上げた。
「話はイポプテから聞いた。座ってくれ。――敬語を使われるのは慣れないな、普通にしていい」
堂々たる話しぶりに内心で脱帽しつつも、鶴見は了承して椅子に腰かけた。温かい茶が振る舞われる。
「では、手短に言おう。面倒を見ている部下が、妙な病にかかってしまってね……現代医学ではどうにもできないので、最後の頼みでここに来た」
ここは、アイヌがやっている奇病専門の薬屋だという。有古という部下に教えられ、車で一時間半の距離を駆けてきた。
携帯電話を出して、写真を表示する。
見せるのに戸惑いがないこともないが、もう最後のつてである。頭のいかれた中年といわれる覚悟はとうに済ませてあった。
少女に液晶を向ける。
そこには、浴槽に浸かる青年、鯉登音之進の写真が表示されていた。
「はじめは少しだったが、いつの間にか範囲が広がり、こうなった」
「……!」
上体に変わりはないが、その下半身はもはや人のものではなかった。褐色の艶やかな肌は白と赤の鱗で覆われ、両脚が繋がり、さらには魚のひれのような突起までできている。
「鱗ができ始めたのが一か月半前。二週間前に鱗の面積が増えて、寝て起きたら足が尾びれになっていたらしい。そこからは数日で下半身が魚のようになった。鱗が増えるのと並行して声も出づらくなって、三日前にとうとう声が出なくなってしまった」
はあ、と柄にもなく震える息を吐く。
「これについて、何か知っていることはないかな?」
液晶に目を近づけてじっと見た少女は、難しい顔で何かをつぶやいた。おそらくアイヌ語だろう。
「人が魚に変えられる――そんな話は複数聞いたことがある」
こちらをまっすぐ見据えて、アシリパは言った。
「病を特定するために、いくつか質問をさせてくれ」
近頃海や川に行ったか、何かカムイを怒らせるようなことをしたか――そのような質問が続いたが、すべて答えは否であった。また、健康状態や精神状態についても訊かれたが、いずれも問題はなし。しいて言えば、突然人魚のようになるという事態にだいぶ戸惑い、困惑し、不安を覚えているようだったが、誰でもそうなるだろう。
出発間際、しきりに迷惑をかけてすみもはんと謝られたのが脳裏によみがえる。チャットアプリで何度も何度も。
「となると……残りはあれか。この男は秘密を抱えているな? とてつもなく重くて、たくさんの」
ううん、と鶴見は髭をいじりながら唸る。
「秘密、秘密……。あるかもしれんが、重いとかたくさんとか、そういう印象はないな。真面目で裏表のない、腹芸とは程遠い若者だ。国家機密を探るスパイでもあるまいし」
「――そうとも限らない。秘密の重さはそいつ自身にしか分からない。たとえば、学校での忘れ物なんかは他人から見れば大したことはないが、当人の子供にとっては死ぬほど恥ずかしい、隠すべき失敗かもしれない」
「ふむ。本人にとっての大きな秘密は…………ないと断ずることはできんな」
「付き合っているのも秘密なんだろう?」
さらりと言い当てられて、持っていた茶の水面がわずかに揺れた。
会社の部下で、同性で、歳の差は二十もある。交際は誰にも明かしていないし、べたべたとした接触は外ではしない。鯉登の補佐につけた月島だけはおそらく感づいているが、明確に言葉で確認されたことはない。
ここを紹介してくれた有古も知らないはずだったが。
「誰から聞いたのかな」
「いや、なんとなくだ。ただの上司と部下ならそんな写真を持たないし、こんな辺鄙なところまで訪ねてこないだろう」
「交際を隠しているのは……まあ、私も先ほど、正直に言わなかったからね。いやあ、恐れ入った」
「和人の言葉に訳すなら、秘鱗症とでもいうかな。この病にかかった者は、みな言いたくても言えない悩みがたくさんあるんだ。――これはゴツゴッウカムイの仕業だろう。幸い、薬の材料も治療法もここにある」
「ゴツゴッウカムイ……」
そう言うと、アシリパは立ち上がって壁の棚に向かった。小さな引き出しをいくつか開き、てきぱきと中のものを瓶に詰めていく。白衣をまとえば立派な漢方医のようだ。
薬を調合しながら、少女は色々と訊いてきた。
「どうやって知り合ったんだ?」
「会社の部下だよ。――とはいえ、実は彼が十代の頃に面識があってね。偶然暴漢から助けたのを、ずっと覚えていたらしい」
「へえ。つきあったきっかけは?」
「それは治療に必要かい?」
「まあ、何割かは」
明らかに嘘だろう。
恋に恋する気持ちか、それとも年の差同性愛への好奇心か――だが、この面識もない子になら、秘密の交際のことを明かしてもデメリットはないように思えた。
ずず、と不思議な味の茶をすする。
「自分で言うのはなんだが、彼はずっと私のことが好きでね。ところが空回りばかりで、緊張して何をしても裏目に出るし、素直にアプローチするなりなんなりすればいいのに、ゼロか百かみたいな距離感だし……なんだか、一生懸命な犬みたいで可愛くなっちゃってね。私から色々と誘った」
「お、おお……。年下からの、なんだ……好き好きオーラみたいなのは、分かる、のか」
「分かるさ、あれだけ分かりやすかったらな。――でも、こんな年の差だ。ずるいが、最初は本当に交際までする気はなかった。ちょっと構うというか、いい思い出ってわけでもないが……健全なお友達で終わるだろう、と。どうせ若者の憧れだろうと高をくくっていた」
「お、おお……! どうして本気に?」
少女はカウンターに乗り上げるようにして訊いてきた。調剤の手は止まっている。
「明らかに、告白しようとしてきた日があった。彼の実家はお金持ちだから慣れているだろうに、それでも背伸びした高級ディナーでパリパリにおめかしして、緊張してワインをこぼすわフォークを落とすわ……。結局その日は何も言ってこなくて、帰り際、明らかにしょぼくれて、体積が半分くらいに見えて、背中に告白できなかったと書いてあって……気付けば『つきあっちゃう?』と私から言っていた。――もし計画だったなら、あれは随分な策士だな」
「は、はわわ…………じゃなかった、なるほど。治療方針の参考にする」
ごほん、と少女は咳払いをして真面目な顔を作り、調剤に戻った。
数分後、カウンター越しに瓶を渡されて、治療法を口で伝えられる。
覚えられるが一応メモをして、鶴見は礼と共に謝礼を払った。保険診療の風邪よりかは高いが、他に類のない奇病の治療とすれば驚くほど安価な額だった。
「奇病専門の薬屋さんがいてくれて助かった。どうなるかは分からんが、少なくとも君は私たちに希望をくれた。ありがとう」
「それは、カムイの与えた神病だ。悪者を戒めるときもあるが――きっと、お前たちをいい方に導く」
目下、不便と当惑しかない病気ではあるが、なんともミステリアスな言葉だった。会釈をして帽子を被り、店の戸をくぐる。
雪を踏みしめて歩き出し、再び無視しきれない既視感を覚えた。
「やはり、どこかで会ったことが――」
振り返る。
少女の瞳は、おそろしいほど青かった。
「この世界では、今日が初めてだ」
ビュオッと強い風が吹き、一瞬何も聞こえなくなる。
木のドアが閉まり、風に乗った雪が視界を白く染めた。
自宅に戻った鶴見は真っ先に風呂場に向かった。脱衣所から声をかける。
「ただいま。入るぞ」
『おかえりなさい』
防水の携帯電話から、鯉登はチャットアプリや合成音声を使って返事をする。病院での検査では、声帯に何ら異常はなかったというのに。
くもりガラスのドアを開け、鶴見は年下の恋人を見やる。
「変わりはなかったか」
『はい』
ぱしゃりと尾びれが水面を打つ。
未だに見るたび己の目を疑う。鯉登の下半身は、完全に魚のようになっている。白地に鮮やかな赤が浮かぶ鱗は、鑑賞用の鯉なら見事の一言だ。
むき出しの上半身はそのままだが、本物の魚のような鱗肌は、乾燥しきると痛むらしい。症状を隠しきれなくなってからも、鯉登は「迷惑をかけたくない」「うつしたら申し訳なさで死にます」と言っていたが、半ば無理矢理鶴見は自宅の風呂場に運び、広い浴槽に入れた。
水温はぬるま湯だが、普通の人間がずっと浸かっていたら低体温症になってしまう温度だ。動くひれといい、肌だけでなく体のつくりそのものが変わっているのだろう。
まるで童話のような状態だった。
「アイヌの薬屋が薬をくれた。これで治るぞ」
「――」
水面が揺れて水滴が飛んできた。口をぱくぱくさせながら、鯉登は文字を打つのも忘れて喜びをあらわにする。
以前は月に何度か鼓膜の心配をしたものだが、それがひどく懐かしい。
この風呂場には、しばらく自分の声しか響いていなかった。
「よしよし、ちょっと待ってなさい。――水温を上げても大丈夫か?」
『ええ。熱くなったら自分で止められます』
頭を撫でながら、もう反対の手で給湯器のリモコンを操作する。
脱衣所へ戻り、戸を開けたまま服を脱ぐと、立て続けにメッセージの通知音が鳴る。
『ちよとつふみさわ』
『鶴見さん』
『ふくどうして』
「あ、言うの忘れてた。一緒に入る必要があるらしい」
ばちゃばちゃ! と水音が聞こえる。間違いなく猿叫のタイミングであった。
体を流してから浴槽に浸かる。
触って大丈夫かどうかも分からなかったが、ぬるりと滑る鱗肌は滑らかで、双方に痛みや違和感がないことをまず確認した。
聞いた治療法のことを考え、迷ったが、鶴見は鯉登を後ろから抱えるような体勢をとった。
久々にべったりと触れた肌で感じる体温は、以前よりひんやりとしている。
「熱くないか? 魚を触ると火傷になると言うが」
『大丈夫です』
無理をする子だ、注意深く観察したが、我慢しているようには見えなかった。
『どういう薬なんですか』
怪しむのも無理はない。聞いた己も半信半疑なのだから。
手に持っていた小瓶を渡す。中には青と白の、粒子の荒い砂粒のようなものが詰まっていた。沖縄土産の星の砂とよく似ている。
『入浴剤ですか? きれいですが』
「薬だそうだ。全部溶かしてみろ」
鯉登は注意深く中身をさらさらと落とした。薬が溶けてほんのり水色になった湯を手でかき回し、しばらく下半身の様子を見る。
はあ、と落胆のため息が聞こえた。
「ああ、薬だけでは不十分なのだ。秘密の鱗と書いて秘鱗症という病は、重い秘密を抱えた者がなるという。治療法はそれを打ち明けること。――だから、今まで言えなかったことを全部言いなさい」
「ッ~~!」
鯉登は振り向いて首を横に振り、口を動かして何かを訴えた。
違うそんなことはない、と言っているのはよく分かった。
携帯電話を取り上げ、棚の上に置く。
「だが、ここまで症状が進むと声が完全に出なくなり、本人の口からは言えなくなる。――だからこの薬湯に共に入った者が、最初の一つを言い当てないといけないらしい」
やはり、目を見て話さなければ、と思った。
横抱きにして顔を合わせる。尾びれが浴槽から出てしまったが、すぐに乾くことはないと知っている。
「最初の一つが当たれば鱗が落ちる。そうするとお前も少しずつ声が出せるようになる。そう言われた」
荒唐無稽な話だった。
あの少女に騙されたのかもしれない。
――が、それでも、病とは関係ないとしても、抱えさせた秘密を吐き出させたいと思った。
交際開始から二年。良好な付き合いをしてきたつもりだった。会社では上司と部下、予定が合ったオフの日は、ゆったりと同じ時間を過ごす。
奇声はやかましいものの、付き合ってみれば存外大人びた青年だった。いつも自分よりこちらを優先して、多くを求めない。振り返るほど、まるで都合のいい愛人のような振る舞いだった。
年の差が二十。会社での関係もある。
――もしかして、ずっと無理をさせていたのだろうか。
病の原因が分からない時期も、ストレスがその一つなのだろうとは思っていた。
数週間前と比べ、顔色が少し悪くなった鯉登を見下ろす。
浴槽から出られず、いつ治るかも分からぬ奇妙な変異にどれだけ怯えていただろう。
早く治して解放してやらなければ、と強く思った。
艶やかな黒髪に手を滑らせ、息を吸う。
「……私のことが、重荷になっていたのだろう? 関係に、見切りをつけていたんじゃないか」
言ってしまった。ずんと胸が重くなる。
この男はまだ若い。きっと、つきあううちに現実に慣れ、憧れのきらめきが薄れていったのではないか。
重い秘密。
鯉登音之進が抱えるとしたら、きっとこのような種類の秘密だろう。
何らかの宣告を受けるような気持ちで下半身を見る。観察する。変化を待つ。念のため浴槽内を手でかき混ぜる。
――鱗は、落ちていなかった。
「あれっ」
ぺちん、と頬に何かが触れた。
遅れて、弱い弱いびんただったと気付く。
腕の中の鯉登は、テロップをつけるとしたら「何言ってんですか」と怒り混じりの呆れ顔をしていた。
両腕で大きなバツをつくられて、不正解を知る。
「あ、そうなの……」
鯉登は頬を膨らませる。
「え、じゃあ、歳の差が大きすぎてやっぱり嫌だった?」
バツ。
「付き合ってるのを会社の人に言わないのが嫌だった?」
少し迷ってからのバツ。
「えっと……気を遣うのに疲れてた?」
バツ三回。
「交際してみたら思ってたのと違ってがっかりしてた?」
バツと激弱びんた。
「セックスの回数が足りない?」
ぶんぶんと顔を横に振る。
思いつく限りの候補を言ってみたが、どれも違うようだった。
途方に暮れる。
元々、例えば「浮気している」などの秘密がないことは分かっている。そんな腹芸が自分相手にできるような男ではない。
「ええ……何だろう。あ、今気づいたんだが、勝手に私が原因だと思っていた。自惚れすぎたか。仕事とか家族とか、他の原因かもしれないのに」
「…………」
鯉登は黙り込んでから、弱々しく首を振った。
「え、やっぱり私が原因?」
青年はあたふたと手を振ってフォローしようとするが、実質の肯定であった。
「う~ん……あとはなんだ、無自覚なだけで実はいびきをかいていたとか……? 違うな、じゃあ結婚したいとか。はは、冗談――」
ぽろり。
尾びれから赤い鱗が剥がれ、床に落ちた。
「え…………」
結婚。
結婚したかったのか。そんなの一言も言っていなかったのに。
まじまじと顔を見る。鯉登は数秒ぽかんとしていたが、頬が紅潮したと思ったら、すぐに手で隠してしまった。
「た……が、け……」
「声が!」
掠れて、ほとんどが息のようだったが、たしかに一ヶ月ぶりに鯉登の声を聞いた。
薬屋の言ったことは真実だったのだ。
片手が携帯電話を求めて宙をかいていたので、渡してやる。
『たしかにそうですが、それだけで悩んでいたわけではなく、ほんの一部です』
長い睫毛が震えている。目を伏せた表情は憂いを帯びていた。
「他にいっぱいあるのかい? 全部聞かせてごらん」
すり、と頬を撫でるが、鯉登は首を振る。
「ずっとこのままでも困るだろう?」
「…………」
俯いたまま、若い恋人は液晶に指を滑らせる。
『嫌われたくない』
『です』
ううん、と唸ってしまう。
「嫌いになんてなるものか。ほらもっと言いなさい。実は離婚歴がある? 子供がいる? 借金持ち? 二股かけてた? 補導歴や犯罪歴? 許嫁がいる? 付き合うために裏で悪どいことでもやった? 元カレがいっぱいいる? 五人までなら許してあげる」
「ッち、~~~~」
必死で鯉登は否定する。激しく水面が揺れた。
「ああ、疑っていたわけではない。一般的な、嫌われたくなくて隠す秘密というのは、こういうやつだろう」
『違います』
「じゃあ何だ? 聞いてみないことには分からんが、さっきのレベルが出てきても、驚きはするが嫌いにはならんぞ」
「……………………」
鯉登はそわそわと手を動かした。もう一押しだ。
「人魚の姿も悪くはないが、陸にお前がいないと私が困る。浴室で式を挙げるつもりか」
「ッ~~~~ きぇ、……………………ッ」
過去最大の大暴れだった。天井まで水が飛ぶ。
濡れて垂れた前髪を後ろに撫でつけ、観念しなさいと囁いた。
顔を真っ赤にしてがたがたと震える鯉登は、やはり出会った頃と変わらない。もう好きではなくなったのかと思った自分も、観察力がまだまだだ。
「……………………手、……で、……ト、――ぃ」
九割以上は吐息の、小さな掠れた声だった。が、聴覚と脳みそがどうにか意味を復元する。
――手を繋いで、デートしたい?
まばたきを繰り返すうちに、太ももの辺りの鱗が剥がれた。その下から褐色の肌が覗く。
「つ……さん!」
嬉しそうにこちらを見るので、腕を回して抱擁する。
「手を繋いで、デートしたかった?」
改めて尋ねると、鯉登は胸元に顔を埋めたまま頷いた。
「そのくらい言ってくれれば……」
「めぃわく、かけ……なかった、す」
「何が迷惑なものか」
「ぃみつ……ょう」
秘密だったでしょう、と言ったのだろう。
「それは……年の差があるし、同性だから……、いや、すまない。私の羞恥心……違う、ただ覚悟が足りなかっただけかもしれんな」
交際経験は複数あった。そのどれもが、いつ破局しても支障がないように隠匿していた。それが当たり前だった。
よくできた愛人のようだと思うときもあったが、それは意を汲んでくれて――いや、無意識の己の身勝手がそうさせていたのだろう。
「他は?」
「ど、どう……えん、すいぞ――んも、ぼく……う、とかも、いき、たぃ……す」
嘘のようにぱらぱらと鱗が剥がれていく。無理矢理剥がしているのを見たときは、あんなに痛そうだったのに。
「動物園、水族館……と、牧場? 行きたかった?」
決まりが悪そうに青年は頷いた。
「鯉登ぉ~、隠すほどのことじゃないだろう」
ちゃぷちゃぷと揺さぶると、恥ずかしそうに唇を噛んでしまった。
「こども、みたぃ、だから……」
「もう会社で後輩もできただろう、私は子供を抱かないよ」
「ぅう……」
――秘密の重さとはそいつ自身にしか分からない。薬屋の言葉を思い出す。
動物園に行きたいだなんて、そんな他愛のないことすら言えずに、自分の中に押しとどめてしまっていた。
軽蔑なんてしない。嘲笑もしない。面倒だとも思わない。
どうも、想像以上に自己評価が低かったらしい。
――これは、分からせないとな。
そう思った。
「ほら、もう全部言っちゃいなさい。治ったらどこへでも、手を繋いで行ってやる」
眉頭がぐっと上がり、泣きそうな顔になる。
「ぁうう……本当は、ブラックコーヒー苦手で、我慢して、飲んでました」
「うん」
「時々でいいので、名前で……呼び合って、みたい」
「うん」
「い、居酒屋も、二人で行ってみたいです。杉元たちと行って、不安になるくらい安くて、狭くて、汚い、けど……レトロで、昔の給食のメニューとかあって、楽しかった……から」
「うん、行こう」
「いいんですか ウェイターもいないし、串焼きのたれなんか他人と共同ですよ ありえない」
「そういえばお前、予約するのはおしゃれなレストランばっかりだったね。別に私は庶民的なところでも構わないよ」
「そ、そうでしたか……」
声の調子はすっかり戻っていた。浴槽の底には、剥がれた鱗が薄く溜まっている。元の脚は半分ほど露出していた。
恐る恐る褐色の部分に触る。
「痛くない?」
「ええ」
「あと半分くらいだ」
「…………貸してもらった本、たまに難しくて……動画解説とか見てました」
「うん」
「誘う映画、テーマ性があるのを、背伸びして選んで……何も考えずに見れるようなのも、一緒に、見たいです」
「うん」
「む、むかしっ、付き合っていた方の話……聞きたい、です」
「後で話すよ」
「やっぱり聞きたくなかっ!」
「…………それだけ?」
頭を撫でながら問う。もっと隠していることがあるのだろう、と直感的に思った。
しばらく鯉登はためらうように視線をうろうろさせていた。
「……わ、私より、好き……だったなら、聞きたくないです」
「うん」
「でも――でも、もし……そうじゃないなら、安心、させてほしい」
ああ、随分といじらしい。
そんなことをずっと抱えていたのか。
「す……すき……って、ちゃんと、言われたかぁ……ッ!」
「ちゃんと好きだぞ」
「ッ~~~~!」
しまった。
泣かせてしまった。
ぶわりと膨れ上がった涙の玉が、ぼろぼろと頬を滑り落ちる。
「うえ……っ、っく、ふぐっ――びえええん!」
めちゃくちゃ泣かせてしまった。
「す、すまん。不安にさせてたかい……? まさかここまでとは。秘密とはいえ、こまめに連絡取って、会って、同衾とかもしてたじゃない」
「っく、えぐっ――! だって、本音がみえくでッ……! む、りやり、つきあわせてッ……そうでも、わたしからは、からいからッ!」
「好きじゃないなら付き合わんだろう、リスクしかない二十も下の子と。それとも金目当てとか特殊性癖とかに見えるか?」
「ががっだでずううう!」
「あ~よしよし」
「ごどづがじでぐだざッ!」
「今は無理」
よしよしちゃぷちゃぷと体を揺すってあやす。気付けばだいぶ水温が低下していたので、さし湯のスイッチを押した。
しばらくして落ち着き、顔を洗った鯉登はぐすぐすと鼻をすすりながらくっついてきた。
「…………こ、告白、もっとちゃんとしてほしいです……。こういう無理矢理なときじゃなくて、ろ、ろまんちっくな時に……」
随分と素直になったものである。
このわがままが、どうしようもなく可愛く思える。
「薔薇の花とかいる?」
「サプライズがいいですっ!」
ふふ、と笑みをこぼす。そう遠くない内に、とっておきの不惑の本気を見せてやろう。
鯉登の脚を見る。剥がれ落ちてもなお美しい鱗が浴槽にうっすら積もり、残るは足の甲に貼りついた一枚だ。
「まだ秘密が残っているみたいだな。最後は何だ?」
「……………………」
「え」
告白に慣れてきたように見えたが、最後の最後はまだ言えないらしい。
「今までの法則からして、私がお前を嫌いになることはない」
「う、うう……いえ、その……大丈夫です。一枚くらいくっついたままでも、生活に支障はありません。もう出ましょう」
久々に二本足で立ち上がった鯉登は、ふらりとバランスを崩して傾いた。慌てて受け止める。
「二週間ぶりだ。筋肉が落ちているかもしれない。リハビリのつもりで歩こう。――だが、まだだ」
腕を体に回し、しっかりと捕まえる。
「もらった薬はこれで全部だ。今日、いま、すべて打ち明けろ」
「ッ~~~~! でも、」
「完治するまで出さんぞ。これ以上心配をかけることは許さん」
「きえ…………」
何度か抵抗するものの、鯉登は諦めたように体から力を抜いた。
「あ、あの、聞かなかったことにしてほしいのですが」
「内容による」
「聞いても、態度や行動を変えないで、ください」
「まあ……うん」
おや、と思う。わずかに抱えた体の体温が上がった気がした。
しばらく言葉にならない声で唸った後、鯉登は消え入りそうな声で言った。
「…………や、優しいの、嬉しい、けど……時々は、せっ――寝るとき、ぁ…………その、た、叩いたり、縛ったり、そういうの……興味、ありもす……」
最後のうろこが剥がれる。
赤い、薄く伸ばした宝石のようなそれが肌を滑り、タイルに落ちたのを呆然と見ていた。
「わ、忘れてくださいッ! 今のは――今のは間違いですっ!」
這うようにして浴槽から出ようとする体を引きとめる。
「今のは……」
「嘘です!」
「ひどくしてほしいの?」
「きぇ…………」
「優しいのだけじゃ駄目だった?」
「ち、ちがいます、気の迷いで……違います、ちが、ほんのこて、」
「痛いのが好き?」
「それは怖いです」
「痛くなくて、制限されるのとか、恥ずかしいのがいいの?」
「……………………」
小さく、小さくではあるが、こくん、と頷く。
後ろから見る耳が赤かった。紅潮が目立ちにくい褐色肌なのに、赤い。
「詳しくはないけど、それくらいならしてあげるよ?」
「きえ」
「あまり誘ってこないとは思っていたが、やっぱりムッツ――」「上がりましょう」
ふらつき、壁に手をつきながら鯉登は立ち上がった。
すらりと伸びた背、まっすぐで長い脚。
久々に見た姿に、鶴見は「おかえり」と手を広げた。