「空却、口に出さんとあかん時もあるやろ」
これを簓から聞いた瞬間、頭に血が昇って「テメェがそれ言うかよ」と噛み付いた。そっから互いに今まで見逃してきた不満が爆発して喧嘩をしたのが数週間前。そのまま互いの忙しさも相俟って事実上の冷戦を繰り広げている。
暫く会えないなんてことはよくあることだったが、喧嘩したまま間が空いたのは恐らくこれが初めてだ。
「つーか口にしろってなんだ。いつも適当な言葉並べて、本音言わねぇのは簓だろうが」
「もー!他のひとへの文句を自分に言わないでくださいよ〜」
「十四にゃ言ってねぇわ。拙僧の独り言を勝手に拾うな」
「自分とご飯食べに来てまで独り言いう方がタチ悪いっスよ!?」
男にしては幾分高いソプラノトーンは、家族連れで騒がしいファミレスでもよく通る。プンスカと分かりやすく息立てて、十四は注文したアイスコーヒーを自分の手元へ引き寄せた。
バトルでのいざこざが終わってからもBATメンバーとの仲は相変わらずで、特に十四とは、修行が無事終わってからもよくツルむようになった。とは言っても最近はバンド活動が盛況なようで、今日のメシも数ヶ月ぶりだ。──考えてみれば、コイツより簓との方が会ってたんだな。
昔のようにガムシロップをひとつ十四へ渡したら「あ、今ブラックなんスよ」なんて涼しい顔してそのまま黒い液体を飲もうとグラスを傾けた。砂糖を入れてもブラックだぞ、と言ったらコイツはどんな顔をするんだろうか。
出会ったばかりの頃はぴいぴい泣くばかりだった弟子も、立派に成長を遂げていたらしい。何だかつまらない気持ちになって、コーラの氷をからりと鳴らした。ちゃぷん、と水面が揺れる。
東京に出向いたあの日々と比べれば当然拙僧だって成長してる。だが簓関連のことだけは、いつになっても思ったように進まねぇ。
告白の時だって揉めたし、初めて身体を重ねるってなった日も揉めた。後者の時なんざ、どこまでもいっても話は平行線で、結局自棄になってそのままナゴヤに帰った気がする。いろいろ立て込んでた中で時間を作ったっつーのにオオサカまで行った拙僧がバカみてぇだ。
でもあの時は簓も、ロケ終わりや〜明日も収録や〜って言いながらナゴヤに足運んでくれたんだよな。
カラカラと氷が鳴る。それもだんだん溶けていって、薄味のコーラの出来上がりだ。
「空却さん」十四の声がして顔を上げる。そういやコイツ、いたんだわ。
さっきよりも真剣な面持ちで、もっかい名前を呼ばれた。
「空却さん、言いたいことは通話でも文字でも、すぐ伝えた方がいいッスよ」
「ハァ?」
思わず眉間に皺が寄る。だがそれに臆すことなく、ずい、と十四は身を乗り出した。
「空却さんのことだから、大事なことは会って言わなきゃと思ってると思うんスけど」
「う、」図星。反論しようと思った口も閉じた。
十四はさも分かってましたとばかりに頷き、身体の前で手を握る。前方に偏る身体を支えて、真っ直ぐこちらを見つめてくる。
「空却さんも簓さんも忙しい身なんスから、タイミング測ってたら言い損ねるっスよ。言いたいことあんならすぐ言った方がいいっス。これは絶対!」
バッチリメイクなんざしなくてももともとデラデケぇ眼。長い睫毛を揺らすことなく見据えられて、思わずたじろいだ。先に視線を逸らしたのは拙僧の方だった。
獄も敏い方だが、こういう人の心の機微に一番敏感なのは十四だ。
もっぺん面上げて、ギッと睨み返してみても揺れない瞳は、拙僧の虚勢をそのまま映して突き付ける。面白くはねぇ、が、いやな気分にもならなかった。
「……わーったよ」
ため息混じりに頷けば分かりやすく明るむ十四の顔。
「仲直りって、しなきゃいけないもんじゃないっスけど……空却さんが嬉しそうだと、自分も嬉しいんで」
はにかむように笑う十四の額を思わず指先で弾けば「何するんスかー!?」と涙目で睨まれた。思わず口端から緩んだのを、自分でも感じる。
「いや……ありがとな」
そう言いながら机の隅に追いやっていたスマホに手を伸ばした。親指を液晶下に置いて指紋認証。明るむ画面を覗き込み慣れた動作で指を動かす。
「ちゃんと、言うわ」
***
早朝の新幹線は静けさが心地良い。車体から伝わる振動がうつらうつらと夢へ誘う。今までは昼だとか夜だとか、簓の都合に合わせて呼び出された時間に足を運んでいたものだが、今後は朝の内に移動しちまうのも良いかもしれない。ふわりと舞い込む欠伸を噛み殺して、スマホの時計に視線を落とす。
オオサカにきた。任されてた法事も全部他の奴に押し付けた。
親父に「明日から暫く休みてぇ」つったら、拳骨喰らうと思いきや渋々という感じで承諾された。十四の奴に何か聞いてたのかもしんねぇ。親父はなぜか十四と仲が良い。今も連絡取り合ってる風だったが、実の息子よか激甘な態度は納得いかねぇ。
何はともあれしばらくはゆっくりして良いらしい。あふれる欠伸をまた噛み殺して、目覚ましをセットしてから座席に備え付けられたテーブルを出した。腕枕の位置を調整して、そのまま顔を埋めれば瞳を閉じる。
馬鹿やったか?でも大事なことは、やっぱ会って話してぇ。会った時ですらまだアイツのことを掴めねぇのに、文字とか声だけで何か出来る自信はさすがになかった。
何も分からねぇ。共にした年数だけは積んでるクセして、簓の思考だけはさっぱり読めない。
「相性悪ィんだろうな」
知ってたわ。じゃあなんでこんなに、休んでまで会いに行こうとしてんだか。拙僧にすら分かんねぇが、行った先に答えがあると思うしかねぇだろこんなの。
このまま、不貞腐れて眠りに就く。
もちろん目覚めは最悪だった。
出張かなんかのビジネスマンが多い中、駅に着いたらさすがに人も増えてきて、行き交う人混みを潜り抜けて少し静かな場所に出れば電話をかける。簓宛てだ。
まだ朝も早ぇからもしかしたら出ねぇかも、なんて覚悟してたらツーコール目で繋がった。逆に速ぇわ。
「おん、なんや久々やな。何の用や〜?」
いつものトーンが鼓膜に響いて高まってた心音が少しだけ落ち着く。
「おう、簓。ちょい面貸せや」
発した言葉がぶっきらぼうな響きをした。やってしまった、と気付いた時にはもう遅い。
「んー?いやや」
「ハァ!?」
「最近撮影続きで疲れとんねん、厄介ごとに巻き込まんで〜」
ハァと大きな溜息と共に告げられる拒否の姿勢は簓にしてはめずらしく、本当に疲れてんだろうなと思った。最近出演続きだったしな。レギュラー出演もまたひとつ増えたし、昨日は生放送だった。
でもどんなに忙しくたって、その合間を縫ってでも時間を作ってくれてたクセに。一個拗れた程度でこれかよ、と詰りたくなる気持ちが溢れた後に、見えた一個がこれなだけで、他にもいろんなこと溜め込んじまったんだろうな、と思った。拙僧に見えねぇ何かがいろいろあったんだろ。なあでも、言わなきゃ分かんねぇっつーの。そう言ってキレたのはテメェだろうが。
「……今、シンオオサカ着いた」
深呼吸して、ゆっくり音にして吐き出した。
電話口は静かだ。拙僧の心臓の音は伝わってねぇだろうな。
「今日から一週間くらい、どうにかいる。10分だけでもいい、時間あけてくれや。……会いてぇ」
「……そういうことなら、今夜はたぶん都合つくわ」
「サンキュ。……んじゃ、また夜に」
もうこれ以上は会話したくなくて、早々に電話を切った。そういうことならって何だよ、譲歩のつもりかよ。なんで拙僧が譲られなきゃいけねぇんだ。イケ好かねぇ。こんな奴のどこに惚れたのか、さっぱり思い出せねぇ。
最初に手を出そうとしてきたのは簓で、付き合おうつったのも簓で、ヤろうとしてきたのも簓だ。かわいい女も美人なネーチャンも、なんならアイツを好きな野郎だってそれこそ山ほどいるだろう中で、なんで拙僧なんだと思ったし未だに思ってる。それでも、簓が求めてくるから、かぐや姫みたくイチャモン付けて突っ返してもその難題すら応えてくるから、その眼差しが本気だから、嘘臭ぇ態度ごと、愛してやる覚悟を決めたのに。
でもたぶん、拙僧がこんなんだから、簓も愛想を尽かしたんだろ。好きになる理由と嫌いになる理由は同じようなもんだ。好きで居させ続けるなら、新しい理由を叩き付けるしかねぇ。
***
荷物は最低限の着替えだけだったから、コインロッカーに寄ることもなく、とりあえず一日普通に観光した。何だかんだトンボ帰りなことが多かったから、ゆっくりブラついたのは初めてかもしんねぇ。でもずっとその間も気が落ち着かなくて、何をしたかっていう記憶はほとんどない。気付いたら夜になってて、慌てて簓のマンションまで行った。そこだけはスマホを見なくて良かった。アイツの家の道のりだけは、記憶に刻み付けられてる。
高級そうなマンション。オートロックの手前でインターホンを鳴らして、案内されるままに上へと上がる。今までと同じだ。なのに、今夜は妙に心臓がうるさかった。
部屋の前でもっかいチャイムを鳴らしたら、そう間をあけることもなく扉が開いた。風呂だけ浴びたのか、ちょっと濡れた髪、スウェット姿で出迎えられる。案内されるがまま廊下を歩いて、ソファに座った。次いでコーヒーを出される。あんまり好きじゃねぇけど、黙って飲んだ。簓は拙僧の向かいに座る。コーヒーを飲む。静寂。
「…………簓、」
「元気しとったか」
「…ぼちぼち。テメェは忙しそうだな」
「ここ最近は、せやな」
またしても静寂。
澄まし面をいくら見つめても何考えてるのかさっぱり分かんねぇ。だんだん腹立ってきた。なんで拙僧はこいつなんかに振り回されてんだ?
段々眉間に皺が寄って、文句のひとつでもぶつけてやろうと顔を上げたらふはりと笑われた。クックッと引き攣り笑いして、ソファの上で身体を丸くする。
なんだよ、拙僧は何もしてねぇぞ。
「ンだよ」
「や、お前のその破天荒さすっかり忘れとったわ! 朝っぱら急に電話きたかと思ったら今シンオオサカて……アホちゃう? どうせ法事も全部キャンセルしたんやろ。マジすぎるやん…!」
「アァ? 悪ィかよ」
低く唸る。人の本気を笑うとか、マジでコイツは最低な野郎だな。喧嘩なら買うぞ、なんて身を乗り出しかけたら、笑ってた瞳がふわりと和らいだ。
「本気なんやって、分かったから嬉しーわ。当たり前やろ」
毒気抜かれるくらいに優しい声が頭蓋骨まで揺らす気がする。開きかけた口がごにょりと波立って、またソファに腰かけた。
コイツはいつもそうだ。簡単に空気を変える。それがどうしようもなく、腹が立つ。
「スゲー不機嫌だった癖に、簡単に許すんじゃねぇよ」
「あは、んな文句言うの空却くらいやで。なんで嫌なん?」
「……調子狂うから。…〜〜別れんのかと思って、こっちは腹括って来たのによ」
強張ってた身体から力が抜けた。口にして初めて、想像以上に緊張していた自分に気付く。
手のひらをグーパーしたら、手のひらに残った爪痕に気付いた。食い込んでたみてぇだ。
「…………口にしてたつもりだった」
「おん」
「簓を嫌な気持ちにさせてぇなら謝る。だが自覚ねぇことは謝りたくねぇ。それにこういうのは、ツラ合わせて話してぇし」
「だからオオサカまで来てくれたん?」
「ッ悪かったな、単純で……、」
気付いたら目の前に簓の顔があった。簓の手が伸びてきて、遊ぶように毛の先端を弾いては摘み撫で下ろしを繰り返す。直接触れられてる訳じゃねぇのに、頭皮の神経がざわめきだし、顔が熱くなってきた。
何の意図で簓がそれをしてんのか分かんなくて、簓を見つめる。何を考えてるのか分かんねぇ、この細目はずっと嫌いだ。
「簓……なんだよ…」
「………………」
こちらを見たまま、簓は何も言わない。口にしろつったのはテメェだろが。
ずっとあそぶように毛先に触れるだけ。いつもならこの辺りで撫でるはずなのに。期待してしまうような自分の身体が嫌で、唾を飲む。
「さ、簓……撫でねぇのか…?」
つい我慢しきれず声に出た。簓は目尻を緩ませてわらう。
「空却は?どうして欲しいん」
「……な、なでて、ほし…」
腰をぐいっと引き寄せられ次の瞬間には強く強く抱き締められた。
抱き締め返してその熱を抱く。
腕の力とは相反してやさしくやさしく頭を撫でられた。ゆるりと開かれた金色の眼と視線が合う。
もう堪らなくて、そのまま鼻先に齧り付いた。
骨ばった鼻をがじがじと噛み、唇を舐める。少し乾燥してガサつく皮膚を丹念に舌で舐め撫でれば、その唇肉の隙間へ舌を押し付け前歯をちろちろと擽ぐる。拙僧がひたすらにかぶり付くだけで、簓は拒否もせず、しかし自分から手出しもせず拙僧のさせたいままにしてる。
「ッ、ささら……」
「なんや?」
物欲しさに喉が鳴る。
いつもなら返事も聞かずにキスする癖に。簓の言いてぇことが、なんとなく分かった気がした。拙僧のしてぇことを全部先回りしてた簓。でも拙僧からの言葉が欲しくなったんだろ。勝手に気ぃ回して、勝手に欲しくなって、勝手にキレやがって。ホントにコイツ、そういうとこなんだよ。
「…………キス、しろや」
言った瞬間唇を奪われた。ぶわりと背筋を駆け抜ける熱量に一瞬意識が沸騰しかける。身体支えんのも辛くて必死に簓の肩にしがみ付いたら腰を支えられた。自身を支える必要がなくなって、遠慮なく唇を吸う。呼吸すんのも忘れて、酸素が足りなくて目の前がチカチカと白くなる。簓が見えねぇ。
「アホ、息せぇ」
「ッ〜〜げほっ、ぁ?」
「どんだけキスに夢中なん。キスだけに、む、ちゅー」
「サムッ」
ヒャハリとくだらなさに笑みが溢れたら、自然に呼吸を取り戻した。
「身体は熱そうやで?」
ニヤニヤと意地悪そうな笑みが見下ろす。
「やっぱ謝らねぇ。つか、簓が謝れや」
「えー♡」
「勝手にめんどいことしやがって。振り回された拙僧に尽くせや」
「びー♡」
「ウゼーーー」
謝る気のない恋人の腹を思いっきり蹴ってやる。テメェがその気なら拙僧だって絶対謝らねぇからな。
拙僧の蹴りをモロに食らった簓はゴホゴホと咳き込んでるが、これも演技なのが分かってるから心配はしねぇ。立ち上がって冷蔵庫に行ったらコーラが入ってる、から貰う。
炭酸が喉を刺激して心地良い。
その脚でそのまま風呂場へ向かえば、復活したらしい簓の声がする。「くーこー」なんて、甘える時の音色が耳に心地良く響く。
「なんだよ」
「愛してるで」
「ヒャハッ、安易なご機嫌取りだなァ」
「空却はどない?」
「アホ」
愛してなきゃここまで来ねぇし、このままナゴヤに直帰だっつーの。
全部分かってんだコイツは。分かっちまうから、面倒くせぇことばっかする。つくづく拙僧とは真逆で、相性の悪ィ男だわ。
「ベッドで寝転んで待っとけや、ダーリン」
振り返り際にニヤリと笑って声を掛ければ、細目が薄く開いた後、また幸せそうに細められた。ボフンッとベッドに飛び込む音を聞きながら脱衣所の扉を閉める。
服を脱いで素っ裸になったところで、鏡に映った自分の口許が緩んでることに気付く。結局どこまで行ってもお互い様で、離れられねぇわけだ。ナゴヤ帰ったら獄に「十四を巻き込むな」って言われそ。あの守銭奴を丸め込めそうな土産あんのか、オオサカ土産はもう尽きたからコウベ辺りの。その辺は簓に聞くか、と頭ん中で考えながら、スマホを手繰り寄せる。「十四、大丈夫だったわ。心配かけた」