校舎にぐるりを囲まれた真ん中に鬱蒼と茂る菩提樹が――なぜこんなところに植わっているのかはわからないが――校舎に濃い翳を射し、葉の隙間から零れる光が作り物のようにキチンと座っている少年の金糸をちらちらと輝かせていた。窓枠がちょうど背景になっていて、まるで絵画のようだと思ったところで、溟海の瞳がこちらを振り向いた。ソロモンは、そこで漸く、自分が彼に見惚れていたことを自覚して、頬がカッと熱くなった。
「やあ」
少年は表情を緩めず絵画のようなまま微笑んだ。声や動作のひとつひとつが酷く落ち着いていて、とても同い年とは思えない。それどころか彼が自分と同じように、汗をかいたり、お腹が減ったりするところを、うまく想像できない。本当は人間じゃないんだと言われたら、きっと信じてしまう――そんなどこか超然とした異質さが、彼にはあった。けれども瞳の水底ではでぎらぎらと何かが光り、底なしの瞳はソロモンだけを映している。
二つ隣のクラスの彼とは彼の才色兼備さを噂に聞くまでに留まり、まるで接点がない。こうやって目が合ったことすら記憶の限りでは一度もないはずだ。彼が行事で何かしらの役員をやっているのを見たことはあるが、ソロモンはそれらとほとんど関わることなく過ごしてきたし、家庭の事情もあり役員になることもなかった。こうして一対一で向き合うと、なぜだか妙に緊張して、手に汗が滲む。近くで見ても、きれいなひとだという印象はちっとも変わらなかった。
「A組の、ソロモンだよね」
予想外の言葉にどきりとする。
「えっ……俺のこと、知ってるのか?」
「もちろん。キミは友達が多いから、よく目立っているよ」
うちのクラスにも何度も来ているだろう、と彼は続けた。
「よく、他の部活の助っ人をしているよね」
「あっ……うん。そうなんだ。家の事情で、今まで部活に入れなかったから……」
「キミらしいな」
そう呟くと、彼が不意に人間らしい、水面に小石を投げ入れたような微笑を浮かべるので、ソロモンは面食らってうまく返事をすることができなかった。
俺らしい、ってなんだろう。彼がまるで自分より自分のことを知っているような、見透かされているような、そんな気がした。そんなことあるはずないのに。けれどそれは不快ではなく、妙に納得させられるのが不思議だった。
「あ、ゴメン。自己紹介がまだだったね。ボクは……」
「フォルネウス、だよな」
「……知っているのかい?」
「フォルネウスこそ、よく目立ってるじゃないか」
去年、生徒会役員をやってただろ、と続けると、フォルネウスは少しだけ眉尻を下げて「なるほど」と微笑んだ。
「それで、今日は演劇部の見学かい?」
「うん。家の事情が落ち着いたから、それなら部活をやれってパイモンが――あ、パイモンっていうのは俺のじいちゃんの友達で、家の仕事を引き継いでくれることになって、それで……」
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
「あっ……ありがとう。それで、いろんな部活を見学してて、今日はグレモリーに誘われて……」
当のグレモリーはというと、部室に着くなり部員に呼び出され、ソロモンに「すまない、好きなだけ見学していくといい」と言い残して、何やら慌ただしく奥の方へ行ってしまった。部員それぞれが声出しをしたり、ストレッチや筋トレをしているのを見ているだけでも、ひとりひとりが真面目に部活に取り組んでいることがわかりソロモンは楽しかったが、フォルネウスは「せっかく来たんだ、舞台に上がってみないかい?」といたずらっぽく笑った。ソロモンは驚いて、椅子から転げ落ちそうになった。
「えっ、いきなり!?」
「大丈夫だよ、きっと知ってる話だから」
「知ってる話って……」
「『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう』」
そうなめらかに諳んじて、フォルネウスはこちらに手を差し伸べた。喧騒の中を通り抜ける澄んだ美声。確かに、ソロモンでも知っている話だった。けど、そんなの急に言われたって……と頭の片隅ではそう思っている。思っているのに、惑わされたようにその手を取ろうとすると、するりとかわされフォルネウスは立ち上がる。
黒板の前の、数センチほど高くなった床に音もなく上がると、フォルネウスはこちらを振り向いて再び手を差し伸べた。今度こそ、その手を取る。今度こそ。
すると指先が触れたフォルネウスの右手は燃えるように熱かった。
どこか超然とした、海のような冷ややかさを湛えた男とのギャップに驚いて、ソロモンは反射的に手を離そうとした。けれど一瞬で思いとどまって、しっかりと、彼の手を掴んだ。
舞台の上にひっぱり上げられる。えっと、次のセリフは……と考えるが、フォルネウスは言葉を続けることはなく、しばし見つめ合ったまま、嬉しいような寂しいような顔で、ただ静かに微笑むのだった。
フォルネウスの手をぎゅっと握りしめたまま、理由もわからないが、ソロモンはこの手を取れてよかったと、確かにそう思った。