夏は来ぬ 夏の青空に浮かぶ真っ白な雲のように、白い日傘はまぶしかった。白いワンピースからのぞく、すんなりとした白い手足。長い黒髪をゆるく束ねる白いリボンが、黒髪とともに揺れた。
日傘がくるくると回る。
断崖になっている岬の端に立つ白い少女は、海からの突風に日傘を吹き飛ばされた。
「どうぞ。壊れていないよ」
魏無羨は風にあおられて足もとまで転がってきた日傘を、少女に手渡した。絹糸の黒髪が乱れ、白く長いリボンとからまっている。華奢な指がもつれた髪を押さえた。
「大丈夫? 手伝おうか?」
少女は顔を上げた。のばした魏無羨の手が止まった。
古びた硝子のような虹色を帯びた薄黄色の瞳に、つきりと魏無羨の胸が痛んだ。
「あの丘の上のお屋敷に静養に来ているんだってよ、もう何年も前から――」
村に唯一ある食堂兼よろず屋で、食料と酒を手に入れがてら聞き込んできた噂話を、魏無羨は陽気にしゃべっていた。黒曜石の瞳は生き生きとくるめき、身ぶり手ぶりに合わせて頭頂部でひとつに結わえた髪と赤い紐が楽しげに揺れる。ふと、声が止まった。
「そうだ、お嬢様と俺は幼馴染で、いつもあの岬で遊んでいたんだ。今さらなんで、お嬢様のことを聞いてまわったんだ?」
彼の手もとには、身軽に動けるよう小さくまとめられた荷物と、地酒の甕。シートをかぶせられた農機具が雑然と置かれた納屋は、長年使われていなかった証の埃がつもっていた。
「俺は――誰に話していたんだ?」
納屋のなかは無人だった。
「お嬢様ぁー、こんな暑い日に外を出歩いてもいいのかよ。ばあやさんが心配していたぜ」
くるくる、くるくると日傘が回るのが返事だった。白いワンピースの袖からのびたほっそりした手が、花を摘む。岬の端には草原が広がり、夏だというのに色とりどりの花々が咲き乱れていた。
白蠟のような白い指が選ぶのは、白い花ばかりだった。小さな花束を持ち、こくびをかしげると、黒髪が肩からすべり落ちる。髪の隙間からのぞく玻璃色の瞳がものいいたげにまたたく。
「そら、これでくくったら、持ちやすいだろ」
魏無羨は自分の髪をくくる赤い紐をはずし、少女が持つ白い花を取り上げ、形よく束ねた。色味のない花束に鮮やかな赤がよく映えた。
「……ああ、気にすんなって、こんな紐くらいやるよ。お嬢様のリボンはこんなことに使えないからな」
風にたなびく白く長い、細かな刺繍のほどこされた布。白い衣の上に広がる黒髪はつややかに流れ、白檀の香りがあえかに匂い立った。
絹のリボンに触ろうとした手を止め、魏無羨はつぶやいた。
「いけねえ、むやみに触っていいものではなかったっけ」
それはいつ、誰に咎められたのだったか。自分を拒絶しているのに聞きたくてたまらない、硬質で潔癖な声。魏無羨の指が触れると、するりと額に締めた布が落ちて。眉をひそめた、羞月閉花の輝かしい美貌。あれは――
天に向かって真っ直ぐのびた杉の林は、昼でも薄暗い。周囲の田圃には青々とした稲が風に波打って光をはじくなか、ぽつんとその区画だけ取り残されたかのように、鬱蒼と木が生い繁っていた。
暗い色合いの杉の前に立つ、白い日傘をさした白いワンピースの少女は、背景から浮き立って見えた。小枝のようにかぼそい腕には、日傘すら重たげだった。
彼女の親に交際を反対されて、今から駆け落ちするのだ。田舎の旧家では都会からふらっと引っ越して来た新参者など、跡取り娘に話しかけることすら許されないらしい。
「待たせたな。じゃあ、行くか」
魏無羨が白い少女に手をさしのべると、ぶわりと吹いた風に日傘が飛ばされた。
「くそっ、このままじゃ追いつかれる!」
笹の葉で頬が切れた。ガサガサと音を立てて下草をかきわけ、走る。左手につかんだ細い腕を離してはいけない。が、彼女はこれ以上、走れそうにない。荒い呼吸と鼓動が耳についた。
ざわめきといくつもの提灯の光が近づいてくる。炎にきらめくのは、鎌や鉈の反射だ。獣のように山狩りで追い立てられ、捕らえられればあの刃物がものをいう。
「こうなったら――」
魏無羨は腰を探った。躍動する体の動きに合わせ、黒い裾が大きくひらめいた。彼はいつも身につけている横笛を手に取った。赤い房をつけた黒い鬼笛、陳情。黒衣をまとった鬼道の開祖が鳴らす笛の音に、屍体が土から起き上がり、夷陵老祖の命に従い生者に襲いかかった。
たちまち上がる魂消るような悲鳴に、少女はうつむいて目を閉じた。淡い黄色の瞳が長い睫毛にふちどられた目蓋に隠される。耳をふさぐ手は、骨の上に皮が乗っただけのように痩せさらばえていた。枯れ枝のごとくひからびた指がぎごちなく動くたびに、ポロポロと乾燥した皮膚が剥離して落ちた。
「聞きたくないのかい、お嬢さん」
皮肉っぽく唇を引き歪め、魏無羨は笛を吹き鳴らした。
「そら、あんたも俺の笛に従いなよ」
空を旋回する鴉の群れが、耳を聾すけたたましい叫びを上げた。黒い羽根が魏無羨のまわりに舞い落ちる。髪をうしろでゆるく結わえた赤い紐が風に流れた。
「俺を操ろうとしたのはともかく、俺の藍湛の真似をしたのはいただけないな」
ゆるゆると唇が弧を描く。優しい穏やかな声がいっそ恐ろしかった。
「でも、まあ、俺は心が広いから、死ぬより苦しい目には遭わせずにすませてやるぜ」
陶器の人形のように整った美貌に嵌め込まれた玻璃色の瞳が、愛しい道侶をみとめて輝いた。冷淡にすら見える無表情な容貌の奥底には、激情や優しさや欲望が秘められていることを、魏無羨だけが知っている。
「藍湛ー! 藍二哥哥、藍忘機! 俺の道侶さまはあいかわらず、美しいな」
手をのばした魏無羨は、なめらかな藍忘機の皮膚をひとつなで、にんまりと笑った。
「魏嬰」
「んーん、なんでもない」
暗い雑木林を抜けると、夏の日射しのまぶしさに目がくらんだ。岬の上でやわらかな緑の草原が風に揺れる。
白い日傘の少女はもういない。