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    銀高短編集①です

    銀高短編集①【銀高が家族に結婚報告をするお話】



     それは、江戸から約二〇里ほど離れたところにあった。人里離れた山の僅かに補整された路を数刻歩いた先、一本の角材が地に刺さるように立っている。近くで纏まるように鎮座する墓石に比べれば随分と質素であるし五輪塔や死者の名を書いた墓標すらもない。しかし、眠る魂はそれらの墓よりもよっぽど多いはずだ。

     高杉がその角材でできた墓の前で膝をつき、目を瞑り両手を合わせてからすでに五分は経っていた。積もる話もあるのだろうと、始めは気を遣って水を汲みに行ったり持ってきた供えるための花を揃えたりと準備をしていたがいい加減日が暮れてしまいそうだ。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、段々と太陽が沈みかけている。ただでさえ江戸から遠いというのに、このままでは今日中に帰るのは厳しくなってしまう。
    「高杉、用意終わった」
     わざとらしく桶を揺らせば、ちゃぷんと水が撥ねた。当人は短く返事をするものの、目を開ける気配はない。どうしたものか。がしがしと頭を掻きながら息を吐くも、邪魔をする気にもなれず結局意味もなく菊の花を並べ替えたり、花立てを磨いたり香炉を眺めたりと時間を潰した。しかし一向に高杉が顔を上げる気配はない。
    「日暮れるっつーの」
     しびれを切らした銀時は用意した三具足や桶などを持つと高杉の隣へと腰を下ろし、細身な体へと寄り添い撫で肩に頭を乗せた。くつりと喉を揺らした笑声が隣から零れる。
    「てめェは相変わらずだなァ、銀時」
    「日が暮れるっつってんだろ」
    「それァ詭弁ってやつだ。本当は違ェんだろ?」
     やはり高杉には見破られている。不貞腐れるようにそっぽを向くも、殊更に格好がつかないような気がして寄り掛かっていた体を起こした。そして風呂敷から小さな瓶に入った酒を取り出すと三つの酒器に注いだ。ことことと愛らしい音が響く。
    「こいつらは酒飲むの?」
    「万斉は呑まねェな。似蔵は呑める口だ」
    「ふーん。まあ一口位呑んでも問題ねえよ。しかも祝い酒だ」
     カン、と酒器同士を小突き二つは角材の前へ、一つは高杉と銀時の前に置いた。そして銀時も両手を合わせる。ふと、左側に重みを感じ視線を移せば、今度は高杉が銀時へと寄りかかっていた。姿勢が崩せないせいでどのような顔をしているのかを拝めないのが悔しい。
    「ほかのやつらも酒と刀とドンパチが大層好きな奴らだった。あとはカラクリが好きな奴もいたな。旧鬼兵隊の方だが。知ってんだろ?」
    「おう」
     昔話をする高杉の声は慈愛に満ちている。

     戦場にて散っていった命は骨すらも残らないことが多い。形として残っていても亡骸を回収できた者は極めて少なく、家族へ知らせることすらも難しい。大抵は墓なども作られず無縁仏としてそこらで彷徨うことが多いとされている中、高杉は新旧問わず鬼兵隊に入隊した者の墓を作った。指名手配されていた身なので、立派な慰霊碑や名前が書かれた墓石を用意することはできなかったものの、全てが落ち着いた今、こうして定期的に手を合わせに来ている。

     高杉が紡ぐ鬼兵隊の話は随分と楽しそうで、できることならばこのまま耳を傾けてあげたいけれど、ここに到着した時点で家路につくカラスが鳴いていたのであまり時間がない。珍しく饒舌な高杉の話は帰宅後酒を飲みながらゆっくり聞いてあげるとして。
     寄りかかる体の撫で肩に腕を回して支えると、顔を覗くようにして高杉の唇を塞いだ。「んぅ、」と鼻にかかった息が漏れる。銀時の視線の先で、高杉が目を剥いた。
    「そろそろご挨拶してもいいですかー?」
    「……だからって急にしてんじゃねェ」
     キッと高杉がねめつけるも、銀時は双眸を細め口許を緩ませるだけ。ふと、高杉の脳裏にはとある光景が浮かんだ。鬼兵隊の船の中で三味線を奏でながら万斉が云っていた言葉。しかし当時は意味をあまり理解することが出来ず、戯言と受け流していたはずだ。
    「前に万斉が言っていたことがある。たしか伊東の時だったか……。おめェさんのことをおもちゃを獲られた聞き分けのねェガキのようだと言っていた」
    「陰で人の悪口言ってんじゃねェよ。連れしょんする女子か」
    「その姿は羆さながらだってよ」
    「獣になってんじゃねえか。定春で十分なんだよ。つーか心の中で獣飼ってる設定お前だったよね?」
     羆というのは主に蝦夷地にて生息するクマの一種で、日の本に生息する陸棲哺乳類では最大の大きさを誇るといわれている。生態としては、一度狙った獲物或いは一度自分の物だと認定した相手に対し妙な執着を見せ、逃げられたり奪われたらたとえそれが遺体であっても取り返すべく襲ってくる。凶暴性は高い。万斉はそれと銀時に通ずるものがあると高杉に話していた。
    「今も妬いてんだろ? あいつらに」
    「うっせー」
     生家にて勘当された高杉にとって、鬼兵隊は第三の家族のようなものだったことは銀時も理解している。だからこうして今日も足を運んだのだ。しかし、こちらを見向きもせず五分以上墓の前から動かなかったり、楽しそうに鬼兵隊の話をする様に嫉妬していたのも事実だった。
    銀時自身、正直自分が此処まで嫉妬深く独占欲が強いとは思っていなかった。高杉は万事屋に住むようになってから神楽や新八と仲良くしてくれているし定春の面倒や散歩までしてくれているのに。微笑ましいとさえ思うのに。
     定期的に遊びに来る来島や武市の前ならまだしも、鬼兵隊の墓の前で楽しそうにしている高杉を見ると獲られてしまいそうで面白くないし何より怖かった。
     ただ、これ以上無様な姿を晒すのはあまりにも恥ずかしく惨めである。体勢を戻し、酒器を掴んで一口に煽ると息を吐いて墓に頭を下げた。そもそも本来はこれを伝えに来たはずだ。随分と時間がかかってしまった。
    「高杉くんを俺にください! 絶対に幸せにします! まあ元々俺のなんだけどね? でも一応家族には報告しなきゃいけないからね? まあ昔から俺のだけど。俺も家族みたいなもんだけど。ちょーっと倦怠期はあったけど俺のだから!」
     墓はなにも答えない。それでも高杉は、銀時の肩に寄りかかりながら楽しそうに笑った。



     帰り道、木の根に躓き盛大に転んだ銀時は「え? ダメ? これはダメッてこと? つーか独占欲強いのどっちだよ……モンペか? モンペなのか? 晋ちゃん親衛隊なのか?」と腫れた頬を撫でながら天へと叫んだ。数羽の瑠璃鶲(るりびたき)が後ろで鳴いている。








    【銀高②】

     周りの木々から降ってきた紅葉が一枚、御猪口に蓋をする。濃紫の紅葉が野村紅葉と呼ばれているというのは先程船場の店主に教えてもらったことで、春は濃紫、夏は深緑、秋は黒がかかった少し枯れたような色に変化するという。この時期は桜の桃色と紅葉の濃紫が同時に見られるということで、「あんちゃん良い時期に来たねェ」と店主は髭を撫でながら言っていたのを思い出した。




              **

     黄泉平螺坂は、江戸から二一二里(約八〇〇キロ)離れたところにあった。かつての男神と女神が離縁したという神話があり現世と黄泉の境目とも言われている場所は、たとえば先立たれた妻に会いに行く夫や先立たれた息子に会いに行く母親などが参拝する姿が見受けられた。
     果てしなく遠い道も、天人の技術を用いた飛行や電力によってあっという間に着いてしまうのだから皮肉なものか。
     そもそも銀時が――否、正確に言えば銀時、神楽、新八の三人がこの地へと訪れたのは突如舞い込んだ仕事のためだった。依頼人は坂本辰馬の商売相手であり黄泉平螺坂を管理している権三郎という男で、腰を痛めてしまい急遽助っ人を探していたのだという。江戸から出雲までは随分と距離があるものだからはじめは銀時らも断っていたものの、交通費を始めとした旅費は全て坂本が持つという条件を提示され重い腰を上げた。ちなみに、この時点では銀時は黄泉平螺坂が持つ意味を知らず、いざ到着し権三郎に神話を聞き絶句した。
    『ただの石ころを見張るだけじゃねえのかよぉぉ! 銀さんちょーっと用事思い出したから行ってくらァ』と咆哮し、呆れて肩を竦める神楽と新八に全てを押し付け黄泉平螺坂から転げ落ちるようにして離れた。逃げたと言っても過言ではない。銀時は心霊の類が嫌いだった。

     そうして辿り着いたのが、この船乗り場である。川に沿うようにしてたくさんの桜の木が生えておりまるで桜雲のよう。合間には野村紅葉なども咲きそれらが月の光に照らされている見事な場所だった。平日の夜と言うことで客も見えず、船乗り場の店主は欠伸をしながら銀時を出迎えた。「どうだい、乗っていくかい? 今日はもう店仕舞いだからサービスしてやるよ」と羽振りが良いことを言う。その言葉に銀時の双眸が輝いたのは言わずもがな。無料よりも怖いものは無いとよく言い伝えられているが、貧乏生活をしている銀時にとって無料はありがたく受け取るものに過ぎない。
     こんなことならば神楽と新八も連れてきてあげればよかったと内省するも、呼びに行くために黄泉平螺坂まで踵を返すのは気が引けた。このことは二人にバレないように墓場まで持っていこうと決める。
     素直に頷いた銀時に店主は一艘の屋根船を指さして、次に自身の腰を宥めた。
    「こいつの動力は竿一本だけさ。本当はワシが漕いでやりてェが如何せん腰を悪くしちまってな」
    「ここのジジイ共は腰を痛めるのが流行ってんの? てめェで漕ぐから良いよ。適当にのらりくらりと楽しむさ」
     あっけらかんと言う銀時に、がははと笑声を上げると受付の小屋から立ち上がった店主は、若いもんは頼もしい――と大層愉快そうに言い、酒が入った棚から一本の徳利と一つの御猪口を取り出して銀時の手に押し付けた。
    「これもサービスだ。安酒でも文句は言うなよ?」
    「随分と気前が良いじゃねえか」
    「そういう日もあるってことさ」
     冗談めいた顔で言う店主に、酒器が載った盆を見据えなにかを思案する。
    「なあ、じいさん。すまねェが御猪口二つ借りてもいいか?」
    「なんだい、お連れがいるようには見えねえが? 目に見えない相手とでも呑むってかい?」
    「まあそんなとこだな」
     銀時の抽象的な回答に首を傾げるも嫌な顔一つせず棚からもうひとつ御猪口を取り出し盆に載せた。
    「何十年と見張りをやっていたら色々なお客に会うもんでな。あんちゃんもきっとなにかあんだろうなあ。まあいい、楽しみな」
     銀時の肩をぽん、と優しく叩くと幾つか並んでいる屋根船へと足を進める。腰を曲げてゆっくりと歩く店主の背中を銀時も追った。

     
     店主は地図を広げながら銀時に航路を伝えた。皺の目立つ指があれよこれよと目印となる地点を指す。
    「時間は気にしなくていい。ゆっくり楽しみな」
    「おう、ありがとな」
     最後に屋根船と乗り場の杙を繋ぐ太い紐を外して、力いっぱい押してやった。いつも通りの仕事だ。
     きぃ、っと木が震える音があたりに浸潤し、銀時を乗せた屋根船はゆっくりと川を進む。

    「いっけねえ、ひとつ伝えるの忘れていた」
     その姿を見送った店主はバツが悪そうに頭を掻くと大きな声で叫んだ。
    「あんちゃーん! 途中分かれ道があるが左側には絶対に行くなよー!」
     果たして銀時に聴こえていたかは分からない。左側に行けば黄泉平螺坂の麓へと繋がってしまうのだが、大丈夫だろうか。黄泉平螺坂は現世と黄泉の境界線であるが、よっぽど本人が望むことがない限り生者を黄泉へと引きずり込むような真似はしない。それでも一抹の不安を覚え、代々水の見張り番をする店主の家に伝わる水神に祈りをささげた。蛟様、どうかあの若えのをお守りください――。





              **

     どれだけ漕いだだろうか。乗り場よりも大分離れた気がするが、羅列する桜の木も紅葉も途切れることはない。相変わらずの絶景である。道なりに沿うようにして竿を動かし分かれ道にいた狐に気を取られながらもここまで来た。店主が言う通り、人ひとりおらず閑静な空間がただただ続く。もうそろそろ良いだろうかと、竿を置き柱に背中を預けた。
     徳利に入った酒を揺らして、ふたつの御猪口にことことと注ぐ。立膝をつきながら片方の御猪口を口許へと運んだ。片方の御猪口は舞い落ちた紅葉が蓋をしている。
    「高杉……」
     冷えた日本酒が喉を通り胃の中へと落ちて行く。その代わり腹から込み上げた名前を慈しむように吐き出した。あの日、地獄で待っていてほしいと一方的に約束はしたものの、やはりそれまで会えないのはなんとも寂しいものである。春愁とはまさしくこのことだろうか。まだ一杯しか口をつけていないというのに酔いが回ってしまったのか、込み上げる想いと共に涙が一粒零れた。逢いたい、できることならばもう一度、逢いたい。ふと、風が騒いだ。紫煙の甘苦い香りが鼻孔を擽る。
    「久方ぶりに他人に名前を呼ばれたと思ったら、てめェだったのか」
    「っ、たか、ッ」
     すとん、と船の端が沈む揺れ、聴き慣れそして求めた声が聴こえた。濃紫の着物の裾から伸びる足が、驚愕により体を固まらせ目を剥く銀時の元へと一歩ずつやってくる。所詮小さな屋根船なのでそれはすぐに目の前へとやってきて銀時の隣に腰を下ろした。月明かりが照らす姿はまるで輝夜姫のよう。
    「よォ、銀時」
     煙管を咥え右目を細めた男は、銀時があの日からずっと求めてきた男。愛してやまない男、高杉晋助だった。
     あの日無くなってしまった片腕は元に戻り、傷口すらもまったくない綺麗な体。さらに昔塞がってしまった左目は相変わらずの様で包帯が巻かれている。
    「な、なんで……っ」
    「なんでっててめェが呼んだんだろ?」
     くつりとそう言って見せた高杉に、銀時はぱくぱくと酸素を求める金魚の如く口を開閉した。
    「だって、おまえ、あの日死んで……」
    「そうだな」
    「つーことは幽霊……?」
    「そういうことになるなァ」
     ひぃっと項の産毛が粟立つのは心霊の類が苦手な銀時としては仕方のないこと。しかし、たとえ幽霊だとしても高杉に逢えたという事実に僥倖を感じた。「そうか……」と落とした声は酷く切ない。
    「生き返ってくれたとかじゃねえんだろ?」
    「そうだな。今の俺ァ、お前の言いつけ守ってあちらでのんびりやってるよ」
    「言いつけ守るってそんなタマかよ……」
     珍しいことを言うものだと苦笑する。しかし、その言い草が嬉しかったのもまた事実だった。
     蓋をしていた紅葉を盆に避け高杉へと渡すと、大層おかしそうにくつりと笑みを零す。幽霊だとは言え、どうやら物は掴めるし足もあるし話もできるし酒も呑めるらしい。随分と都合の良い幽霊だと銀時は肩を竦めた。
    「地獄って楽しい?」
    「退屈すぎて腐っちまいそうだ。どうやら俺には現世の方が地獄だったみてえだな」
    「違いねェな」
     銀時もそうだと思う。高杉がいないこの世は地獄だといつも思っていた。そんな銀時を支えていたのが神楽と新八や、桂や坂本、そしてお登勢を始めとした江戸の人間である。だからこそ、どんなに喪失感に打ちひしがれようとも高杉の後を追う真似はできなかった。抱えた者が多すぎた。その背中の重みが幸せであることも銀時はよく知っている。
    「地獄に行ったらさ、ずっとお前と喧嘩し続けるから……その分酒も酌み交わすけど……だからもう少し待っていてほしい。寂しい思いをさせちまうかもしれねえけど」
    「ほざけ。寂しい思いしてんのはてめェだろ」
     きっと地獄に落ちたとして。刑期を終えるためにはうんざりとするほど長い時間が設けられるはずだ。だから、その時は高杉の傍に――。
    「銀時。俺達は昔から喧嘩ばかりだった。それはきっとあっちに行っても変わらねェだろうよ」
    「ああ」
    「いよいよてめェが来た時には地獄のもんが壊れるんだろうなァ。地獄もお断りだろうな。だから、てめェはもう少しこっちで元気にやれ」
    「高杉……」
    「そしてお前がこっちに来た時は相手してやるよ。だから首洗って待ってな」
    「っ、」
     緩んだ涙腺と口許に力を入れて、奥歯を噛み締める。双眸を伏せ俯いた銀時のふわふわの御髪に冷たい温もりが置かれた。頭を撫でてくれるなんて随分とらしくない。
    「なあ? 最期に抱きしめても良い?」
     らしくないならば、これだけは許されるだろうか。そんな一抹の希望を掛け乍ら言ってみる。笑い飛ばして殴ってくれれば関の山、柄でもないことはよく分かっていた。しかし、高杉が銀時へと返事をする前に銀時の頭は抱き寄せられ気づけば鼻先が触り心地の良い着物に触れていた。ぽん、ぽん、と頭を背中を撫でる手付きは酷く優しかった。
    「鼻水はつけんじゃねえぞ」
     穏やかに言った言葉に、遠慮なくと肩口に顔を埋める。銀時の背中を優しく撫でる高杉と、高杉の背中をきつく抱きしめる銀時の間にたしかに温もりはあった。






              **

    「――さん、銀さん!」
    「っ!」
     夢現に流れ込んできた声に、銀時は大きく目を剥き体を起こした。視線の先には不貞腐れるように頬を膨らませる神楽と、こちらを心配そうにのぞき込む新八と船乗り場の店主の顔がある。
    「俺は……」
    「銀さん大丈夫ですか?」
    「船が帰ってきたと思ったらあんちゃんが寝ながら泣いてるから驚いたよ」
    「私たちは働いているのに銀ちゃんだけ川で酒呑んでるなんてずるいネ!」
     どうやら寝てしまっていたらしい。高杉と酒を呑むというなんだか不思議な夢を見た気がするが、夢というものは不思議なもので起きた時には断片的なものしか残らない。
    「神楽と新八はどうしてここに……」
    「僕らも仕事を終えて黄泉平螺坂から下りてきたんです。桜が綺麗だねって花見をしながら旅館に帰ろうしたら、おじさんが屋根船見ながら困っていて。そしたら銀さんが寝ていて……」
    「酢昆布買ってくれなきゃ許さないアル!」
     憤怒する神楽を宥めながら立ち上がるとたしかに頭が回った。徳利は空になっており、どれだけ飲んだんだと苦笑する。呆れた新八に支えられる銀時を見て、店主はなにかを思案していた。
    「じいさんどうした?」
    「あ? あァ。寝ているあんちゃんの船をここまで運んだのは蛟様かもしれんと思ってな」
    「蛟ぃ? 蛟ってあの?」
    「あァ。我が家に代々伝わる水神様さ。池だろうが川だろうが沼だろうが海だろうがどこにでも出てきてくれるお方だ」
     ありがてえもんだ――と川へと拝んだ店主に、ただただ銀時は首を傾げるしかなかった。






    【〝もしも〟の特典銀高】







    「四人で予約していた木戸です」
     萩城横の志月橋乗り場にて、〝木戸〟と名乗った男は窓口にて座る受付嬢に指を四本立たせて見せた。男が被る三度笠からは長く艶やかな黒髪が風に靡いて揺れている。受付嬢は男の後ろにいるこれまた編笠を被った三人を見据え、次に手元の資料を指で追いながら照らし合わせた。たしかに予約表には『木戸様 四名』と書かれている。
    「お待ちしておりました、木戸様。こちらでお名前の記載をお願いします」
    「木戸じゃない、桂だ」
    「かつ……え?」
     窘め訂正する男に受付嬢は唖然とした。たしかに予約表には木戸と書かれているしこの男もそう名乗ったはずだ。困惑しながら再度資料を眺めようとしたところで、佇んでいた三人の内の一人が銀髪を揺らしどかどかとブーツを鳴らしながらこちらへと迫ってきた。粗相してしまったのかと女は背筋を伸ばす。しかし、
    「あー! すんません! こいつ結婚して名字変わったばかりだからまだ慣れてねえんだよな! そうそう、木戸です木戸!」
     男は長髪の男を蹴り飛ばすと代わって名前を書きだす。その間、受付嬢は男の連れを眺めた。地に伏せている長髪の男を含め、我関せずと云った具合に煙管を喫う濃紫の着物を着た男と灰汁色の長髪を靡かせた長身の男か女か分からない者は良く顔が見えない。日中は日差しが強かったとはいえ、もう少しで日が暮れるのだから編笠は必要がないはずなのだが、なにか事情があるのか。知らぬが仏と内心言い聞かせ、受付嬢は予約表に視線を戻した。
     乱暴に書かれた右上がりの字は予約表の枠をはみ出ている。『坂田晋助』予約していた男の名前とは違うこの名詞は目の前の男の名だろうか。本来は予約した人間の名前を書かなければいけないのだが関わってはいけないと口を噤んだ。
    「では、ご用意をしますので少々お待ちください」
     銀髪の男は気の抜けた返事をすると未だに地にて伸びている男の足を掴みながら引きずった。他の二人も受付の隣にある待合小屋へと踵を返す。お連れ様方はそれで良いのだろうか――と思うも、お通しするべく準備を始めた。

    「四名様でお待ちの坂田様、坂田晋助様~」
     二分後。準備が終わり待合小屋にて名前を呼ぶと、今度はあの銀髪の男が派手な着物を着た男に蹴り飛ばされた。







              **

    「本気で蹴ることねえだろ……」
     いてて、と未だにジンジンと痛む蹴られた臀部を宥める。すでに編笠を取り、煙管を咥える高杉をねめつけるも胡坐をかいた高杉はこちらを見ない。隣に座る松陽へと煙が行かないように向こう側へと吐き出している。
     木戸――もとい桂が予約した遊覧船は屋形船と云うよりも屋根船に似た、一間の憩いの空間を作り出す、五人用の小さな船だった。一応元過激攘夷派として名を馳せていたので偽名を使って予約にしたにも関わらずいつもの癖で危うくバレてしまいそうになるも、なんとか乗り切り今こうして予定通り乗船していた。屋形船や屋根船の上座は真ん中の窓際となるので、そこに我らが師である松陽に座らせ、弟子で囲うようにして酒を酌み交わしている。

    「銀時、晋助、小太郎。大きくなりましたね」
     桂にお酌をしてもらいながら松陽は目尻を細める。膝を曲げた綺麗な佇まいで御猪口を口許に付ける姿は、後ろで舞う桜の花びらのように優雅なものだった。
    「こうして愛弟子たちとお酒を嗜めるだなんて私は贅沢者ですね」
     笑みを零す松陽に釣られ、煙管を懐へとしまった高杉も徳利を持っていた桂も口許を緩める。失ってしまったあの日には、こんなにも穏やかな日が来るだなんて思ってもいなかった。
    「あの頃は下の毛も疎らなガキだったからな」
    「銀時! 先生の前で下ネタはよさんか!」
    「小太郎、いいよ。銀時は昔からこうだからね」
     優しく制す掌に桂は息を吐きだした。
    「成長しねェな、てめェは」
    「身長伸びてない奴に言われたかねえよ」
    「伸びたっつってんだろうが」
     まるで試合が始まる鐘の如く身を乗り出した銀時と高杉と止めるべく咆哮する桂に、くすくすと松陽は笑声を零す。纏っているものも背丈も声も色々なものが成長しているのに、目の前で繰り広げられる光景は一切変わらない。それがまた愛おしい。
     あなたたちはどうかこれからも、このままでいてください――。
     酒器の中で揺れた日本酒に思いを込めて、松陽は大きく呷った。






              **

     小さな同窓会が始まってから一刻。まるで時間を忘れるように呑み暮れる彼らの周りには倒れた徳利がずらりと並んでいる。
    「それで今俺はヅランプ政権を経てオバZの活動をするべく七つのボールを探しているんです」
    「そうでしたか。私はあのペンギンとても可愛いと思うよ」
    「ペンギンじゃない、エリザベスです先生」
    「エリザベート?」
    「エリザベスです、先生」
     愛弟子から沢山御酌をしてもらい、今はまた桂が隣で近況を報告しながら酒を注いでいる。
     一方、特に浴びるように呑み顔を赤く染めた銀時は寝転がりながら高杉へと絡んでいた。高杉の、御猪口を持っていない左手を攫い頬に当てている。
    「なんでてめェの手は男のくせにこんなすべっすべなんだよ! 赤ちゃんか? どうりで背が低いと思ったんだよなあ」
    「誰が赤子だ。潰すぞ」
    「潰すってなにを? 銀さんの銀さん? 銀さんの銀さん潰れたら困るのおめえだろうがぁ」
    「困らねェよ。てめェは酔いすぎだ」
     呆れたように肩を竦めた高杉は、銀時の頬へと押し付けられた手を動かし銀時の鼻を摘まんだ。ぶふッと慌てて呼吸をする銀時にくつりと小さく笑みを零す。お前も酔っているだろう――と桂が窘める。顔には出づらいが、たしかに高杉も存外体に酒が回っていた。久方ぶりの尊敬し敬愛する師と過ごす時間を、ええ格好しいにお行儀よくしていたのはどうやら始めだけらしい。
    「なあに可愛いことしてくれちゃってんの? 高杉くぅん」
     銀時がにやりと口許を緩めると、そのまま高杉の膝の上に頭を乗せた。自身よりも幾分華奢な腰を抱きしめる。高杉は高杉で、「おい」と咎めるが、逃れようとはしない。高杉の香りを吸い込むようにして堪能すると、膝に頭を乗せたまま松陽らへと向き合った。
    「おいヅラ、てめェのよくわかんねえ近況報告は終わったか?」
    「よくわからないとはなんだ。良いか? オバZとは江戸を再構築する英霊志士――」
    「うるせえよ! 次は俺の番だ。松陽!」
    「はい」
     穏やかな風が四人を包む空間で、銀時は再度高杉の手を握る。
    「俺と高杉、結婚することにしたんだ」
     祈りを込めた声だった。
    「君たちが想い合っていたのは知っていたよ。そして私はこの時を待っていたのかもしれないね。私は君たちを、弟子であると同時に家族だとも思っている。家族の幸せな報告を聞けて本当に良かった。今日はありがとう」
     穏やかに笑った松陽の手は高杉、銀時、そして桂の頭を順に撫でた。体を揺らしながら高杉の着物へと顔を埋め隠してしまった銀時のふわふわの癖毛に数滴の雫が零れた。「貴様ら……武士たるもの涙など……」と窘める桂も震えていた。

    「銀時、晋助、小太郎。君たちを支えてくれた坂本くん、そしてもうふたりの愛弟子たち。あなたたちは私にとって大切な宝物です。今日は本当にありがとう」
     
     



    【銀高①】




     山桜の花言葉を知っていますか――。ふと、過った言葉は、松下村塾の縁側で涼んでいた時に、敷地内にある新緑の香りが漂う樹木を眺めながら師が問いかけたものだった。たしか「分かりません」と素直に答えた気がする。桜の季節なんてとうに過ぎていて、青々とした木が雨上がりの湿った風に吹かれながらザアザアと音を立てていたものだから、随分と季節外れだと首を傾げた記憶がある。だからこそ、素直に分かりませんと答えたのかもしれない。
     松陽はこちらを見詰める双眸に、にこりと嫋やかな笑みを浮かべると「山桜の花言葉は、」と続けたはずだ。不明瞭な瞼の裏で口許がぱくぱくと開閉するが、生憎音は聞こえない。
    (なんて、言っていたか……)
     師の言葉を一言一句忘れたつもりは無かったが、意外にも頭から滑り落ちているものはあるらしい。答えはなんだか不気味で身を凍らせた記憶こそあるが。高杉は自身を窘めるように嘲弄すると身体を起こして窓の外を眺めた。真っ黒い海の上を航行するこの船は江戸へと向かっている。船の中とは思えないほど静かでゆったりとしたこの空間を照らしているのは、水平線のはるか上にある月明かりだけだった。鬼兵隊の船の甲板や自室で飽きるほど月を見たが、それとはまた違った景色である。もうすぐで満月だ。

     隣の、こちらに背を向けて眠りこける銀時を眺める。自身の腕をまくらにし、僅かに口を開けて喉の奥からがーがーと鼾をかく姿は暢気なもの。間抜け面しやがって――と高杉は鼻で笑った。
    昔からそうだった。やる気のない双眸とひょうひょうとした性格が相俟って無頓着に見えるが、根本は物事を背負いやすく責任感が強い。ただ、底にある正義感の強さは本人に自覚がなく、背負わなくてもいい余計なものでさえ抱えてしまう。損も得もしやすい。
    「てめェはアホなんだよ……銀時」
     身を乗り出し、肩からずり落ちている掛布団を首元まで引っ張ってやる。一瞬鼾が止んだが、またもやがーがーとまるで地を這う怪物のような音が響いた。
     世の中には適材適所という言葉がある。一度死んだ師を奪還或いは復活を阻止だなんて、同じく亡霊のやるべきことだ。銀時にこれを背負わせるのはまだ早い。だからこそ、巻き込むつもりは無かった。誰しも、抱える両の手には、懐には、背中には、相応の似合いのものがあるのだ。銀時が背負うべきものはこれじゃない。
    「なのにてめェは……」
     どうして、いつも抱えようとする。
     高杉は奥歯をギリっと鳴らし、寝息に沿って上下する銀時の肩へと頭を重ねた。布団を握った掌が次第に皺を作っていく。泳げないくせにわざわざ死体で橋を作り乗船した銀時はまるで火中に飛び込む獅子のようだった。そして、高杉が心臓(中身は違ったが)を奪ったとはいえ、銀時が自身を追ってきたことに驚愕と怒りを抱きながらも、どこか安堵した自分が情けなかった。いつの間にこんなにも未練垂らしくなったのか。銀時が指摘したことはあながち間違いではないかもしれない。悔しいことに。

     銀時と高杉がこの二年間それぞれ調べていたこと、感じていたこと、見たこと、得たこと。それらを併せた時、やるべきことは決まった。銀時が共に行動をする理由も正当であるし、きっともう退くことはないだろう。それでも、切なそうに思い詰めたように心臓を見据える銀時に、後ろ髪を引かれる思いもあった。銀時がここにいることは本当に正しいのか。
    (先生……)
     二人の枕元の間に置かれた心臓を指の腹で撫でながら師へと訊ねる。
     もう少し生きるために朧の骨を体内へと取り入れたことを話した時の、あの瞳の奥に虚無と絶望を写し顔色を真っ白にして絶句していた銀時の顔が頭から離れなかった。吐血をするたびにこちらへと腕が伸ばし肩を抱き寄せ、高杉が咳き込むのを終わるまでジッと鳴りを潜めていた時の、眉間に皺を寄せ下唇を白くなるまで噛んで耐えているあの顔が離れなかった。
     気でも違ったか、吐血した高杉の手を掴み血液ごと背負うように唇を重ねようとした銀時を突き飛ばした時の、泣き出してしまいそうな子供のような顔が離れなかった。
    「これ以上、そんな顔を俺の目に映すんじゃねェよ……」
     ただでさえ、左目は泣き顔に埋め尽くされている。絶望やら泣き顔やらは腹いっぱいだ。十二年も泣き続けたのだから、もうそろそろ晴れてもいいんじゃないのか。
    「なァ、銀時」
     眠る銀時の首筋に指を滑らせ、温かさと鼓動に息を零す。十数年抱いてきた片想いはここで終止符を打たなければいけない。銀時が大切にしているものを護るために。
     着流しの袖を指の先まで引っ張ると、そのまま布越しに銀時の唇に自身のそれを重ねた。自分勝手だということは十分わかっている。銀時にだって絶対に言えない。万が一血液が銀時の体内に入ってしまったら意味がない。だから布越しに。
     時間にしたらたったの三秒。どうやら気が違ったのは自分の方だったらしい。ただでさえ墓場まで持っていく荷物が多いのに、此れまでも増えることに苦笑しながらも、今度はゆっくりと離した。高杉の顔は、慈愛と憂いに満ちていた。
     しかし、
    「高杉」
    「っ、」
     離れていく顔を阻止するように後頭部へと温かい掌が回されて、気づけば再度唇が重なっていた。いつの間にやら銀時の体勢は仰向けになっており、筋肉質の腹の上で高杉を抱きかかえている。
     今度は布越しどころか舌まで交わらせている始末だ。今は吐血していないとはいえ唾液からも銀時の身体に害を及ぼす危険性は皆無ではない。舌小帯を突く銀時に息を漏らしながらもグッと胸板を押して抵抗すれば、
    「もう少しこのままで……」
     と、吐息交じりに銀時が言った。銀時の顔は憂いに満ちていた。スッと身体の力が抜け、銀時へと身を預ける。高杉は諦観したように目を閉じた。高杉の左目に映る銀時は泣いている。



              **

     橙色と紺色が混ざる夕焼け空は相変わらず綺麗である。
     高杉を抱きかかえている銀時の顔は憂いに染まっており今にも泣いてしまいそうだった。ただ、見たいのはその顔ではない。銀時の泣き顔はしっかりと地獄へと連れていくから、だからもう――。
    「地獄で首洗って待ってな」
     やっと伝わったのか、銀時は下手くそな笑顔をこちらへと向けて笑っている。それは高杉がずっと追い求めていた顔だった。
     ふと過るは師の言葉。
    『山桜の花言葉を知っていますか』

    (あァ、先生。やっと咲いたよ)





    ・山桜の花言葉……あなたに微笑む。













    【銀高②】




    「おっ! 銀の字じゃないか!」
     明朗快活な声が聞こえて、銀時は後ろを振り向いた。少しだけ慌てたように構えた店先から出てくる店主は腹掛けを揺らして豪快な笑みを見せている。「なんでィ、銀の字! ここんとこ魚を一本多く買っていくようになったと思ったらそういうことだったのか!」白い歯を見せて笑う店主はこれは良いものをみた――と頷きながら、銀時の隣にいた高杉を眺める。銀時の上腕二頭筋に寄り添いながら佇む姿は、嫋やかな印象を受ける。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、まさしくそんな格言が頭を過った。
    「いやァ、ワシの嫁も昔はこれくらい別嬪だったんだがね。今では鬼嫁よ、鬼嫁」
     警戒するように尻すぼみになる店主に、銀時の脳裏はいつも店主の隣で声を張って店番をしているひとりの女性が浮かんだ。店主に負けず劣らずの豪快さを持つあの奥さんの過去が高杉に似ているとは考えにくい。いかにも、母親を具現化したような背格好だった。母親のいない銀時にとってはイメージでしかないが、まさしく母親。母ちゃん。
    「ちょっとアンタ! 店から離れてどこ行った……と思ったら、あら、銀さんに高杉さんじゃないの」
     またもやひょうきんとした声が辺りに浸潤し、脳裏に浮かばせていた姿が鬼の形相で店先から出てきた。しかし、「ゲッ」と狼狽える店主をよそに、奥さんの視線は銀時と高杉へと向けられる。
    「一緒に来ているのは初めて見たわぁ。あらやだ、本当に銀さんと住んでいるのね」
    「え、お前知り合いだったの?」
     長らくかぶき町に住む銀時こそ、この夫婦と顔見知りではあるのだが、まさか高杉まで知り合いだったとは。店主よりも先に銀時が反応し、高杉に訊ねれば「あァ。前に魚を安くしてもらった」といつも通り淡々と答えた。
    「え、いつの間に……」
    「てめェがこの前せっかく避けておいた家賃でパチンコ行った時だ」
    「……すんません」
     苦い思い出に顔を引き攣らせる。たしかにあの日、我が家は魚だった。誰がいつ買ったかなんて特に気にしていなかったので、銀時は魚に触れることはなかったが。
     話題は終わりにしようと店主に断りを入れこの場を離れようとしたところで、奥さんの声がまたもや響いた。
    「高杉さん、最初坂田って名乗っていたからもしかしてと思って聞いてみたのよ。そしたら坂田銀時のことだって言うから、あらあの銀さんのことじゃないのって」
    「え、」
     油の足りなくなったカラクリのように、ぎぎぎと首を横にし高杉を見据えれば、少しだけ穏やかそうに笑みを浮かべていた。思わず顔を反らして口許を手で隠す。心臓がぎゅうっと音を鳴らして締め付けるので、ブーツの中で足の親指を丸めて耐えた。ビニール袋を持った掌がジンジンと熱を持ち、母指球に爪が刺さる。なんという幸せな苦しみだろうか。
    「どうした銀時。顔が赤ェが熱か?」
    「あー、はい……うん……熱かもな」
     なんだこの可愛い男は。店主と奥さんの愉しそうな、そして微笑ましそうな視線にがしがしと頭を掻いて落ち着くために深呼吸を数回。
    「まぁ、おめでたい! ちょっとアンタ! ほら! 坂田さん家に魚用意して!」
    「お! そうだな! サービスだ! いやー、これはめでてぇなァ」
     ちょっと待ってろ――と踵を返した店主の羽振りの良さから、いつもならば手放しで喜んでいたところだが、襲い掛かる羞恥と僥倖に顔を真っ赤に染めて頭を掻いて佇むしかなかった。
     一方、隣で相変わらず銀時の腕に寄り添っている高杉と云えば「かぶき町の人間は誕生日じゃなくても祝ってくれんのか」と素っ頓狂なことを言うものだから、奥さんはまた笑みを零した。










    【夜叉督①】



    
     向こう側の山頂にうっすらと霞が見えた。まるで薄い布切れのような蒸気が、幼子に布団をかけてあげるように山頂を覆っている。あの情景が現れたとき、いよいよ冬が近づいているのだと昔師が教えてくれた。『冬構えですね』と師が手狭な押し入れから冬用の羽毛布団を四つ取り出してそれぞれに掛けた。萩にしては珍しく霜が降ったのはそれから一週間後のことである。
     どうりで。床につけた足が幾分冷え、踏み込むたびに踵の芯にキンと響くはずだ。そろそろ室内でも床につく前でも足袋が必要なのかもしれない。
     高杉晋助は、冷えた足の裏を宥めながら隣に置いていたお猪口を手に取った。
     先日坂本辰馬が行商から得意の交渉術を用いり破格の安さで手に入れた熱燗は、こくりこくりと喉を通って冷えた体を温めていく。この日本酒は十年も大事に熟成された美酒で、かつての宮廷行事にも捧げられてきた『大和田屋の看板商品』だと商人が豪語するほどに、それはそれは大層美味かった。坂本を経て与えられた最初は格安とはいえ値段のこともあり、慄いた隊士が不用意に手を出せずに〝大事に吞もう〟と誓い合ったのだが、今ではそのような心意気すらも忘れ、美酒を片手にどんちゃん騒ぎである。最早へべれけになった舌ではその有難みや美味さも感じられないほど。之では勿体ないと、高杉は先程徳利を三本とお猪口を一個くすねて、即席の宴会場とは打って変わって静かな縁側にて腰を下ろしていた。

     ふと、縁側の木の目がぎしりと寂れた音を鳴らす。僧侶のいなくなった寺院はここ最近の掃除に恵まれることなく、歩く度に少しだけ埃の匂いがする。
    散々気配を消していたにもかかわらず、最後の一足で音を鳴らす様に、高杉は小さく笑みを浮かべた。あちらも縁側に腰を掛けたこの姿に警戒していたのか、それともただの気まぐれか。
    「こんなところにいやがったか」
     斜め後ろから聞こえてきた声に横目で一瞥をくれてやれば、そこには差料片手に着流しを纏う坂田銀時が頭をがしがしと掻きながら佇んでいた。普段の気だるげな双眸は、酒に酔っているからか目尻を赤くさせている。倣うように、高杉の隣に腰を掛けた銀時からはぷんと酒の匂いがした。こいつは昔から弱いくせに、人一倍浴びようとするから質が悪い。
    「なに独り占めしてんだコラ」
    「どうせ誰も気づきはしねェだろうよ」
     高杉専用と言わんばかりにお盆に載せられた酒器を見て、銀時は眉間に皺を寄せながら苦言を呈した。しかし、高杉が言うように今まで銀時がいた宴会場はすでに様々な種類の酒が転がっており、酔っぱらいの集団にはどれが高級美酒であるかを気付くことの方が難しい。それに、いつの間にやら高杉がひっそりといなくなっていたことにも大半の人間が気付いていなかった。銀時以外は。
     銀時は、徳利からお猪口へをお酌し湯気を立たせている様を恨めしそうにねめつけ、すぐさま腕を伸ばした。
    「俺にも寄越せ」
    「まだ飲むつもりかァ? あとてめェの分のお猪口は持ってきてねェよ」
    「気が利かねえ総督サマだな」
     しかし高杉はその腕に嗤笑するだけで、自分の口許へと持って行ってしまう。こんなことならば一個同じようにくすねてくればよかったと後悔するが、豪快な笑声が響く空間に戻る気にはならなかった。銀時は分かりやすいように舌打ちを零して、高杉へと視線を向ける。当の本人は、そんな視線に反応することなくお猪口に口をつけ、僅かに尖った唇がふうっと表面の湯気を揺らした。立膝をし肘を預け、熱い酒を何度かに分けてゆっくりと酌む。見た目や佇まいひとつとってもほかの隊士たちとは違った端麗さがあり、酒を呑む動作ですら様になっているのだから腹立たしかった。これに惚れた弱みだなんて云う一番厄介な感情が足されるのだからどうしたものか。
     はあっと白く大きなため息を吐いてこちらも立てた膝に肘を預けてそっぽを向いた。
    「不貞腐れてんのかよ」
    「ちっげえよ! ちょーっと頭が痛いだけだ」
    「明らかに呑みすぎてんじゃねェか」
     突然の図星にとっさに誤魔化してみるが、どうやら高杉は騙されてくれるらしい。ちらりと横目で見据えれば、こちらに伸びたお猪口を持った手が戻って行った。もしかして分けようとしてくれたのかな。もしそうならば、頭が痛いなんて嘘はつかなければよかった。「ん」とダメもとで腕を伸ばしてみるが、すっかりと頭が痛いと信じてしまった高杉は今度は分けてくれようとはしなかった。
    「明日の出陣に影響でんだろうが」
    「ヅラみたいなこと言わないでくんない?」
     現在拠点としている寂れた寺院の五里先と二十里先に大きな樹木がある。そこに日替わりで張り込む見張り隊によれば、五百ほどになる幕府軍の軍勢と天人が西方面からこちらへと向かっているらしい。率いるは槍の名家、藤城流の跡取り息子であり藤城真凌流免許皆伝という実力者〝藤城咲之介〟と、戦闘派種族である天人の蜥蜴族が手を組んだのだとか。攘夷戦争が始まって数年、停滞し幕府軍が有利であったこの状況を覆しつつある銀時たちに幕府も警戒を強めているということで、確実に銀時らの首を狙いに来ているのだろう。あのどんちゃん騒ぎの中には、今日の美酒を最後の酒だと覚悟する者もいる。
    「坂田隊が先駆け隊を務めるんだったな」
    「おう。で、お前らが殿やるんだってな。名付けて囮作戦ってわけか」
     先程の軍議で決まった作戦では、今回先駆け隊を務める銀時たちの隊が昼四つ時に敵の拠点へと攻め入る。敵の数を少しでも減らし道をあけること、そして敵の大将を見つけ出すことを目的とし、二人一組となり撃つ。その間、桂や坂本やほかの隊を迎え入れここでも敵を討つ。最後に、殿として控えていた高杉率いる鬼兵隊が加わる手立てとなる。相手が槍の使い手である以上居合術を用いてくる可能性は高い。戦闘に向いているのは槍を避けることのできる小柄かつ尋常なる速さを持ち、突きで確実に仕留められることを得意とする高杉なため、高杉が戦いやすいように銀時たちは道を開き、蜥蜴族の首領を倒さなければいけない。
     和製大砲は殿である鬼兵隊が構えること、そして坂田隊や桂隊等が敵へと攻め入る間、拠点としているこの寺院を護ることが殿としての役割だった。
     先駆け隊は勿論、殿も手薄になるために致死率はほかの隊よりもずうっと高い。いくら白夜叉や鬼兵隊総督という立派な異名がついたとしても、首を刎ねられたら或いは心臓を貫かれたらそこで終わりだ。利き手の筋を斬られれば武士としての命も終わる。明日なんて約束された未来はない。しかし、
    「明日も死ぬんじゃねェぞ」
    「当たり前だろうが」
     明日も生きること、そしてまた美味い酒を呑むこと、こうやって顔をつきあわせること、本来であれば明々白々であることを覚悟とし、誓い合う。

     銀時は無造作に伸ばされていた高杉の左手の小指に自身の小指を絡め、僅かに力を込めた。『約束ですよ』そう言って、柳眉を垂らしながら連れ去られていった師の言葉を思い浮かべる。触れ合わせた小指は、冬の始まりを示唆するかのように冷たかった。





    **


    「銀時」
     聞こえてきた自身の名前に、銀時はお猪口から口を離し声の主を追いかけるように視線を向けた。はだけた着流しに申し訳程度に結ぶ帯は心許なさを感じる。先程まで汗により額に張り付いていた前髪は、時間を置いたおかげでいつものサラリとした御髪に戻っていた。
    声の主、高杉は銀時の横に置かれた徳利とお猪口の逆隣に腰をかけると持っていた煙管を咥えた。火皿から狼煙のように伸びた煙が天へと消えていく。あの時からもう十二年も経った。
    「寝れねェのか?」
    「一服してるだけだよ」
    「月を見て一服なんざ、いつの間にそんな風情を身につけたことやら」
     お猪口を揺らしながら答えた銀時に、高杉は喉をふるわせて笑みを零す。白金の月明かりが煌々と照らすこの空間は、電気をつけているわけでもないのに酷く眩しかった。
    銀時は空になったお猪口にことことと酒を注ぐと、それを高杉の隣に置いた。高杉の骨ばった指がそれを受け取り、口元で傾ける。こうしてゆっくりとお酒を酌み交わすまで随分と長い年月が掛かってしまった。喫い終わったらしい煙管は、カンっと劈く音を鳴らして灰を受け皿に落とした。そして高杉が口を開く。
    「明日はガキ共のところへ帰ってやれ」
    「……おう。ああ、そうだ。明後日はあいつらも連れてくるよ。お前の新居を見たいって燥いでいたからな」
    「そうかい」
     一度死んだとはいえ、元鬼兵隊総督という肩書きは恨みつらみを沢山買ってきた。今の高杉はそれらも全て背負って生きている。だからこうして、江戸のハズレにある旧き良き日本家屋でひっそりと暮らしていた。前に住んでいた人間が植えたらしい松の木が、庭園で悠々と佇む見事な新居であった。
     高杉がお猪口から口を離して松の木を眺めた右目は少しだけ眠たげで、銀時は小さく笑うと高杉の体を抱き寄せ自身の膝に形のいい頭をゆっくりと置いた。一度びくりと身体を揺らした高杉も、暫くすると銀時の膝の上で落ち着く。指の腹が銀時が高杉の家で寝巻きとしている着物の裾をぎゅうっと握った。そんな姿に、銀時の指が宥めるように手触りのいいサラリとした髪を頭皮から撫でていく。
    「んな警戒しなくても俺はもうお前を離す気なんざねえよ。そうだ。明後日さ、あいつらがここに遊びに来た時改めてお前のこと紹介していい? 俺の嫁さんですって」
     込み上げてきた恥ずかしさで鼻を掻きながらそんなことを言う。しかし、返ってきた答えは小さな寝息だけだった。
     身をも凍らすような寒さが若干緩和された杪冬とは言え、まだまだ頬を撫でる風は冷たい。銀時は苦笑すると肩にかけていた羽織を寝転ぶ高杉へと掛けて、裾を握った掌から小指を攫いいつだかのように絡めた。








    【八高①】



     例年よりも早めに咲いた桜を眺める横顔はいつものようにどこか気だるげだった。今日卒業するクラスの担任だというのに、父兄に見つからないように煙草を咥える様は教師の風上にも置けない。
    「女子生徒がお前のこと探してたぞ。高杉先輩どこ~! って。カリスマヤンキーだかなんだか知らねえけど、中二病のぼんぼんでもモテんだな」
    「ぼんぼんじゃねェ。……つーかてめェも探されてたぜ? 坂田先生どこだってあの触覚共に」
    「それは勘弁だな」
     煙草を隠すことなく苦笑した銀八に、高杉もほくそ笑むと同じように並んで桜の木に背中を預けた。木特有の土が湿った匂いが体を包む。「一本くれ」と高杉が銀八に視線を向けるが表情が崩れることも箱から取り出すしぐさすらもない。それどころか、これ見よがしに煙を肺に入れて深く吐き出した。白煙が青々とした空に溶け込んでいく。
    「未成年喫煙は法律で禁止されてまーす」
    「今更かよ。似合わねェな」
    「最後くらい教師らしいことさせてくれや」
     たしかに言われてみればまともな授業はしたことがなかったし、教卓に立つときは基本的に小学生向け国語の教科書でカムフラージュされたジャンプを読んでいることがほとんどだった。教室でも平気で煙草を吸うし、高杉や土方が吸っている場面に出くわしても基本的に黙認している。相変わらず教師らしくない教師。ただ、高杉の脳裏に浮かぶ姿はそれだけではない。悔しいことに銀八には数度助けられている。教師らしくない教師だが、そんな銀八だからこそ高杉は隣にいた。今のように。しかし、それを口にするつもりはない。
    「なーに笑ってんだよ」
    「なんでもねェよ。まァ、これだけは教えてやらァ。てめェが――」
    「あ! 銀八先生!」
     隻眼を伏せ面白可笑しそうに紡いだ高杉の声を遮ったのは、聞き慣れない軽やかな一声だった。どうやら銀八を挟んだ向こう側から声をかけたらしい。銀八は背筋を伸ばし煙草を簡易灰皿に押し込むと高杉を体で隠すようにして女子生徒と向かい合う。「どうした?」と訊き返す声はひどく穏やかで動揺のひとつもない。
    「高杉さん見ませんでした?」
     突如聞こえてきた自身の名前に、高杉は肩で反応する。背を預けた太い木の幹が幸いして女子生徒からは高杉の姿は見えないらしい。ただ、バレるのも時間の問題だろう。面識のない女子が急に高杉を探しているのだから、要件はなんとなく想像できる。面倒ではあるが、見つかってしまえば対応しなければいけない。銀八の背中の後ろで億劫そうにため息を吐いた、時だった。
    「高杉? 高杉なら攫われたよ」
    「え、攫われたって……」
    「あっち側に行ったんじゃねェかな」
     あいにく銀八と女子生徒のやり取りが見えないのであくまで想像でしかないが、受け答える言葉的に銀八は平然と嘘をついている。高杉が瞠目する傍らで淡々と嘘を重ねていった。しかし、女子生徒は気付くことなく「ありがとうございました」とだけ呟いて踵を返してしまった。先程同様ローファーが草木を踏む音があたりに浸潤した十秒後、卒業式にも関わらず着ていた白衣がそっと揺れた。正直助かったが、揶揄した言葉はどうしたって出てしまう。
    「なに嘘ついてんだよ。最後くらい教師らしいことすんじゃなかったか?」
    「もう教え子が卒業したからいいんだよ。それに……これから俺に攫われるんだから嘘じゃねェし」
    「は、ぎんッ、」
     銀八は高杉を覆うように幹に手をついて、そのまま息ごと唇を深く重ねた。春到来とはいえ、冬特有の乾燥した空気が頬と唇を撫で、がさりと音を立てる。高杉の薄い唇に舌をねじ込んで、ざらりとした舌同士がそれぞれの表面を滑った。突然のキスに崩れ落ちそうになった高杉の腰を抱いて、幹に縛り付けるように自身の体で高杉を挟む。「なァ、高杉」ぴちゃりとなまめかしい水音を立てて離れた唇は銀色の糸を引いて、途中でぷつりと切れた。わずかに双眸に涙をためた高杉がジッと銀八を見据える。これが生理的な涙か、とほくそ笑んで言葉を続けた。
    「お前はどっちの銀さんが好き? 銀時? 銀八? たとえ俺が銀八だとしても高杉は俺を受け入れてくれる?」
     ずっと考えていた。高杉はあの頃の銀時に恋焦がれて一緒にいてくれるのではないかと。銀八は悩んでいた。このまま何も知らないふりをしてぬるま湯に浸かっていた方が幸せなのか、或いはどこかで踏ん切りをつけた方がいいのか。そして結論は、卒業式ではっきりさせるというものだった。
     苦し気に眉間に皺を寄せた銀八の表情に、啞然とした高杉は肩で息を整える。そしてぽつりと云った。
    「どっちもてめェだろ」
    「それは、どういう……っ、たかすっ、」
     高杉の返答に固まってしまった銀八の翠色のネクタイを掴むと、そのまま引き寄せて勢いよく唇を重ねる。銀八の上唇越しに歯が当たり少々痛みを伴ったがそれでも高杉は顔を離すことなく触れ合わせた。ネクタイと同じ翠色の隻眼が銀八を愛おしげに見つめている。やっと唇が離れたのはそれから五秒後で、すっかりと熱を持った唇を肌寒い風が撫でて冷やしていく。先程銀八から仕掛けたキスで高杉が涙を隻眼に溜めていた理由は生理的なものだけではない。嬉しかった。ずっと好きだった男からの愛情表現が。
    「あの頃の俺ァ、銀時が好きだった。そして今の俺は銀八が好きだ。それだと不満か?」
    「……上等じゃねェか」
     はてさて攫われたのはどちらだろうか。後ろで鳴り響く仰げば尊しと吹奏楽部の演奏が、二人の門出を祝っている。


    「その制服もう着ないんだろ? じゃあ家帰ったらその制服のままヤッてぶっかけて――」
    「実家に帰っていいっすか」















    【リーマンパロ】



     志村新八が社内プレゼンツの最終選考に残ったのは入社してから四年目のことだった。

     株式会社銀魂食品は江戸時代末期から続く菓子類製造販売を主とした食品会社で、最近の取り組みは積極的なグローバル化と各年齢層や性別のニーズに答えた製品の着手である。三ヶ月ほど前、開発企画部に与えられた課題は若い女性をターゲットにした新商品を生み出すというもので、新八はさっそく姉の妙と妙の友人らに話を聞き、今回の企画書を企画開発部部長の坂田銀時に提出した。

     部長の銀時以外の全員が企画書を提出しその中の三名が選ばれる。選ばれた三名は各部署の部長や役職を持つ者を集めた社内プレゼンツにて企画を発表し、後の会議の中で二つに絞るといよいよ選りすぐりの企画を着手することになる。今期のボーナスや昇給へのアピールにもなるので、提出の時点で普段よりも皆の本気具合が違うのだから、新八としてはまさか社内最終選考まで残るとは思ってもいなかった。



     遮光カーテンがされた薄暗い会議室にて、新八は手に汗を握りながらスクリーンの前に立っていた。極度の緊張とプロジェクターから放出される熱によってぐんぐんと体温が上がっていく。読み進めるたびに握っていた資料が皺を作っていった。

     目の前の長机には直属の上司である銀時と総務部部長の高杉晋助が座っており、ぼーっと資料を眺めている銀時とは打って変わって、高杉は資料よりも新八の表情やプレゼンテーション能力に重きを置いているように感じられた。時折視線が合うその鋭い閃光に、何度か不自然に体を揺らしてしまったのは言うまでもない。ここにいる部長陣の何人かは銀時の同期なので悪い様にはされないと事前に聞かされてはいたものの、やはり役職を持つ者が集まる会議室というのはどうしても緊張してしまう。

     プレゼンは新八のタイミングで質疑応答が挟まれる。まず手を挙げたのは、広報部部長の桂小太郎だった。
    「宣伝にかかる費用の予算は?」
     企画が選ばれ着手し品物が出来上がったあと、次の課題は商品をどう宣伝するか。一番宣伝効果の高い方法はCMを利用してお茶の間に流すというものだが、その分かかる費用や起用する芸能人などのギャラを考えなければいけない。なにより、交渉に行くのは広報を担当する桂の部署のため、どの企画に対しても予算の確認は必須だった。
    「お答えします。考えている予算は――」
     新八は背筋を伸ばすと、予め銀時と相談していた予算について読み上げていく。銀魂食品の今年の目玉商品となるため、予算に関しては出し惜しみはしない。新八の答えを聞いた桂は、そうか――とひとつ息をついてから再度資料に視線を落とした。どうやら予算に関しては今のところ採用らしい。桂はボールペンですらすらとなにかを記載すると、挙手して言葉を続けた。
    「その予算ならば例えばアイドルの神楽氏などはどうだろうか」
     神楽とは夜兎芸能事務所に所属する駆け出しのアイドルで、先日トップアイドルの寺門通とコラボをしてから人気を博している。
    「先日また、寺門事務所の寺門通とユニットを組んだとの情報があるでござる。HDZ48が宣伝ともなれば女性だけではなく男性ファンの心もつかめよう」
     桂に次いで意見を述べたのは総務部課長の河上万斉。候補として出てきた名前に、新八は思わず出かけた間抜けな声を飲み込んだ。寺門通は新八が長年熱烈に応援している今世のトップアイドルである。まさか仕事で関わるかもしれない事態になるとは。あのお通ちゃんと――。高鳴る心臓をぐっと堪えながらも、耐えられず銀時を凝視した。新八の視線に気づいた銀時は、気だるげな表情を隠すことなく「ま、いいんじゃねえの?」と隣の高杉に意見を求めた。
    「あァ」
     高杉もまた、特に意義はないようで口だけで同調した。コンセプトとターゲットは女性であるものの、男性も興味を持ってくれるのならば関の山、ギャラは跳ね上がるが宣伝効果としては申し分ない。
     周りを見渡してもほかに質問はないようなので、新八は再度背筋を伸ばして大きく息を吸った。
    「ご清聴ありがとうございました」
     





              **

     午前中の緊張感は嘘かと思うほど穏やかな午後。新八は銀時から角印を貰うべく社内の通路を歩いていた。ここ数日残業が続く銀時は、顔をげんなりとさせ自動販売機へと赴いてから帰ってくる様子がない。外回りがない日くらいゆっくりとしてほしいとは思いつつも、角印等のハンコが入っている引き出しの鍵は銀時が所持しているため、せめて鍵だけでももらえないだろうかと連絡をしたのだが音沙汰なし。仕方なくあの背中を探し求めていた。こういう時の銀時は、十中八九自動販売機の前の椅子でうなだれていることが多いので、きっと今もそこにいるのだろうと絨毯の上で革靴の踵を鳴らした。しかし、
    「あれ?」
     自動販売機の前は蛻の殻で、ジーっと稼働音のみが鳴っている。もしかしてすれ違いになってしまったのか。社内用の携帯をポケットから取り出すと、一番上にある履歴から銀時の名前を呼び出して右耳に当てた。プルルと機械音が耳元で響く。「あ、新八からだ」同時に左耳にもひとつの声が聞こえ、新八は目を剥きながらきょろりと辺りを見渡した。もしかしたらまだ近くにいるのかもしれない。声の主を辿るように自然と足が動いていく。
    「出なくていいのか?」
    「んー、五分経ったらな」
    「部下が困ってんだろうが」
     どうやら声はひとつではないらしい。携帯を当てながらも会話に耳を済ませば、辿り着いたのはドアが少しだけ空いた会議室だった。いよいよお留守番サービスになってしまった携帯は再度ポケットに仕舞って息をひそめながら覗いてみる。そこには会議室の窓際に置かれた長椅子に座る銀時と、その銀時の膝に頭をのせていわゆる膝枕をしてもらっている高杉の姿があった。ご丁寧に革靴を脱いで、膝を立てながら目元を腕で覆っている姿からはお疲れの様子が浮かんでいる。銀時いわく、高杉の方が残業が続いており、立場上中々休むことができないらしい。
     まさか二人がそういう関係だったとは。目の前の光景に、新八は見てはいけないものを見てしまった気分に陥る。これならばまだ、高校時代に見た校長の頭が実は鬘だった時よりも背徳感が生まれてしまう。プレゼン時よりもどくどくと暴れる心臓を宥めながら、もう一度そろりと会議室を覗いた。そしてふと、銀時と視線が交わった。びくりと体が揺れる。
    「新八は優秀だからな。俺がいなくても五分くらいなんとかできんだろ。それよりもお前は少し休め」
    「……銀時。五分経ったら起こせ」
    「おう」
     左手で高杉の隻眼に手を当てた銀時は、新八に向けて少しだけ眉を垂らしながら右目を口の前で立たせた。ごめんな――。ぱくぱくと銀時の口が動く。思わず頷いて呼吸を止めながら一目散に駆け出した。徹夜続きの銀時の普段の表情からは想像できないほど穏やかな顔に、新八は走りながらも口許を緩めた。『もう少しゆっくりしてください』オフィスに着いたらメッセージを送ろうと思う。





              **

     浮上した意識にゆっくりと目を開けば、ぱちぱちと視界が弾ける。窓から差し込む陽光の角度に変わりはないものの、体のダルさは随分と抜けたような気がした。視線を壁掛け時計に移せば、銀時に伝えた時間よりも五分ほど過ぎており思わずため息が零れる。
    「おい銀時、起こせって言っただろうが」
     仕事はまだ残っている。小言を挟みながら起き上がれば、こくんっと銀時の体が揺れた。どうやら銀時も寝てしまったらしい。
    「相変わらずあほ面しやがって……」
    高杉は肩を竦めて口角を上げるとそっと上半身を起こす。銀時の隣に並ぶように座って、そして銀時の体をゆっくりと倒した。自身の膝に頭をのせる手つきは酷く優しい。よっぽど疲れているのか、目の前の男は起きる気配がない。
    「五分経ったら起こしてやらァ」
    掬うように頭を撫でると、くるりと指に絡まった。
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